第179話 【真珠】貴志とエルの『コンチェルト』 1


 さて、演奏の準備は整ったのだろうか?


 そう思って貴志を視界に入れると、彼はこちらを向いたまま額に手を当て、何故か呆れ顔で溜め息をついていた。


 エルは無表情でこちらを見ているため、何を考えているのか全く分からない。

 わたしと目が合った途端、彼は微かな笑みを口元に刻んだ。けれど、すぐにピアノの鍵盤へと視線を移してしまったのだ。



 そういえば、彼等はこれから何を弾くのだろう。

 そう思って問いかけようとした時、ふと気になったことがあったので質問してみることにした。



「ねえ、エル。昔、貴志と『友情の祝福』を結んだときは、何を演奏したの?」


「ヘンデルの『ブーレ』……だ」


 わたしの問いに答えたのは、貴志だった。




 ピアノに視線を落としていたエルがはじかれたように顔を上げ、貴志を凝視する。


 目を大きく見開いたエルは、言葉もなく、ただただ貴志を見つめるだけだ。


 胸元に手を置き、振り絞るようにして出した声で、エルは貴志に問う。



「貴志……お前、思い出し……?」



 それに対して、貴志は静かに首を振った。



「いや、すべてではない。お前から『祝福』を受けた時に――断片的に思い出しただけだ」



 貴志の科白を聞いたエルは、手の甲を口元に当て、どこか嬉しそうな表情をのぞかせた。



「それでもいい……断片的だとしても、思い出してくれたことを……感謝する」



 背中から、ラシードが息を呑む音が伝わる。


「どうしたの?」


 不思議に思って問いかけると、ラシードの唖然とした声が耳奥に届く。


「兄上の、あんなに嬉しそうな顔を目にしたのは、初めてかもしれない」


 確かにエルは喜んでいるように見えた。



 今まで彼を包んでいた雰囲気とは異なり、相好を崩した彼は、とても親しみやすい青年のように映る。



 貴志とエルは二言三言、言葉を交わした後、これから弾く曲について相談を始めた。



「貴志、何を弾くつもりだ? お前が今まで参加したコンペティションで演奏した曲であれば、大抵は伴奏可能だ」



「は? それは、どういう……?」



 貴志は困惑の様相を見せ、エルは少しバツの悪そうな表情になる。



「いつか――お前と再び巡り合う機会を得た時、共に演奏をしたいと思っていた。……ああ、だが言っておくが、お前のことを調べていたのは私ではないぞ。フィーネだ」



「ラフィーネが!?」



 貴志が驚いて声をあげる。



「そうだ。フィーネなりに反省をしていたからな。私が『友情の祝福』を与えた相手――お前の記憶を失わせてしまったことに対してな。

 それが理由で、フィーネは腹心の友を未だに作っていない。姉は意外と義理堅いところがある――あいつは、男よりも男気のある女だ――この件だけは、私に対してもお前に対しても、かなりの負い目があったようだ」



 貴志がエルの話に耳を傾けていたところ、エルが『そうだ』と言って居住まいを正した。



「今日、お前の部屋に内線電話をかけて服装指定をしたのは、頼みたいことがあったからだ」


「そう言えばそんなことを言っていたな。その頼みとは何だ?」



 もともとプレイデートを兼ねた謁見だと認識していたので、わたしも貴志も準礼装で臨むつもりで準備をしていたのだ。


 そこにエルから連絡が入り、ラシードと激突時の服で訪問するよう指示されたことを思い出す。



 エルからの頼みとは、いったい何なのだろう。



 わたしは二人の会話に興味を持ち、身を乗り出そうとしたのだが、その途端グイッと後ろに引き戻される。


 そうだった。

 失念していたが、背中にはラシードが張り付いていたのだった。



「ああ、フィーネからの指示で、『貴志と共にフィーネ《わたし》の婚約祝いを買って来い』との仰せだ。なんでも有名なショコラティエが都内の百貨店内に店舗を構えたそうで、チョコレート好きのフィーネはそれをご所望だ。後で外に付き合ってもらうぞ。台風時の地下鉄の運行状況も知りたかったので、ちょうど良い」



 貴志がフッと柔らかな眼差しで笑う。



「ああ、お安い御用だ。ラフィーネが婚約か。それはおめでとう。

 ただ、夕方までにはホテルへ戻らくてなくてはならない。重要な会議が開かれるので、そこに出席するように言われているんだ」



 エルが壁にかけられた時計を確認する。

 午後一時を回ったところだ。



「では、早速、シェ・ラへ音の奉納を始めるとしよう。で? 貴志、何を演奏するつもりだ?」



 貴志は少し考えるような素振りを見せてから、悪戯な笑顔をのぞかせた。




「ラロ――チェロ・コンチェルト」




 エルは頷きながら、記憶の抽斗ひきだしから情報を取り出してるようだ。



「……お前が昔、コンペティションで入賞した、あの曲か? たしか第三楽章だったか?」



 貴志は『よく知っているな。もう何年も前のことなのに』と、驚きの表情を見せた後、言葉を継いだ。



「入賞した演奏は第三楽章だが、今日お前と弾きたいのは――第一楽章だ」


 エルは怪訝そうな顔をする。



「第一楽章? あれはオーケストラ部分にあたるピアノ伴奏のほうが華やかな曲だろう? チェロ協奏曲だがピアノ伴奏も表に出る曲だぞ。いいのか?」



 貴志は口角を上げて、しっかりと頷いた。



「それでいいんだ――いや、それがいいんだ。あのオケの旋律を、お前のピアノで聴いてみたい。それに――」



 そこまで言うと貴志は楽しそうにクッと笑う。



「それに――この楽章の弾き出しの序章は、今日のお前との出会いを彷彿とさせるんだ」



 『何だ、それは』と言いながらエルがタブレットを取り出し、フォルダーから伴奏譜を探し始めた。



          …




 先ほど、ラシードがわたしとの『友情の祝福』の誓約のためシェ・ラに捧げた祈りの言葉を、同じようにエルも紡ぎはじめる。


 穏やかな低い声が、歌のような旋律にのせられ、部屋の中へと広がっていく。



 貴志は心地よさそうに瞼を閉じ、エルの声音に耳を傾けている。



 祝詞のりとが終わると、彼等は視線をあわせて頷きあう。



 わたしは息を呑んで、二人の演奏の開始を心待ちにした。




 ――エルの長い指が、ピアノの鍵盤に触れる。




 それと同時に、追い立てられるような緊迫感あふれるff《フォルテシモ》が、わたしの心を襲った。






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