第172話 【真珠】心の共鳴


「へ? 今は辞退出来ないって、どういうこと?」


 わたしの疑問を受けて、ラシードはこちらに目を向けた。

 視線が合った瞬間、パッと逸らされてしまったけれど――



「兄上が言っていた。辞退すれば将来的に後悔すると――それが何を意味するのかは分からないが、意味もないことを口にするような人ではない。それに――」



 そこで言葉を止めた彼は、またチラリとこちらを盗み見た後、言葉を続ける。



「兄上が、初めて……興味を示したんだ」



 彼の言葉の意味が分からず、鸚鵡オウム返しで質問をする。


「初めて興味を示した? 何のこと?」


 わたしの眉間には深い皺が刻まれていることだろう。



「冗談だと言ってはいたが、わたしがお前との祝福を拒否するのならば、兄上が『貰い受けても良い』 と……お前のことを 『気に入った』 と言っていた。


 伴侶候補を探すように言われても頑なに断っていた兄が、 お前にだけは興味を示した。だから、今は祝福を繋いだまま、将来的に兄上が望むのならば、お前を譲ろうと思っている」



 ラシードは神妙な顔をして、必死に声を紡ぎだしている――が、彼の科白に、わたしの時間が止まった。



「へ?」



 待って。


 なんだかわたしは既に『ラシードの所有物』に認定されていないか?


 それに、エルがわたしに興味を持っているだと?

 まさか――それは無い。断言できる。


 エルが興味を持っているのは、真珠ではない。



 ――伊佐子だ。



 彼は真珠を見ていない。


 真珠の中に存在する、魂の半分――伊佐子を求めているような気がする。


 わたしの中の何かを『視る』時と、生身の真珠自身を見る時のエルの様子はまるで違うのだ。



 この身の内に、二つの思考が眠ることを知るのは、現況では貴志とエルのみ。



 貴志は浅草寺で出会った当初、伊佐子の存在を認めてくれた。

 漠然とした理解だったとは思うが、彼が伊佐子の存在を肯定してくれたことによって、不安定になっていたわたしを救い出してくれたのだ。


 そして、貴志が月ヶ瀬に現れた夜――あの二人で過ごした秘め事のような時間で、彼は伊佐子だけではなく、真珠としてのわたしの存在も認めてくれた。


 そう――貴志は大人と子供が融合した不安定な存在のわたしを理解し、双方ともに救われた気持ちになったのは紛れもない事実。



 そうでなければ、わたしは貴志に対してこんな想いを抱いたりしない。



 どちらか一方だけを求められても、他方は納得できない。


 わたしは過去、伊佐子であったが、今は真珠なのだ。



 ――いや、今ならはっきりと言える。




(わたしは真珠だ――伊佐子ではない)




「ラシード、わたしは物じゃないよ。譲るとか、貰うとか、人の気持ちをそんな言葉で片付けないでほしい。エレベーターホールで、よそ見をしていたのはわたしで――ラシードが不本意に『祝福』を与えてしまったことは理解しているし、本当に申し訳ないと思っている。でも、わたしは『祝福』を辞退――」



 したい――そう言おうとした瞬間、ラシードはその手で、わたしの口を塞いだ。



「お前は、王族に立てつくのか。やはり生意気な女だ」



 彼の鬼気迫るような声音と共に起こされた行動に、身じろぎひとつできなかった。



 わたしがこの時抱いた感情は――『恐怖』ではなく――『驚愕』だ。



 ラシードの瞳はわたしへの怒りではなく、深い悲しみを内包していたのだ。




「お前は、わたしの物だ。『祝福』を与えたのだから、わたしから離れることは許さない。兄上がお前を欲しいと言うまでは、わたしの傍で――わたしを必要としていろ」



 どういうことなのだろう。


 横柄な態度と言葉遣いには不釣り合いな、子供らしからぬ淋しげな様子がはっきりと見て取れる。



 何故、彼はこんなに憂いのある瞳を見せるのだろう。



 ――条件反射だった。



 気づくと、わたしはラシードの顔を両手で包み、その複雑な感情を宿す瞳を覗き込んでいた。



 今にも泣き出しそうな表情をする彼のことを、見て見ぬ振りなどできない。



 こんなに幼い子供が、心を痛め、何かしらの悩みを抱えているのだ。



 話を聞くことくらいしかできないと分かっている。

 ただの偽善と言われれば、そうなのだろう。



 けれど、それでも寄り添うことはできる筈だ。



「どうして、そんなに悲しそうな顔をしているの? 何が淋しいの? お話をすると、気持ちが楽になって、悲しみは半分に分け合えるし、喜びは倍に増えるんだよ――そんな言葉、聞いたことがあるでしょう? わたしは、その通りだと思う。だから――」



 わたしの行動に驚いたのか、ラシードは目を見開き、口をハクハクと上下させている。



「お話をしてみて? 今だけはラシードのお姉さん――ううん、お母さんになったつもりで聞くから」



 ああ、そういえば、当初予定していた『姉もしくは母のような態度で接する計画』が意図せずに実行できたことを、今更ながら気づく。



 彼の好みと正反対になることにより、悩み相談にものれるのだ。


 これを一石二鳥と言わずに何と呼ぶのか。




 わたしは彼の母親になったつもりで、その肩をそっと抱き寄せた。



「何をする! 無礼な……」



 ラシードは精一杯の虚勢を張ろうとしたのだろう。

 けれど、その後は言葉が続かなかった。



 静かに肩を震わせた振動が、わたしの身体に伝わる。



 彼は声を出せないのだ。



 自分が泣いていることを気づかれまいと、必死に堪えているのが分かった。




 拒絶される可能性もあったけれど、乱暴に突き放されるようなことはなく、暫しの時が流れた。





 彼が鼻をすする音が届く。

 抱き締めた身体が、嗚咽を堪えて震えている。


 

 わたしは彼の身体に回した手で、その背中をトントンと叩いた。



 規則正しく安定したリズムは、人の心に安らぎを与える。



 母親の胎内で聴いた心音のような穏やかな調べが、彼の悲しみを少しでも癒してくれるといいな。



 そんなことを思いつつ、彼の背に、わたしの鼓動の旋律を刻む。




「お前も、わたしからの『祝福』をいらないと言う。わたしのことを必要とする人間は、どこにもいない――母上も、わたしのことなど……きっといらないのだ」




 涙声でポツリポツリと零れる言葉は、母からの愛を必死に求めている。

 まるで心の悲鳴を聞いているようだった。



 これは覚えのある気持ちだ。



 幼い真珠が常に抱いていた母恋しさと、まったく同種のものだ。



 子供にとって母親は、自分の世界のすべてを形づくる存在だ。



 その母親から、本当の意味で必要とされていない――真珠が本能で感じ取っていた悲しみと、ラシードの心が共鳴する。



 自分の存在の希薄さを感じるたびに、胸中を支配していた心細さは、幼い心を常に不安定にさせた。



 この心に細い光が差し込んだのは、いつのことだったのか。



 そうだ。




 真珠の悲しみを軽くしてくれたのは――翔平の存在だった。




 彼が声をかけてくれた時の喜びは、言葉では表せない。


 ほんの少しだけでも、自分のことを気にかけてくれる人が、自分の生きる世界の外側に現れたのだ。


 それだけで心が満たされ救われることを、わたしは身をもって知っている。



 ラシードの口から、とうとう堪え切れなくなったのか、泣き声がこぼれおちた。



 ずっと、ひとりで我慢してきたのだろうか。


 わたしの言葉だけで、堰を切ったように流れだした感情は、おそらく我慢の限界に近かったのかもしれない。



 わたしは彼の蒼い瞳を見て話をしようと、身体を離そうとした。



 その動きに気づいたラシードが、それを阻止しようとわたしにしがみつく。




「見るな! 見たら……許さない」




 少しだけ、心を開いてくれたのかと思えば、掌を返すような高飛車な言葉が返ってくる。



 気紛れな猫みたいだ――そんなことを思いながら、わたしは彼の少し癖のある柔らかな黒髪を、そっと撫でた。






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