第249話 【幕間・真珠】疑惑
「美沙子――穂高と晴夏くんは部屋に連れて行ったぞ。それにしても、穂高のあんなに嬉しそうな顔、初めて見たよ。驚いた……」
父がタオルで頭を拭きながら居間に戻ってきた。
「お隣から帰ってきてから、晴夏くんとずっと喋っていたわ。よっぽど楽しかったんでしょうね」
両親の会話が耳に流れ込む。
けれど、その話の内容が頭の中に入ってこない。
いつもならば兄の様子を微笑ましく思い、温かな気持ちに包まれる筈なのに――
わたしの心の中は、先ほど貴志が語った『疑惑』が渦巻き、彼から伝わる重苦しい雰囲気に呑み込まれそうになっていた。
思い詰めたような彼の表情が気がかりで、この心に影を落とすのだ。
…
遡ること、一時間ほど前――納涼花火会から早めに引き上げたわたしたちは、自宅へ戻ると順番でお風呂に入ることになった。
誠一パパと、
が、幸いなことに父はまだ帰っていなかったので、安堵したわたしは祖母を誘ってお風呂に入ることにする。
そろそろ父が帰ってくるとの母からの情報により、兄と晴夏は父が帰宅次第、一緒に入浴するようにと母から伝えられていた。
祖母との入浴後、爽快な気分で居間に向かうと、貴志も既に風呂上りだったようでスパークリングウォーターで喉を潤す姿が目に入る。
今日は貴志と晴夏の二人が泊まることになったので、木嶋さんが客用のバスルームも準備してくれたらしく、貴志はそちらを使用したとのことだ。
父と祖父もその後すぐに帰宅し、それぞれが家族風呂と客用風呂に向かう。
父はわたしが既に風呂上りだと気づくと残念そうな表情を見せはしたが、兄と晴夏を誘って三人で客用風呂に向かった。
男性四人が風呂に行き、木嶋さんと母は父と祖父の為に夕食の準備を開始する。
祖母は風呂上りのため、今頃寝室にて基礎化粧の最中だろう。
わたしは貴志に手招きされ、彼に近づくとスパークリングウォーターを手渡された。
風呂上がりで喉が乾いていたので、お礼を言ってから、そのままコクリと口に流し込む。
貴志の隣に座ろうとしたところ、彼から神妙な表情で「話がある」と言われ、わたし達は客間へと移動した。
…
「真珠、お前が穂高と話した内容も気になるが、その前に確認しておきたいことがある」
静かに問われ、わたしは首肯する。
改まって、どうしたのだろう?
不思議に思いはしたが、首を傾げて貴志の言葉を待つ。
「今日の昼間、エルと電話で話をしている時に、ある疑問が生まれた――エルにも確認をとったが、あいつも明確な答えを出せなかった……」
貴志は何故か気遣わしげに、この頬に右手で触れた。
掌の心地良い温度に、わたしは頬ずりを返す。
「答えたくなければ、答えなくてもいい。お前は……父さんや、
そこで貴志は少し
「親族を疑うのは心苦しいが……嫌な思いを……つまり――虐待を受けたことは……あるか?」
――と。
一瞬、何を質問されたのか、まったく分からなかった。
けれど、瞬時にその意味を理解し、反射的に返答する。
「……へ!? あるわけないでしょ?」
酒の席――おそらく貴志は、エルが注意喚起を促してくれた話のことを言っているのだ。
酒精を口にした男性が捕らわれると言う、揺らぐわたしの魂が見せる一種の幻惑。それによって理性を奪われるという、よく分からない現象のことだ。
この口ぶりから察するに、この虐待とは――アチラ方面の幼児虐待のことを指しているのだと思う。
貴志の突拍子もない質問に、わたしは茫然となりながら、祖父と父にかけられた疑惑を払拭するべく声をあげた。
「無い無い! あり得ない! すごく大切にしてもらってるよ。行き過ぎなほどに」
しかも誠一パパは、頭を抱えるほど真珠に激甘だった。
わたしの態度に、貴志はホッと息を吐く。
「――良かった……お前が傷つけられるようなことが起きていないのなら、それでいいんだ。おかしなことを訊いて……悪かった」
貴志から謝罪を受ける。
心配してくれたことは素直に嬉しかったので、わたしは首を左右に振った。
思案顔をする貴志が気になり、わたしは恐る恐る彼の名を呼ぶ。
「貴志?」
彼は俯いたまま、胸元のシャツをクシャリと握りしめた。
「魂の揺らぎとは言っても近しい親族には影響しないのではないか? というある程度の予測はエルと共にしていたんだ――もし、影響するとしたら、それは――真珠にとって、生き地獄だろう……と」
貴志の言わんとしていることは、分かる。もし、そんなことが起きようものならば、間違いなくこの世の地獄だ。
酒の出る宴席にあまり参加したことはないけれど、『星川リゾート』の千景大伯父や、父・誠一方の祖父、それに父の
その時には、何も起こらなかったし、わたしの身に危険が迫ったことも一度たりと無い。
でも、それは単に『伊佐子』が、わたしの中で目覚めていない時期だったから――そう思っていた。
貴志は何を考えているのだろう。
「『伊佐子』は単に眠っていただけだ――お前が生まれた時から存在自体は『在った』筈――だから幼い頃から影響を受けていてもおかしくはない……と、エルはそう言っていた」
貴志のこの口ぶりからすると、エルも相当心配をしてくれたのだろう。
「そこで……不躾ながら、先ほどの質問をした。万が一にも、そんな事が起きていたとしたら……この家にお前一人を残して、離れるわけにはいかないと――そう……思ったんだ」
エルもそのことに思い至ったのは、今日の昼間の電話の時だったらしい。
男性を惑わせる範囲が確定しない状況では、家族でさえも危険になる可能性があるかもしれないと、二人でかなり焦った――と、貴志は教えてくれた。
そして、今迄の経過も調査する必要があるかもしれないと判断され、念の為、わたしに確認をとったようだ。
「エルの考えでは、おそらく父親や祖父、兄弟には影響を及ぼさないのではないかとのことだが、確定していない状況なんだ。だから、どこまでが安全で、どこからが危険なのか、見極める必要もある――現に……血縁的には美沙の従弟である俺は……影響を受けている」
わたしは過去、出席した親族の集まりを思い出す。
月ヶ瀬家は子宝に恵まれにくい家系だったようで、それほど多くの親族はいない。本家とは名ばかりで、親戚も数えるほどだ。
対して、父・誠一方の親類は多く、何度か酒宴に招かれたことがあった。
「宴会に出席したことは……二、三度あった気がする。誠一パパの異母弟とその従兄弟には、遊びでお酌をしたこともあるよ。でも、誰からも、そんな目で見られたことはないし、怖いこともされなかった」
わたしの答えに、貴志の動きが止まる。
「それは……本当か? その間柄に間違いはないのか?」
わたしは静かに頷いた。
「間違いはないと思う。誠一パパが『複雑な家庭なんだ』って、少し困った顔で教えてくれたから、かなり記憶は鮮明なんだ」
貴志は「義兄さんの……従兄弟?」と呟いてから、考えこむようにして押し黙ってしまう。
あれ?――父の従兄弟が影響を受けないのならば、血縁としては母の従弟にあたる貴志が何故、わたしの姿に幻惑されたのだろう。
「エルも、どの程度の血の濃さまでが影響を受けずに済むのかは分からないと言っていた。だが、お前の話を信じるならば……美沙の従弟にあたる俺は、惑わされることはない筈?――何故、俺は……お前の姿に何度も惑わされた? これは……一体どういうことなんだ?」
貴志の疑問が、二人の心に波紋を広げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます