第219話 【真珠】真珠の初恋


 ふわふわ、ゆらゆら。

 身体が揺れる。


 とても気持ちが良くて、わたしはうふふと笑う。


 ああ、夢を見ているんだな。

 この心地良さは、貴志に抱きかかえられている安心感。


 目の前には貴志の顔がある。

 いつ見ても、どの角度から見ても、美しい容姿は健在だ。


 実のところ、わたしが心惹かれるのは、その華やかな見た目に隠されてしまう彼の実直さと己を律するストイックな気質なのだが、それを伝えたことはまだない。


 何よりも――わたしの幼い外見にも関わらず、中身の年齢で対等に扱ってくれる懐の深さと、溺れるほどの慈しみでもって接してくれるその心が、尊いのだ。


 そして、彼はわたしを大切に想うことを『隠さない』と言ってくれた。その潔さが、わたしの心を常春とこはるの楽園にかえる。



 自宅へ戻るドライブ中だったことを微睡まどろみの中で思い出し『この夢よ覚めないで』と祈りながら、慣れ親しんだ縦抱きの姿勢で、彼の首に腕を絡める。


 お昼寝時に毎回、貴志の現れるこんな夢を見ることができたら幸せなのに。


  ――夢の中であれば、頬に触れても怒られないかな。


 そう思いながら、わたしは唇を貴志の頬に寄せ、チュッと音を立てて口づけた。


 夢の中の貴志は、少しだけたじろいではいたけれど、文句は言われずデコピンもしてこない。


 さすが、己の願望が見せる夢。

 自分が望む展開を、自由自在に操れるのかもしれない。


 なんて素敵なのだろう。


 これは――こうなったら、どさくさに紛れて唇に触れてしまっても……セーフなのではないか?


 わたしの心の中で、天使と悪魔がせめぎ合う。

 けれど、今回ばかりは一瞬で悪魔に軍配が上がってしまった。


 夢なら問題ない。

 存分に堪能したまえ!――と、悪魔なわたしが、そそのかす。


 まさしく悪魔の囁きだ。


 頬が緩み、これはチャンスとばかりに唇を貴志のそれに寄せていく。

 が、残念なことに、唇が重ねられようとした瞬間――突然慌てはじめた貴志の大きな手が、わたしの口元をサッと覆った。


 ガードは相当固いらしい。

 やはり夢の中でも駄目なのか。


 一生できないのではないかと、ちょっぴり悲しくなる。


 同時に、ズルッこしようとしたことを反省し、涙目にもなる。


 わたしは彼の名前を呼びながら、その首筋にすり寄った。


 けれど、何故か身体は背後から抱き留められるようにして、貴志から離されようとしているのだ。


 どうして……?


「イヤ! 貴志がいい!」


 わたしは涙声で叫び、彼に向かって必死に手を伸ばす。


 貴志は少し驚いた表情を見せた後、微笑みを浮かべ、再びわたしを抱き上げてくれた。


 安堵の吐息が洩れ、貴志に必死でしがみつく。


「貴志……大好き……」


 そう囁いて、彼の首元に隠れて唇を押し当てた。


「ずっと……ずっと、一緒にいてね」


 貴志に微笑みを返し、それだけ伝えると、わたしの意識は再び遠ざかっていった。



          …



 目を覚ましたのは、自室のベッドの上。


 いつの間に、運ばれたのだろう。


 およそ十日振りに戻った自宅の匂いが鼻腔をくすぐり、懐かしさと安心感で心が満たされる。


 着替えの詰められたバッグも部屋の隅に運ばれ、身体の上には聖布がかけられていた。


 まだ朦朧とする頭でむくりと起き上がり、軽く伸びをしてからベッドを降り、貴志の姿を探す。


 眠さと気怠さが抜け切れない身体に聖布をフワリと羽織り、わたしは廊下に出た。


 二階には誰もいないようだ。

 一階に降りようと階段に差し掛かったところ、階下から人の気配と共に、話し声が届いてきた。


 会話の内容までは分からないけれど、それは居間から聞こえてくる。



 ポテポテと歩きながら、開け放たれた居間の扉をくぐり、わたしはソファーに横になった。


 大人たちはダイニングテーブルに座り、お茶を飲みながら話し込んでいるようで、わたしが現れたことには全く気づいていない。


 父と祖父は、この場にはいない。

 今日は平日だ。

 おそらく既に仕事に出ているのだろう。



「貴志、昨日は一日、真珠の世話を任せちゃったみたいで悪かったわ。あの子、相当あなたに懐いているって、お母さまと誠一さんの二人から聞いていたけど、さっきの様子を見て、本当に驚いたのよ。良くしてくれたみたいで、ありがとう。手は、焼かなかった?」


 美沙子ママの声だ。


「いや、特には」


 貴志が短く答えると、今度は祖母が嬉しそうに笑う。


「真珠は貴志が大好きだものね。誠一さんもうちの人も、今回のこの騒動で『一時的な救済措置の婚約』とは言っていたけれど、真珠は喜んでいるんじゃないかしら? 身内の贔屓目を抜いても、あの子――将来は相当な美人さんになるわよ。若いお嫁さんをもらうのもいいんじゃない?」


「お母さま、貴志にだって選ぶ権利はあるわ。まだ真珠は小さいし、年齢を考えたって、貴志が待っていられないわよ」


「そうかしら……、わたしは貴志と真珠の出会いの話を聞いた時に、運命を感じてしまったのだけれどね」


「浅草寺での件? わたしも驚いたわ。そんな偶然があるのかって。まあ、まだまだ先のこととはいえ、実際問題――よく分からない人間を月ヶ瀬に迎え入れるのも、嫁がせるのも、リスクはあるから、貴志に任せられたら気楽でいいけど、こればっかりは……ねぇ」


 茶器が触れ合う音が聞こえ、三人は喉を潤しているようだ。


 祖母が、笑いながら言葉を紡ぐ。



「あの子、貴志が『初恋』なんじゃないかしら。先週の『天球』滞在中、みるみる綺麗になって行くから、何事かと驚いていたんだけど――昨日一日離れただけで、また雰囲気が大人びてしまって……幼いなりに貴志に好かれようと必死に頑張っているのね。いじらしくて可愛いわ、本当に」



 祖母の言葉を受けて、今度は母が笑い出す。


「でも、さっきの……貴志のあの慌てようったら。ふふっ ごめんなさい、ちょっと、笑いが止まらない……うふふっ ふふっ いかにも女性慣れしてますって顔してるくせに、真珠にキスされそうになって、あの咄嗟のガード……ふふっ ちょっと……あの子に注意をしないといけないわね」


「美沙子、まったく、何を言っているの。注意をするのは、あなたと誠一さんですよ。あなた達二人が、四六時中、親の前でも子供たちの前でも、所かまわずに抱き合ったりキスしたりしているから、真珠が真似をしているんですよ。夫婦仲が良好なのは素晴らしいことだけれど、家の中とはいえ、子供たちの前では少しわきまえなさい」


 祖母が母にチクリと釘を刺している。


 あれ?

 先ほど夢だと思っていたのは、現実も混じっていたの?

 わたしは、母と祖母の前で、貴志に本当にキスしようとしていたのか?


 まだボーッとする頭で、そんなことを考える。


「母さん、それよりも、美沙の体調は? 寝込んでいると聞いていたから心配していたんだ――見たところ、元気そうで安心したが……」


 貴志が話題を変え、母の容態を確認する。


 そうだ――わたしも気になっていたのだ。


 昨日のラシードとのプレイデート。

 本当は母が付き添う予定になっていたけれど、体調不良で貴志が代理になったと聞いていた。

 そんなに体調が悪いのかと心配していたのだが、今の会話を聞く限り、重病というわけではなさそうだ。


 薄目を開けて、ソファーの背もたれの陰からコッソリ様子を覗くと、母と祖母が嬉しそうに顔を見合わせている。



「実はね、まだ病院には行っていないからハッキリしてはいないんだけど、家で検査をしたら……三人目――授かったみたいなの」



 母の幸せそうな声が響く。


 三人目?

 どういうこと?


 最初、何のことを言っているのか分からなかったけれど、両親の仲睦まじさを思い出し、ガバリと起き上がる。



「わたし……お姉さんになるの?」



 茫然とした呟きが居間に響き渡り、三人の視線がこちらに集まった。


「真珠? あら……いつの間に、そこに来ていたの? こちらにいらっしゃい」


 母がわたしのことを手招きする。




 『この音』では、一切登場しなかった――いや、存在すらしなかった『月ヶ瀬家の末っ子』――それが母のお腹に宿ったという。




 わたしの登場によって、良好な夫婦仲を再び築くことになった両親。

 二人はまだ若く、経済的にも恵まれている家庭なので、子供が増えたとしても、何らおかしいことはない。



 わたしに弟か妹ができるのか。

 生まれてきたならば、大切にしよう。


 そう――伊佐子が尊を可愛がったように、姉として、その末っ子に愛情をたっぷり注ぎたい。









【後書き】




次話、

【真珠】『貴志の婚約宣言』 前編

は19:10更新予定です。




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