第255話 【幕間・真珠】昔日の『ユーモレスク』


「穂高? 晴夏くんと一緒に休んだんじゃなかったのか?」


 兄の突然の登場に、驚いた父が問う。



「彼は寝ました。僕は皆さんの話し声が聞こえたので、気になって――」


 兄は、そう言いながら母のかたわらに進むと、その手を差し出した。



「美沙子さん、その楽譜――僕にも見せてください」



 母は兄の目を見つめながら、スケッチブックを手渡す。



「ああ、これですね――お祖父さまが時々、一人で眺めていた手書きの……」



 今度は祖父が、茫然とした表情で兄を見つめた。



「まさか、穂高――お前に見られていたとは……まったく気が付かなかった……」



 兄は胸に手を当て、少し俯くと寂しげな表情を見せる――ひとりで楽譜を眺めていた祖父の様子を、思い出しているのだろうか。



昨夜ゆうべも貴志さんに関する大切な話し合いがあると仰って、大人だけで相談をされていましたよね。それからしばらくして……この部屋で、このスケッチブックを眺めるお祖父さまの姿を目にしました。

 いつもと様子が違って――声をかけられるような雰囲気ではなかったので、隠れて覗くような真似をして、申し訳ありません」



 兄の謝罪に祖父は「いや、いいんだ。構わない。気を遣わせたようで、こちらこそ申し訳なかった」と首を横に振る。



「お祖父さまが大切にされているこの手書きの譜面……気になったので、実は今朝、読ませていただきました――この楽譜から伝わる想いの温かさは、まるで……陽だまりのようで、僕にはとても……羨ましかった」



 兄の面に浮かぶのは、少しだけかげりのある笑顔。


 ああ、兄は、おそらく――楽譜と対話する形で、類稀なるその言語能力を、無意識のうちに働かせたのだ。



 昨夜あったという大人の話し合い――そこで祖父は、血の秘密を家族に打ち明けたのだろうか。

 もしかしたら兄は、昨夜の話し合いの場が気になり、その真実を、隠れて耳にしていたのかもしれない。



 兄は、実の母親からの愛情を受けることなく、この年齢まで育つことになった。

 血は繋がらなくとも愛情をもって育てられた祖父とは、また違った思いを抱えていた筈だ。



 そう祖父が祖父のためにアレンジした伴奏譜は、時を超え――兄の心に何を伝え、残したのだろう。




「この曲であれば――僕にも弾けます」



 兄が言い切ると、貴志はチェロを取り出し、演奏するための行動を早速開始する。


 グランドピアノの蓋を開けた兄が、鍵盤を覆う布地を丁寧にたたみ、椅子の高さを調整し始める。


 わたしも貴志と兄に倣い、バイオリンのケースから弓を取り出し、丹念に松脂を塗り込む。



「穂高、音をくれ」


 

 兄が貴志の言葉を受け、Aの鍵盤をポーンと鳴らした。


 それに合わせて、貴志とわたしが手早くそれぞれの愛器の調弦を済ませる。


 祖父母と両親が三人の行動を見守るなか、わたし達それぞれが演奏の準備に取りかかった。



          …




 『ユーモレスク』――



 ドヴォルザークが家族と過ごした夏のバカンス中に構想を練った、八曲に渡るピアノ小品集第七曲目に当たる名曲。彼の代表作のひとつだ。


 人気を博したこの曲は、クライスラーの手によるバイオリン編曲も名高く、今日でも世界中で沢山の音楽家の手により演奏されている。


 難易度のそれ程高くない曲ということに加え、心に沁みわたるメロディは耳に馴染みやすく、それらが年代を選ばず、幅広くの人々に愛される理由のひとつなのかもしれない。




 ――『ユーモレスク』には、あたたかな一家団欒の温もりを感じる。



 もしかしたら、それは、伊佐子の思い出も関係しているのかもしれない。

 子供の頃、この曲が弾けるようになった尊と共に、二人で何度も合奏をして遊んだ、懐かしい記憶があるのだ。




 わたしは目を閉じて、祖父の幼少期を想像する。


 そして、伊佐子が子供の頃、尊と共に楽器で遊んだ日々を思い出し――弦に載せた弓を静かに引いた。




         …




 透き通った音色が、家の中に広がっていく。



 曽祖父がアレンジした楽譜は、バイオリンパートから主題が始まるため、最初はわたしの独奏となった。



 家族で出掛けた行楽の帰り路、

  両親と手を繋ぎ、幸せを噛みしめる。


 そんなひと時を表現するかのような音色。



 わたしが爪弾くバイオリンの主題を受けて、

 貴志のチェロが同じ旋律を慈愛に満ちた音色で包み込む。



  バイオリンは語る。


 楽しかったね――と、今日の思い出を。

 それはまるで、子供が親に甘えるような調べ。



  チェロは伝える。


 楽しかったな――と、子供の言葉に応えるように。

 それはまるで、父と子が穏やかに笑い合う時間。



  ピアノは歌う。


 思い出が増えたね――と、穏やかな声で。

 それはまるで、母の温もりに包まれる安堵の音色。



 輝く一粒の思い出を胸に、家路へと向かう薄暮のイメージが浮かび上がる。



 これは、伊佐子の思い出なのか。

 それとも、兄の伴奏が見せる、祖父の記憶の欠片なのか。



 バイオリンは歓喜を高らかに歌い上げ、

 チェロが子供の無邪気な歌声を穏やかに見守る。



 泣きたくなるような、優しさに溢れた時間を共に過ごし、この幸せな時が永遠であれと、願わずにはいられない。



 けれど――音階の転調は、突然訪れる。



 軽やかな親子の会話を思わせる主題が終わり、激動の季節が家族を襲う。



 チェロの旋律は、嘆きの調べ?

 バイオリンの音色は、慟哭の叫び?



 むせび泣くのは、誰の心なのだろう。




 嗚呼――祖父はこの曲に、幼い頃の幸せな時間と、真実を知ったのちの自らの心の有り様を映していたのかもしれない。


 ――それは祖父の人生そのものを表す調べ。




 兄のピアノは、その心に生まれた悲しみを昇華させるよう、優しい音色を紡ぎ、陽の当たる場所へ導こうとしているかのようだ。




 貴志の呼吸を読むために注視していた視線を、祖父に移す。


 祖父は瞼を閉じ、昔日を思い出しているのだろうか。

 その閉じた瞳からは、涙があふれ出し、その両頬を濡らしていた。


 胸中に鍵をかけて仕舞い込んだ思い出がよみがえり、その心に懐古の声が響いているのかもしれない。




 ピアノの調べに誘われて、子供の心を癒すため、チェロが再び主題を奏でる。


 親の歌声に、落ち着きを取り戻したバイオリンは、チェロの音色をなぞるように同じテーマを歌い上げる。



 最後の数小節。

 そこには、微かな光が見え隠れする。


 これは、わたしの望みなのだろうか。


 そうだとしても、祖父の心が救われることを願わずにはいられない。



 ――ひとりで背負うには、あまりにも重い秘密だった筈だ。




 バイオリンの高音が残響となって空気を振るわせ、光を求める心を揺さぶる。


 チェロの音色が消えゆく調べを惜しむように、希望の音色を手繰り寄せる。


 ピアノの伴奏が幸福な結末へと導くよう、輝きに満ちた未来を指し示す。





  そして――



     訪れたのは、静寂。





 演奏が幕を下ろし、その部屋の中心には――祖母に抱きしめられ、涙を流す祖父の姿が在った。








【後書き】


文字数が多くなってしまいましたが、大丈夫だったでしょうか。

最後まで、読んでいただきありがとうございます!



↓彼らの演奏は、こんな感じで弾いておりました。


https://youtu.be/JZnzjzjYkK0

YO YO MA & ITZHAK PERLMAN

パールマン氏とヨーヨー・マ氏の二重奏。指揮は小澤征爾氏です。

(ドラマチックに転調するのは、1:35からです。この転調後が大好きだったりします)




『バイオリンの王』と名高い

ヤッシャ・ハイフェッツ氏の演奏も載せておきます。

https://youtu.be/uB8mzdO3MnI

Heifetz


パールマン氏がハイフェッツ氏を語ったビデオで、ハイフェッツの才能に打ちのめされるプロのバイオリニストがあとをたたなかったと語っていました。

ユーモレスクをバイオリン編曲したクライスラーが、最初の『ハイフェッツ病』に罹ったバイオリン奏者というお話もあるほどです。


ハイフェッツ氏は「どうしたらそんなに素晴らしい演奏ができるんだ?」と質問されることが多く、その都度「練習です。何度も何度も練習をするのです」と答えていたそうで、ある日、「カーネギーホールへの行き方を教えてください」と道程を尋ねた方にも、「練習です。ただひたすら、練習あるのみ」と答えたという逸話もあります。



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