第171話 【真珠】貴志と伊佐子とラシードと


「寝て……る?」


 太陽神シェ・ラを表すタペストリーの真下に設置されたソファの上──ラシードは大きなクッションに身体を沈め、気持ちよさそうに寝息を立てていた。


 毛先に向かって緩やかに波打つ黒髪が、その呼吸にあわせてフワリと動く。

 彼を鮮烈に印象づける蒼い瞳は瞼に覆われているため、今は見えない。


 熟睡している彼を起こすのも申し訳ないので、さてどうしようかと部屋を見回す。

 ピアノが視界に入り、よく見ると蓋が開いていることに気づいた。


 目の前のテーブルの上には、ラシードの分数バイオリンと手書きの楽譜、それから皮革張りされた厚手の黒い本が置いてあった。


 チューナーを使用した様子もないので、ラシードはピアノを使ってバイオリンの調弦をしていたのかもしれない。



          …




 そういえば、エルからの問いの答えが分かったけれど、貴志の登場とその後の彼の様子に気を取られ、すっかり伝えるのを忘れてしまったことを思い出す。



 石のチャペル『天球館』──『クラシックの夕べ』の際、貴志がわたしに捧げてくれた『Je Te Vuex』──おそらくあの慈愛溢れる音色が、シェ・ラへの奉納と見されたのだろう。



 そして、それ以前にあの教会で、わたしと貴志の口は事故によって……ごっつんこしている。



 それを接吻とカウントするのであれば──おそらく、わたしと貴志はアルサラーム神教に於いての『最上の誓い』を交わしていることになるのだと思う。




 先程の廊下。数秒間の貴志との触れ合い──彼の指先と、わたしの指のそれぞれが確かめ合った唇の感触を思い出し、身体中の血が突然沸騰した。


 切なさを孕んだ熱が、胸の中で膨れあがり、全身を駆けめぐる。


 貴志の唇に触れた指で、自分の唇に触れた後、ハッと息を呑む。



 あれ?

 これを間接キスというのではないか──と思い至り、恥ずかしさに咄嗟に膝を抱えて座り込んでしまう。



 まだ想いを自覚していなかった頃に起きた接触は、事故として片付けられるというのに、心を通じ合わせた今は、少しのことで狼狽えてしまう自分に戸惑うばかり。



 駄目だ。

 とんでもないことを仕出かしてしまったのかもしれない。



 思い出せば思い出すほど、床を転げまわりたくなるほど身悶える。



 とにかく恥ずかしい。



 触れ合うとか、睦み合うとか──

 わたしは、なんと!

 なんと破廉恥なことを!?



 中身は成人女子とはいえ、外見はちびっ子の身。そんなことを一瞬でも考えていたことを貴志に知られたら、生きていけん。



 万が一バレたら、溜め息をつかれてデコピンをお見舞いされるやもしれん。



 いや、それで済めばまだ良いが、最悪愛想を尽かされかねない。

 そんなことになろうものなら、生きる気力さえ失いそうだ。



 貴志の態度で頭は冷えた筈なのに、心が熱くなってしまうのだけはどうしても止められない。



 この心が浮き立つような気持ちには、おぼえがある。

 ひとつのことにのめり込み、周りが見えなくなるようなこの感覚。


 つい数か月前──伊佐子だった頃に味わったばかりだ。



 勿論、誰かに惚れた腫れただのといった恋愛感情から生じたものではない。



 恋い焦がれるように没頭し、寝食を忘れて熱中して弾き続けたあの曲──『無題 - for Isako - 』を贈られ日を思い出す。


 わたしだけの為に作られた曲だ。


 ──自分らしく弾きたい。


 贈ってくれたみんなに最高の演奏を聴かせたいと、譜面に集中し過ぎて、いつの間にか丸三日が経過していたのだ。



 友人や恩師、尊からの連絡にもまったく気づかず、曲の世界を彷徨っていた数日。



 全身全霊を傾けて曲想に思いを馳せ、心をときめかせていた時間。



 あの曲に対する想いと、貴志に対する想いは、どこか似通っているのだ。



 すべてを忘れて没入し、演奏し続けた身体は、体力消耗によって限界を迎えてしまった。


 最後は、どうやら自室で意識を失っていたようで、目が覚めたのは病院のベッドの上だった。



 自分にとってはほんの一瞬の出来事。けれど周囲にとっては、三日間の音信不通。



 連絡の取れなくなった伊佐子を心配した恩師と友人がアパートメントを訪ね、床に倒れていたわたしを発見し、救急搬送してくれた苦い記憶がよみがえる。



 曲を贈ってもらった時の、わたしの舞い上がる様子を目にした恩師と尊は、何かが起きることを予想していたようだ。

 彼ら二人が中心となって連絡を取り合ってくれたお陰で、わたしの異変を早々に察知し、なんとか事無きを得たのだ。



 犬猿の仲だった二人が、この時ばかりは手を組み、わたしは救助されたのだが、後日二人から別々に小言を言われたのも懐かしい思い出だ。



 その事件後、伊佐子をひとりにしておいては危険だと、恩師宅の一室に強制的に引っ越しをさせられることとなった。



 転居の連絡と新住所を尊に伝えたところ、何故かあやつめは慌ててやって来て「何故、俺に事前連絡がないんだ」と文句を言っていた。


 大学の授業の一環で、海外研修中だった尊には、事後報告でいいと思っていたのだ。


 相変わらず過保護だなと思ったけれど、恩師と何やら話があるとのことだったので、わたしは一人、荷物の整理に取り掛かったのだ。



 今思い出すだけでも、あれは自分史上最悪の大失態だった。



          …




 曲に没頭する感覚と、貴志にのめり込む気持ちの二つは、かなり近いものであることが判明した。


 だから、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。


 ほどほどにブレーキをかけないと、貴志にも周囲にも迷惑をかけてしまう。



「貴志……」



 この胸を占める大切な人の名を呟いた後、深呼吸をし、頬をパンッと両手ではさむ。



 自分以外の誰かを心に棲まわせる事態に、気持ちが追いついていないことは理解できた。



 少し頭を冷やさなくてはいけない。



 よし! 貴志以外のことを考えようと、目の前のテーブルに目を向ける。



 そこにはラシードのバイオリン。その横には手書きの楽譜が置いてあったことを思い出し、それを見学することに決めたのだ。



 空調の風に飛ばされないように置かれたのだろうか、革張りされた厚手の黒い本が、楽譜の上に重ねられている。



 わたしは黒革の本を手に持ち上げたあと、静かに譜面を読み込んだ。



「これは、トゥインクル? あれ? でも、これって……バイオリン入門用じゃなくて……ピアノ用の?」



 編曲者名にSarahサラと入っている。


 第三側妃──対外的には、サラ妃とも呼ばれている彼の母親だ。


 息子の為に、サラ妃が手ずから編曲したのだろうか。


 ラシードは、バイオリンを習い始めてそれほど時間が経っていないと耳にしている。

 歌のリズムで奏でるトゥインクル──『キラキラ星』はバイオリンの習い始めに弾くことが多いけれど、これはピアノ曲をバイオリン用に簡易アレンジしたものだ。



「おい……、お前!」


 集中して楽譜の世界に入り込んでいたところ、唐突に背後から声をかけられた。


 突然のことに驚いて、手にしていた黒い本が手の間から滑り落ちる。



「……っ」



 落下した本の角が、足の指に直撃し、あまりの痛みに顔をしかめてうずくまる。


 両目に涙が滲んだが、泣くのを必死に堪えながら、その声の主のほうを振り仰ぐ。


 そこには黒髪碧眼の少年──ラシードが立っていた。


 先ほどかけられた声には、不機嫌さがこもっていた筈だ。けれど、今わたしに向けられた表情は、慌てて狼狽しているように映る。



「えっ……おい! 大丈夫か? その……お前……、真珠? 痛いのか?」



 ラシードの蒼い瞳が大きく開かれた。



 気遣わしげに顔を覗き込まれ、彼の手が頬に触れる。



 その行動に驚いて身じろぎひとつできず、されるがままになってしまう。



 固まったわたしを気遣ってか、左の目尻をラシードの指先が滑った。



 足の痛みで溢れた涙が堪え切れずにこぼれてしまい、彼が咄嗟に拭ってくれたのだ。



 本来であればお礼を言うところなのだが、わたしは緊張に震えるだけだ。



「本を落としちゃって……ごめんなさい……」



 かなり大切そうな本だ。

 表紙にはアルサラーム語で文字が書かれているが、何の本なのかまったく分からない。



 どうしよう。

 ものすごく貴重な本だったら。



 ラシードはおそらく心配してくれたのだが、わたしは何か起きるかもしれないと身構えてしまう。


 無理難題を押し付けられたら詰む、と焦りばかりが募る。


 ゲーム中のラシードの印象が色濃いため警戒してしまったのだが、彼の目には、わたしが怯えているように映ったのだろう。


 わたしの態度に、彼は少しだけ寂しそうな様子を見せた。



「本はシエ……兄上の聖典だ。驚かすつもりはなかった。その……」



 ラシードは言葉を切って、目を泳がせると、意を決したように謝罪の言葉をわたしに向けた。



「……悪かった。だから泣き止め。こ……これは、命令だ」



 ぶっきらぼうな物言いだが、彼もどうして良いのか分からず、戸惑っているだけなのかもしれない。



 ラシードは、わたしが落としたエルの聖典をその手で拾った。



 その時、本の中から一枚の写真がヒラリと舞い落ちる。



 紛失しては大変と、わたしはその写真を急いで手に取った。



 古い写真だ。

 子供が三人写っている。


 中心には年長の少年。

 その左右には、可愛らしい幼い少女が二人。


 この少女二人の姿を目にしたわたしは、首を傾げる。

 どこかで見たことがあるような気がするのだ。



 少年は満面の笑みで少女二人の肩を抱いているが、対して少女二人の表情はマチマチだ。

 一方は泣いていて、他方は困った表情をしている。



 写真を裏返すと、そこには手書きで、TakashiタカシLafineラフィーネEllyエリーと書かれていた。



「左で泣いているのがタカシ、真ん中がフィーネ、右の困った顔をしているのが兄上──エル、だそうだ」


 貴志とエル?

 この二人の女の子が?


 確かに、面影はあるような気がするが──


「女の子の格好をしているよ? 王女殿下は、男の子の格好だよね? これ……」


 二人でその写真を覗き込む。


「フィーネ姉上の趣味だ。複雑な事情があって、姉上は男装を好んでいたようだ。今も時々、男の格好をしてご婦人方とパーティーに出かけたりもしている」


 ラシードに写真を手渡すと、彼はそれをエルの聖典の中に戻した。



「足は、大丈夫か? その……泣いていたから……」


 ラシードは黒い聖典をテーブルの上に戻しながら、こちらを見ることなくそう言った。


 何故だろう、わたしが知る彼とは様子がまるで違う。


 こちらも困惑して、言葉に詰まってしまう。



「う……ん、痛かったけど、もう大丈夫。あの……どうして、こっちを見ないの? わたし何かしたかな?」



 ラシードは、それでもこちらに目を向けようとはしなかった。




「女とは、母上やフィーネのように強いものだと思っていたので、お前が突然泣きそうになったから……驚いただけだ。泣き顔を見たら、ここが痛くなったので、見ないようにしている」



 ラシードは、ここ、と言って胸を指差す。



 あれ?

 俺様な我が儘王子の印象が強かったけれど、意外と良い奴?

 まだ、子供だから心は純粋で、真っ直ぐなのだろうか。



 二人の間に、沈黙が流れる。



 ラシードも自分が口にした言葉に気づき、息を呑んで固まってしまったようだ。



 この微妙な気まずい空気から、どうしたら脱することができるのだろう。お互い、どうして良いのか分からず、わたしは彼を見つめたまま動けない。



 ああ、わたしは何のために、ここにやって来たのだっけ?

 そう! そうだ、『祝福』辞退の為だ。



 元々、ラシード自身もわたしとの『祝福』を嫌がっていたが、それを拒絶したのはエル。


 ラシードに素直にお願いすれば、『祝福』辞退について協力してくれるのではないか、と淡い期待が顔を出す。



 それが良い!

 二人で共闘し、エルから『祝福』辞退の許可を勝ち取るのも良いかもしれない。


 ラシードに協力を依頼してみよう。


 わたしが、声に出そうとした瞬間──



 蒼い双眸を複雑に揺らしながら、ラシードはハッキリとした声でわたしに告げた。




「真珠、今は『祝福』辞退は、受け入れられない」




 

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