第220話 【真珠】貴志の婚約宣言 前編
「お母さま、お腹を……触ってもいいですか?」
母が笑顔で首肯し、わたしの背中を抱き寄せてくれた。
おそるおそる、母のお腹にそっと触れる。
まだ膨らみはないけれど、ここに新たな生命が宿っていることが不思議だった。
「……男の子?」
わたしは直感で、その性別を口にした。
「真珠は、弟だと思うの?」
母の問いに対して静かに頷くと、今度は祖母がわたしの頭を撫でる。
「小さい子供には不思議な力があるっていうから、もしかしたら合っているかもしれないわね。ほら、そういえばこの前、羽柴さんのお嬢さんもまだご懐妊が分かっていなかったときに――」
母と祖母は、二人で性別についての話に花を咲かせる。
――弟。
わたしは尊のことを思い出す。
彼は今頃、何をしているのだろうか?
凱旋コンサートの後、話をする約束をし、手渡すつもりだった手紙がわたしのバイオリンケースの中に入っていた。
あの手紙は、無事、彼の手元に届いたのだろうか。
そして、あのコンサート会場に顔を出してくれた恩師ルーカス――彼の自宅で同居していた数か月。あの部屋に残ったわたしの私物はどうなったのだろう。
片づけや事後処理に追われ、尊もルーカスも両親も友人たちも、悲しむ間もない毎日を送っているのかもしれない。
突然、一人の関わりある人間が、消えたのだ。
自分が見送る側だったとしたら、その悲しみは計り知れない。
わたしは見送られる側であったけれど、彼らに笑顔が戻ることを、この世界から祈ることしかできない。そのことが歯痒くもあった。
遠い目をして、過去に思いを馳せた瞬間――貴志と視線が交差する。咄嗟に、ひきつった笑顔を返すだけで精一杯だった。
姉になる喜びと新たな生命の躍動を感じる心。それと共に、失われた過去への苦い郷愁が入り混じり、複雑な感情を顕わにしていたのだと思う。
「真珠?」
わたしの様子を心配した貴志が立ち上がる。
自分の存在の儚さを思うと心許なくなり、繋ぎとめてほしくて、わたしは手を伸ばし彼を求めた。
貴志に抱きしめてもらうことで、自分がここに『在る』ことを認めてもらいたかったのだ。
「ごめんなさい。少し……以前のことを、思い出して……」
貴志の耳元で、彼にだけ聞こえる小さな声で囁く。
まだ疲れが完全に抜けていない。
おそらく睡眠不足で、心が弱っているのだろう。
「部屋に戻って休むか?」
貴志の問いに、わたしは首を左右に振った。
「今は一人になりたくない。ここで、みんなの近くにいたいの。ソファーで横になっていてもいい?」
わたしの願いを受け、貴志はソファーに移動する。そこに横たわりながらも、わたしは彼の首に回した腕を離せずにいた。
貴志はわたしの頭を撫で、落ち着かせようとする。
自宅に戻ってホッとしたからだろうか、安堵で涙腺もゆるくなっているのかもしれない。
涙がぽろぽろとこぼれて止まらない。
「少し休めば落ち着くだろう。お前は熟睡すると、いつも元気に復活するからな。その頃には昼食の時間だ。昼飯を食べれば、更に元気になる筈だ。穂高もそろそろ帰ってくる」
深く息を吸い込み、わたしは貴志から腕を離した。
手を上に向けると、彼がわたしの小さな手をとらえ、優しく握ってくれた。
貴志が微笑みながら、ひんやりした指先でこの頬を流れる涙を
「ありがとう……もう大丈夫。時々、思い出しちゃうけど、しっかり前を見ないと……」
わたしは泣き笑いを浮かべながら、彼の腕を胸元で抱きしめた。
貴志の顔を間近で見て、先程の夢を思い出す。
正確には夢だと思っていた現実だ。
彼には、謝らないといけない。
夢だと勘違いしたわたしは、母と祖母の前で唇を重ねようとして、彼を困らせたのだ。
「貴志、さっきはごめんなさい。夢の中だと思っていて……でも、お母さまの言葉で、現実だと知ったの……」
寝惚けて口づけしかけたことを謝罪をすると、貴志の動きが固まり、次いで、少し困ったような照れたような――微妙な顔を覗かせた。
「あれには……参った……が、気にするな。さっきの行動で、お前の変わりようを美沙も母さんも納得するに至ったから、結果的には問題ない」
変わりよう?
訳が分からず、貴志を見上げる。
わたしの疑問を察知した彼は、逡巡してから教えてくれた。
「お前は……とても綺麗になった。周りが目を見張るほどの変わりようだ。だから、ホテルを出る時に、美沙と母さんに気持ちを看破されると、言ったんだ」
貴志の言葉に、頬が熱くなるのを感じた。
耳まで赤く染めかえられてしまうほどの、威力ある言葉だった。
彼も、わたしのことを多少なりとも綺麗だと思ってくれたのだろうか。
「貴志も、そう思ってくれる? もしそうなら……嬉しい……」
涙を両目にためながら、はにかんで笑う。
彼はわたしの髪を梳き「泣くのか、笑うのか、どちらかにしろ」と、少しぶっきらぼうな言葉を洩らす。
相変わらず照れ隠しは上手くない。
けれど、それをとても愛しく感じるのだ。
交わす囁きは、とても微かな声量で、二人の間しか届かない。
おそらく周囲からは、
ふと、食い入るような視線を感じ、ダイニングテーブルに目を向けると、先程まで子供の不思議な力や性別についての話に夢中になっていた母と祖母が、こちらを注視していた。
二人が、わたし達の様子を興味津々で見つめていることに気づいたのはその時だった。
【後書き】
次話、21:10更新予定
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