第279話 【真珠】愛しき花


「もしもし、加奈ちゃん? 今そちらは、どうなっていますか?――未知留ちゃんの様子は、大丈夫ですか?」


 貴志のことも気になるけれど、逸る気持ちを抑えて、まずは未知留ちゃんの状況を確認する。


 加奈ちゃん曰く、未知留ちゃんの出血は止まったようで、もう心配ないとのこと。


『綾サマに会ったら再発しちゃうかもしれないけどね……まったく未知留にも困ったものだ。心配かけちゃってごめんね。真珠ちゃんは、恐竜展、楽しめた?』


 加奈ちゃんの声は、とても落ち着いている。


 もし貴志に何かあったのだとしたら、こんなに安心した声で話す筈はない。


「ええ、楽しめました。そちらは、何か変わったこと……ありましたか?」


 恐竜展については当たり障りのない回答に留め、核心をつく質問に切り替えていく。


 加奈ちゃんの口から『変わったこと?』と小さな声が洩れる。

 しばらく考え込んでいたようだけれど、そういえば、と言ってから、今まで起きたことを教えてくれた。



『未知留の治療中は、葛城さんが付き添ってくれていたの。その間に、わたしと瑠璃が迷子を見つけちゃって――』


「迷子……ですか?」


『そう、迷子。多分、真珠ちゃんと同じ位の年齢で、とっても可愛い子。その子ね、日本語が上手に話せなかったみたいで、結局、葛城さんに助けてもらっちゃったんだけど』


 迷子の登場と、貴志がエルに連絡を入れた理由が結びつかない。


 仕事中のエルに問い合わせるにしては、些か不十分な呼び出し理由だ。

 そもそも、迷子の対応に困ったからと言って、貴志がエルに電話をかけ、それを受けたエルが助けに向かうとは到底考えられない。


 迷子とは別件で、何か問題が生じていると考えるのが妥当だろう。



「他に何か、変わったことはありましたか?」



 わたしの質問に対して、加奈ちゃんが『そういえば、葛城さん、おかしなことを言っていたな』と呟いた。



「おかしなこと?」



『うん。葛城さんに通訳をお願いした時、『が、迷子?』って首を傾げていてね。結局その子、不安で泣き始めちゃって、瑠璃が急いで抱き上げて宥めたの。それを見ていた葛城さん……すごく驚いていて、突然どこかに電話をかけ始めたんだ――その後『懐かしい匂いのする香水』を、その子にかけて、『どういうことだ?』って不思議そうに首を傾げていたの』



 懐かしい匂いのする香水――おそらく『聖水』だ。



 ことわりの違う魂の揺らぎと、神なる酒精が重なることで見える幻覚。



 ああ、そうだった。

 貴志は相当な二日酔い具合で、まだ少しの酒気が体内に残っていたのだ。



 大人の女性に見えたということは、その迷子は女の子?



 つまり――その子供は、わたしと同じ、異なった理の魂をもつ――『転生者』ということなのだろうか?




「親御さんがすぐに探しに現れたから、その子に会いに来た葛城さんの知り合いの黒いスーツのお兄さんとは、ほぼ入れ違いになっちゃったんだけど。そういえば、その子ね――日本語が苦手だったのは、どうやら夏休みで海外から日本に一時帰国で遊びに来ていたみたいなの」



 一時帰国。

 現在は、海外在住。


 わたしの脳裏をひとつの可能性が過る。


 でも、まだ早すぎる。


 考えすぎだと結論づけ、その選択肢を心の奥に押し込めるが、念のため確認しておこうと質問を口にのせた。



「その子――女の子……ですか? お名前は――」



『うん。可愛い女の子でね。瑠璃が虜になっちゃって本当にメロメロだったよ。お名前も可愛くてね――ウイカちゃん。愛する花って書いて、愛花ういかちゃんなんだって――あ! 真珠ちゃんを入口近くに発見! もう到着するから、電話は切るね』




 時が突然止まったように、わたしは声を出すことさえ出来なかった。



  『<小さな嵐>があわられる』



 エルの声が、何度も耳の奥で木霊のように反響する。




 愛花。


 その名を持つ人物を、わたしはひとりだけ、知っている。




 『この音』の正真正銘の『主人公ヒロイン』。


 

 その名前は――調部しらべ愛花ういか




 彼女が、とうとう貴志の前に現れた。

 いや、それだけではない。目と鼻の先には、兄も晴夏も、ラシードもいる。



 心臓がドクリと跳ね上がる。


 気持ちのたかぶりとは相反するように、わたしの身体からは力が流れるように抜けていく。



 ああ、駄目だ。

 思ったよりも、衝撃が大きい。


 彼女が現れるのは、十年後だと思っていた。


 今日、この科博で、出会うことなど予想さえしていなかったのだ。



 呼吸が苦しくなり、わたしは咄嗟に喉元を抑える。

 空気を吸いたくて、息をしようとするが緊張しているのかうまく行かない。


 気道を締め付けられるような感覚に、フラリと視界がかしいだ。



「真珠⁉︎」

「おい!」



 ラシードがわたしの名前を呼び、優吾の慌てた声が間近で聞こえる。



 何処か遠くから――焦りを帯びた貴志の声が、届いたような気がした。それは、暗転する視界の中、わたしの願望が届けた幻聴だったのかもしれない。



 眼前を覆う闇に浮かぶのは、仲睦まじく身を寄せ合う貴志とヒロイン――調部愛花の可憐な笑顔。

 わたしの恐れが見せた映像だと、頭では理解している。


 けれど、心は――



 喉元にり上がる焼け付くほどの苦しさと共に、目頭には急速に熱が集まる。



「……貴志……」


 ――行か……ないで……。




 譫言うわごとのようにこぼれた言葉は、暗闇の中に吸い込まれていく。



 落ち着いて考えれば、すれ違いのような出会い。


 彼女は、まだ子供だ。


 それは、理解している。


 突然ふりかかった事態に、心が動揺しているだけ。


 けれど、怖かった。


 そして、気になった。




 貴志は、彼女に出会った瞬間――何を思い、何を感じたのだろう。





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