第180話 【葛城貴志】貴志とエルの『コンチェルト』 2
「お願い……貴志。今日の夜、少しだけでいいの、時間をとってほしい……」
俺の首に腕を回したままの姿勢で、真珠はそう囁いた。
…
エルからの祝福を左瞼に受ける直前、両の
――その肩を抱き寄せたのは、咄嗟のこと。
身体が勝手に動き、気づくと彼女は俺の腕の中にいた。
彼女の覚悟を決めたような声が、ひどく印象に残る。
俺は何も問い返すことなく、その懇願に対して『ああ、わかった』とだけ返した。
…
少し離れた位置に座る真珠を、一度視界に入れる。
彼女の背中には、シェ・ラ・シード王子。
彼は真珠の背後から覆いかぶさるように抱き着いて、こちらに挑むような視線を向けてくる。
ラシードにとって真珠は、手中に収めた宝玉に等しいのかもしれない。
独占欲の塊とも言えなくはないが、その根底には純粋な彼女への思慕がある。
生まれたばかりの想いを隠そうともせず、真珠へと向けた真っ直ぐな気持ちは清々しくもあった。
真珠は全く気付いていないようだが、ラシードが彼女に向けるのは、誰が見ても一目瞭然の想いだ。
間違いなく何か問題が起きる――昨夜、穂高と二人で警戒したことを思い出す。
二人の懸念がこうまで当たってしまうとは……いや、予想はしていた。が、正直ここまでの執着を受けるとは想定していなかった。
ラシードは誓約によって手に入れた大切な宝を、手放すまいと必死なのだろう――たとえそれが、『友情』による『祝福』に変わったのだとしても。
そんなことを考えながらチェロのチューニングを済ませ、ソファに視線を向けたのは偶然のこと。
まさにその瞬間だった――ラシードが真珠の右頬に口づけを落としたのは。
それを目撃した俺は、思わず自らの動きを止めてしまった。
子供同士であればこそ許される行動を微笑ましいと片づけることもできたが、釈然としない気持ちを抱えたのも、また事実。
真珠はラシードが触れた頬を擦り、首を傾げている。
あの様子では、自分の身に何が起きたのか理解できていない。
彼女は怪訝な顔をしながら俺を見、次いでエルに視線を移した。
エルからも軽い動揺が伝わったが、その
エルは否定するだろうが、真珠に対して心惹かれる何かを感じているのは間違いないようだ。
彼の言動の端々から伝わる彼女への想いと気遣いは、既に魂の一部のみへと向けられたものではない。
そう遠くない未来、彼の中でも何かが動き出すような気がする。
これは単なる予感だが、あながち外れてはいないだろう。
その後も真珠は、まるでラシードの姉か母親にでもなったつもりで甲斐甲斐しく世話を焼いている。
彼女のその態度からも分かるように、やはりラシードの気持ちにはまったく気づいていないようだ。
これは、先が思いやられる――俺は額に手を当て、溜め息をついた。
…
エルと演奏する曲目について言葉を交わす。
フランスの作曲家エドゥアール・ラロの『チェロ協奏曲 ニ短調 -Cello Concerto in D minor-』
ラロの代表作のひとつである『スペイン交響曲』の雰囲気を感じさせるこの曲は全三楽章から成り、チェロ奏者のアドルフ・フィッシャーに献呈された名曲だ。
太陽神シェ・ラへの音色の奉納のために二人で奏でる調べは、第一楽章プレリュード――この旋律の弾き出し部分は、今日のエルとの出会いを彷彿とさせるのだ。
だが、選択した理由はそれだけではない。
何よりも、オーケストラ演奏に相当するピアノ伴奏パートが華々しく演出される楽章なので、彼が爪弾く音色を心ゆくまで楽しむことができると確信したからでもある。
ピアノの前に座すエルと視線を交わし、互いの準備が整ったことを確認する。
二人で軽く頷きあったのち、俺は瞼を閉じてピアノの演奏開始を待った。
彼の動きを心で感じ、その呼気が耳に届くと同時――
――心を揺さぶる低音が、エルの指先から生み出された。
渾身のff《フォルテシモ》で語られる序章――これから訪れる嵐を予兆させる旋律は、人知を超越し、どこか神々しさを漂わせる。
轟く雷鳴にも似た緊迫の調べがその場を支配したかと思うと、突然稲妻を想起させる鋭い高音が天空より落とされる。
――繰り返される
俺は静かに息を吸い込み、弓をそっと弦に置く。
チェロの独奏、初音はf《フォルテ》――ピアノ伴奏が休符に入り、チェロの音色のみで語られる導入部分を、丁寧に、かつ存分に響かせる。
これは困惑と
そこに宿るは、焦燥の想い。
絡みつく調べは、何を求め、この心に
ああ、真珠のあの眼差しが脳裏をよぎる。
何かを諦めたような、儚さを秘めた微笑みがこの心を掻き乱す。
彼女は、いつか、この手からすり抜け、俺から離れていくつもりなのかもしれない。
――この心は、彼女と共にあればこそ、鮮やかに彩られるというのに。
これから先、花開くように美しさを増す彼女は、巡り合うどれほどの人の心を虜にするのか。
数多の『運命』たちは彼女に焦がれ、その身も心も得ようと、情熱の限りの想いを注いでいくのだろう。
もしも彼女が、新たな出会いを選び、その『運命』と共に歩む未来を望むのならば――
――俺は、この『掌中の珠』を手放す選択ができるのか?
新たな『運命』に惹かれ、彼女がその相手と共に生きると望むのであれば、潔く身を引くのが己のつとめ――愚かにも、そう思っていたこともあった。
けれど、今――既にこの心は、彼女のすべてを求めている。
――ああ、無理だ。
到底、手放すことなどできない。
分かっている。
中身が大人だとはいえ、これは、幼い少女に対して抱くべき慕情ではない。
周囲からみれば愚かしく映る想い。
滑稽な道化――そのものだ。
彼女がただの子供であれば、
あの時出会わなければ、
人を愛する心など、
永遠に知ることはなかったのだ。
はっきりと言える。
彼女以外で、この心を動かす存在など――現れる筈もない。
まるで虜囚だ。
この身も心も、彼女に捕らわれているのだ。
手に入れることのできない愛しい者の心を、ただ
苦悩と悲痛が混濁した旋律が、弓先から生まれ落ちては消えていく。
沈みゆく心を拾い上げようと、ピアノの音色が幾度となく『この手を取れ』と語りかける。
演奏にのせたエルの心がこの胸に届く。
それはまるで、『この音を聴け。こちらを見ろ』と主張しているようだった。
愁いに満ちた調べに引きずられかけたところを、エルの伴奏に救い出される。
奏でる音色に彼への感謝を宿し、ヴィブラートをきかせ、一音一音に情感を込める。
俺の音色が変わったことで、エルはその口元に笑みを浮かべているのだろう。
その表情は見えないが、彼の生み出すその音が物語っている。
新たな旋律が、温かさを纏って訪れる。
一歩一歩確かめるように地を踏みしめ、彼女の心へと真っ直ぐ向かう――己自身の足取りを表すかのような調べだ。
確かな歩みで前進し、未来へと続く道程を織り上げる。
――迫りくる新たな嵐の主題を迎え撃つために。
速度を増す曲調は、より一層の輝きを求めて高音域へと到達する。
それと同時に、荘厳ではあるが微かな不穏さを潜ませたピアノが轟き、嵐の渦中へと再び
悲痛な祈りを孕んだチェロが響き、すべてを癒そうとするかのようなピアノの音色が優しく包む。
己の爪弾く音色が穏やかさを取り戻すと、エルのピアノが柔らかな音の広がりで応えてくれる。
心を奮い立たせるような高音の連なりをこの指で生み出し、終章へと向かう協奏曲の音色が加速する。
ああ、分かりきったことだ。
彼女へとまっすぐ伸びたこの道を、もう引き返すことはできない。
どんな困難が待ち受けようとも、譲ることなど到底無理だ。
真珠――俺は君に出会ってから、どんどん人間らしい感情を取り戻しているようだ。
人を大切に想う気持ち、愛する気持ち、戸惑う心、不安に嫉妬――
諦めることしか選択してこなかった俺が、その存在すべてを手に入れたいと、心から願う
そのこと自体が――奇跡に等しい。
彼女は、輝く希望。
雷鳴轟く嵐の中に
エルの奏でる、激しくも情熱に満ちたピアノの音色が、この部屋中を席巻していく。
既にこの調べは嵐の夜の陰鬱さではなく、穏やかな終わりを予感させる旋律に移り変わっている。
次の楽章への繋がりを予感させる終幕へ導くよう、軽やかに左手を指板上で踊らせる。
息つく間のない、高音と高速のパッセージを弾き続け、最終音を鳴らした刹那――エルの華やかなピアノの響きが、俺の想いを受けとめ、引き継ぐ。
彼の指先からは、熱情の音色が
すべてを昇華させようとするかのような渾身の響きは、まるで嵐の終焉を告げているように聴こえた。
――残響が消えた室内。
深く息を吐き、新鮮な空気を吸い込んだのち、視線をゆっくりとソファへ移す。
――求める姿は、希望の光。
真珠は目を見張り、口元を微かに震わせていた。
両手を胸の前で強く握りしめ、ただ静かに――俺を見つめていたのだ。
彼女の眼差しと、俺のそれとが交わる。
…
愛しさを胸に。
この気持ちを、真珠――君に、どう伝えたら良いのだろう。
【後書き】
ラロ『チェロ協奏曲 ニ短調』
チェロの演奏としては、第三楽章の方が難しいと思われますが、第一楽章のオケ(ピアノ)の華々しさが秀逸です。
https://youtu.be/mSo9wcZRxGo
(貴志が昔、コンペティションで入賞したという第三楽章は、18:02から聴けます。)
(裏話)
ファンディスク編、このラロのチェロ協奏曲をイメージして展開していたりします('ω')
残すところ、演奏は、真珠と貴志の二重奏 および エルのピアノ独奏です。
そちらが終わると番外編を挟み、翔平くん登場。こちらは短く幕間の予定。
三人娘登場の国立科学博物館を経て、舞台は時間軸を一気に巻いて、中学生編に突入後、ゲーム開始の高校生編に進みます。
どうぞよろしくお願いいたします。
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