第280話 【真珠】あなたの心の中に
目の前がバチバチとスパークし、視界が更に黒ずんでいく。それと同時に脳天からは、冷や水を浴びたような感覚が表れはじめた。
闇の中に佇んでいるような心許なさが胸の中に広がり、孤独という名の沼に足を絡めとられる。
『主人公』のためにある世界において、わたしは異物――存在自体が忌むべきものなのかもしれない。
そんな不安にとらわれ、動くことさえできない。
わたしは、どうあっても、この世界では独り?――兄と貴志がいれば、立っていられると思った筈なのに。
気持ちが深く深く沈んでいき、苦しさで溺れそうになったところ、その意識を呼び戻すように――ラシードの声が背後から届いた。
「真珠? 眠く……なったのか?」
ラシードの気配を背中で感じ、彼の両手が肩に置かれていることに気づく。
後方に視線を向けると、心配そうにわたしの顔を覗き込む青い双眸とかち合った。
彼はわたしが倒れないよう、背中から支えていたようだ。
「お前は何をしているんだ。しっかり、立て!」
今度は上に吊られるような感覚に気づき、声のした方向へ虚ろな視線をむける。
そこには眉間に皺を寄せる優吾の姿。彼の手が、わたしの二の腕を掴んでいた。
二人の咄嗟の判断によって、転倒を免れたことを理解した。
とても長い時間、暗闇の中で悪夢を見ていたような気がする。けれど、それはほんの一瞬のことだったのかもしれない。
次の瞬間、慌てた様子で走り寄る人影が視界を埋めた。
「真珠、大丈夫か!?」
焦りを帯びた貴志の声が間近で聞こえる。
先ほど視界が暗転した際、耳に届いた彼の声は、わたしの願望が聞かせた幻聴ではなかった。
ふらつくわたしの様子を目にした貴志が、遠くからこの名を叫び、急ぎ駆けつけてくれたのだ。
優吾に支えられた腕とは反対側の手を、貴志に向けてゆっくり伸ばしていく。
わたしの望みを理解した彼は、すぐにわたしに触れてくれた。
貴志の冷たい掌がわたしの手を包み、その瞳にわたしの姿が映る。
触れた貴志の指先が、微かに震えているよう感じたのは、どうしてだろう。
「心配かけて……ごめんなさい。ちょっとフラッとしただけ。貧血かもしれない。でも、もう大丈夫……」
自分にあらわれた症状を、貴志に伝える。
でも、わたしが本当に口にしたかった言葉は、もっと他にある――本当は彼に訊きたかった。
『主人公』に出会って、どう思った?
『宝物』に巡り合えたと、惹かれた?
二人の間に、強い絆を感じた?
――わたしよりも、彼女が大切だと……気づいてしまった?
けれどその言葉を口の端にのぼらせることなく、わたしは唇を噛んだ。
『主人公』に出会いはした。
けれど、貴志は戻って来てくれた。
遠くから、わたしの異変を察知して、駆けつけてくれた。
それだけで充分だと、自分の心を納得させ、言葉を押し殺したのだ。
彼女と出会った貴志は、わたしが間近で触れることを……許してくれるだろうか?
不安に潰されそうになりながらも、貴志の体温をもっと感じたかった。
わたしは、優吾が離した側の手を躊躇いがちに伸ばしていく。
恐る恐る貴志の頬に触れたその手を、彼は振り払うことなく静かに受け入れてくれた。
緊張しながらも、貴志の首に腕を回し、不安を打ち消したくてそっと抱きつく。
「……嫌じゃなかったら、もう少しだけ、こうして……傍にいても、いい?」
出会ったばかりの頃から、貴志はわたしの支えだった。
声を聞き、触れ合うだけで、こんなにも満ち足りた気持ちに包まれる。
だからこそ、彼を失うことが恐ろしい。
わたしはいつからこんなに弱くなったのだろう。
――頼ってばかりで、ごめんなさい。
貴志はわたしの背中を撫で、落ち着かせようとしている。
わたしはその肩に頭を預け、甘える仕草で頬擦りをした。
「お前が望む限り、俺は傍にいるよ―― 一体、何があった? お前に何かあったらと思うと……生きた心地がしなかった」
耳元でささやく彼の声は、少しだけ震えている?
わたしは顔を上げ、貴志から身を起こし、彼の瞳を見つめた。
貴志は掌でこの頬を包み、わたしを黙って見つめ返す。
こうやって、まだわたしに触れてくれるのか――そう思うと、嬉しさと、そこから生じる切なさで涙が膨れ上がる。
潤んだ目元を彼の指が滑り、雫になる直前の熱を拭っていく。
その指先はひんやりと心地良く、動揺していた心が徐々に冷静さを取り戻す。
「いつもの様子と違って――お前が消えてしまいそうで……怖かった……」
貴志の声は、やはり震えていた。
「消えないよ。わたしはここにいる。もう、大丈夫だから」
「大丈夫? そんな顔をしていないだろう?」
わたしは貴志の言葉に、顔を背けるようにして俯いた。
「本当はね、ちょっと……大丈夫じゃない。貴志……ごめん。ひとつだけ、訊かせて?」
彼は「なんだ?」と言ったあと、わたしが質問するのを待っている。
貴志は主人公に出会った後も、わたしを大切に扱ってくれた。
嫌がらず、わたしに触れさせてくれ――そして、自らも、触れてくれた。
けれど、訊かずにはいられなかった。
「貴志……わたしは、まだ……あなたの心の中に……いますか?」
――と。
貴志は目を見張ったあと、切なそうにその秀麗な顔を歪ませる。
――その表情は、誰を想って見せたもの?
「何故、そんなことを訊くんだ? あの夜に、約束しただろう? それさえも忘れたのか?」
貴志の指先が、服の中に隠された『証』に――胸元で光を湛える約束の石に触れた。
『主人公』に出会った後も、わたしに向けられる想いは、愛情のままで本当に変わりはない?
わたしの揺れた瞳に、何かを感じ取ったのだろう。
貴志は突然、その親指でわたしの唇を塞いだ。
後先を考えることなく、咄嗟に触れたと表現した方が正しい――反射的な動きに近かった。
それだけで、彼の気持ちは伝わった。
貴志がわたしに抱く想いは、深い愛情――それは本質を変えることなく、わたしへ向かって真っ直ぐに伸びる想い。
不安から、彼の心を少しでも疑ってしまった申し訳なさと、主人公に出会って尚、こんなにも愛情を注いでくれる歓び――二つの相反する感情が、溢れてはせめぎ合い、この胸を満たしていく。
彼を安心させたくて微笑みを浮かべると、わたしの様子に人心地ついた貴志は柔らかな表情をみせた。
――貴志に、この胸に宿る想いを伝えたい。
わたしは貴志の行動をなぞるように、右手の親指で彼の唇にそっと触れた。
二人で見つめ合い、笑顔を交わした瞬間――
「そこの二人! 何を話しているのか分からないけど、いい加減離れなさい!」
理香の声と、兄の咳払いが同時に届いた。
【後書き】
数ヶ月前、伊佐子&尊のイラストを見たいとリクエストをいただきました。まだ絵を描き始めて2ヶ月位の頃だった為、自分の力量も足りないと感じて描けずにいたのですが、先日曼珠沙華に目が留まり、遅ればせながら描かせていただきました。
リクエストいただき、ありがとうございます。
『彼岸と此岸の出逢う場所』
https://31720.mitemin.net/i499727/
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