第162話 【真珠】エルとシエル
廊下を歩いて移動する。
少し緊張してはいるけれど、不思議と気持ちは落ち着いている。
そういえば、スイートルームが並ぶこの高層階。
さきほどから廊下を歩いても、誰ともすれ違わないことに気づく。
不思議に思って貴志に問うと、彼は答えてくれた。
「それは、この階をすべてアルサラームが借り切っているからだ」
その回答に更に疑問が生まれる。
「じゃあ、貴志の部屋はどうして、同じ階なの?」
貴志が手を伸ばし、わたしはその手を取った。
ほんのり冷たい手が、わたしの子供体温に心地良い。
「アルサラーム国王が急遽来日することになったのが先々週のことで、スイートルーム予約客については他の階への割り振りができたんだが、部屋数が足りなくてな。一室だけ譲って貰ったんだ。俺もこのホテルの関係者ではあるし、国王陛下とは子供の頃に面識もあったから、恩情をかけてもらったようなものだ」
なるほど。だから他の宿泊客がいないのか。ワンフロア―を借り切れば安全面でも憂慮がない。
ラシードの滞在する部屋の前に到着し、周囲を見回す。
誰もいない。勿論、宿泊客のことではない。
警護をする厳ついおじさま方がいらっしゃるのか? と勝手に想像していたのだが、扉の前には誰もいなかった。
貴志が扉についたインターフォンを鳴らそうとした時、部屋の玄関口にあたる扉が内側へと開かれた。
「お待ちしておりました」
そう言って腰を折り、恭しく一礼したのはエルだった。
先程着用していた黒衣の神官服から着替えたようで、彼は簡素な服装――侍従装束とでもいうのだろうか――を纏っていた。
着る衣服によって左右されない、エキゾチックな美しさと気品は感嘆に値すると正直に思った。
主への訪問客を察知し、客の手を煩わせることなく対応する姿も流石だと感じる――が、浮世離れした彼がこの行動をとると、空恐ろしものを感じてしまう。
先程あの廊下で、わたしを見ながらも、別の何かを確かめているような視線を思い出すと、少しだけ怖かった。
入室を促され、足を踏み入れる。
玄関扉の正面には中扉があり、奥へ進むと広々とした居間が広がっていた。
貴志が使用しているスイートよりも倍以上広い空間が現れ、ソファセットと大きなダイニングテーブルが目に入った。
窓際の一角には、グランドピアノも置かれている。
調度も豪奢だ。スイートルームのなかでも最高級ランクの部屋なのだろう。
ソファに座ることでさえも、尻込みしてしまう程だ。
失礼にならない程度に周囲へと目を向け、その部屋の様子を観察していたところ、玄関口で感じた違和感が再び訪れる。
室内にも、エスピーはおろか侍女のような存在ですら一人としていないのだ。
エルがラシードの侍従で世話係になっているとはいえ、王族の周りにこんなにも人がいなくて良いのだろうか。
それとも、わたしはお伽噺の読みすぎで、王族は召使いに
どちらが正しいのか、まったくの謎である。
エルに先導されて居間を通り抜けると、目の前に再び扉が現れる。
その扉を開けると、室内であるというのに目の前に廊下が伸びていた。
廊下を真っ直ぐ進み、二枚の扉を横目に通り過ぎたあと、20畳程の一室に通された。
促されて入室する際、正面の壁に掛けられた見慣れないタペストリーが目に留まる。
この大きな壁かけの織物に描かれた絵は、どこかで見たことがあるような気がした――ゲームプレイ中、目にしていたのかもしれない。
そう思って足を止めて見つめていると、そのタペストリーの下――ソファに座る、黒髪碧眼の王子と目が合った。
とりあえず会釈をしておこうかと思ったのだが、彼はフイッと目を逸らしてしまう。
眉間に皺が寄せられ、怒っているのだろうか――顔が赤く、憤怒の様相だ。
ラシードが怒るのは当たり前だ。
突然現れた見知らぬ子供に、将来愛する者に与えるはずだった『祝福』を奪われたのだから。
そこは本当に申し訳ないと思うが、相当嫌われているだろう様子が分かり、わたしはホッと胸を撫でおろす。
この分であれば、祝福の辞退は問題なくできるのではないか? と推測できたからだ。
ソファの背もたれに置かれた大きなクッションに、埋もれるように座る王子殿下は一向に目を合わせようとしない。
どうしたものかと思って、貴志とエルを交互に見る。
エルが、わたしと貴志についての紹介を王子殿下にむかって伝えるが、それでもこちらを見ない。
「殿下、ご挨拶を。ご友人として月ヶ瀬会長のご親族をお招きしたのですから、ホストらしい振る舞いをなさってください」
よし――ラシードと会話をする前に、訊かなくてはならないと思っていたことが、エルの口から語られた。
王子殿下として対応するのか、それとも、友人として遊ぶのか――事前に確認する必要があったのだが『友人』として対応をすればよいことが分かり、とりあえずホッとする。
エルからは「友人として対等に、殿下のことは『ラシード』とお呼びください」と伝えられた。
シードが彼の真名であるが、尊い身分の為、シェ・ラの末裔ということにあやかって、真名の前にラをつけることで尊称とし、ラシードと呼ぶのだそうだ。
王子殿下を名前で呼ぶのだ。
わたしのことも名前で呼んでほしいと伝えないと非礼にあたる。
エルに対しても「レディ」は付けずに、ファーストネームで呼んでほしい旨を伝えた。
レディ真珠――と呼ばれるたびに、むず痒い気持ちになるので、そう呼ぶのをやめてほしかったのだ。
エルはわたしの申し出を了承すると、今度は貴志に向き直る。
「ミスター葛城、どうぞ私のことはエルとお呼びください」
けれど、貴志は頑なに固辞し続ける。
慣れ合うわけにはいかない――そんな様子が伝わったのだろう。エルは少し困ったような笑顔を見せた。
「私が『ミスター葛城』と呼ぶよりも、ファーストネームで呼ばせていただきたいのですよ。日本語の発音は難しい。『貴志』と呼ばせていただく方が言いやすいのです」
こう言われてしまっては貴志も断ることができない。
エルが見せた困ったような笑顔は、どこか演技めいていた。
自分がへりくだることによって、自らの意見を相手に飲ませる手腕を見るに、なかなか
大人二人が呼称について話をしている間、わたしはチラリと部屋の様子をうかがった。
こちらの部屋には、アップライトのピアノが一台あるようだ。その隣の棚には、子供用のバイオリンケースが置かれていた。
これがラシードのバイオリンかと思った瞬間、突如として奇妙な違和感に見舞われた。
(あれ? 高校時代、ラシードの専攻していた楽器って、確か……)
――ピアノだった筈だ。
ピアノとバイオリンの両方を習っているのだろうか?
弦楽器を習う際、ピアノも同時進行で習い始める人の割合もかなり多い。かくいうわたしも、伊佐子時代には短期間ではあるがピアノを習っていた。
なんとなくしっくりしないものを感じながら、わたしはピアノに吸い寄せられるように近づいた。
彼が、亡くなった母親を偲ぶシーンで弾いていたのは、あの曲――いや? ちょっと待って?
彼が懐かしんでいた人物はもう一人いた。
彼を見守り、導いてくれた人物がよく弾いていた曲だと言って、『主人公』にピアノ演奏を聴かせてくれたのだ。
ラシードの母親と共に、不慮の事故で落命した人物。
それは――
「そうだ。シェ・ラ・シエル第三王子殿下だ」
わたしの呟きを拾ったラシードが弾かれたように顔を上げ、一瞬だけ狼狽した表情を見せた後、噛み付くように声を荒げた。
「お前! 何故その名を知っている⁉」
あれ?
知っていたらいけないの?
そうか!
わたしはお子様だから、そういう情報を知っているのは、おかしいことなのかもしれない。
そう思い至ったわたしは、どうにか誤魔化すべく貴志に助けを求める。
が、貴志は声を絞り出すので精一杯の様子だ。
「真珠……教皇聖下の真名は……お前の祖父から聞いていた。それで間違いない、な」
貴志の顔は、何故知っているんだ⁉ と困惑に彩られている。
どうして教皇聖下の名前を、祖父から聞いて知っていると言わねばならないのだろう?
貴志は何か、勘違いをしているのかもしれない。
「へ? 違――」
「――わないな⁉」
有無を言わさぬ、貴志の迫力に負け。
わたしは、首を何度も縦にふる。
いかん! これは絶対に逆らってはいけないヤツだ。
「そうです。そうなんです! 祖父から聞きました。それ以外は絶対にありえません。ラシードの教育係もしていらっしゃるんですよね。彼が10歳の誕生日を迎えるまでは、ご存命でいらし――」
いつの間にか隣にやって来た貴志が、その手でわたしの口を塞いだ。
美しい笑顔だが、間違いなく怒っている。
ものすごくマズイことまで口走ってしまったのは、残念なわたしの頭でも理解できた。
いや、ポンコツ故に口をついて出てしまったと言う方が正しい。
ラシードは蒼い目を大きく見開き、わたしのことを凝視している。
突然、エルが小気味好く笑い始め、颯爽とわたしの目の前に近づくと突然跪いて、わたしの手をとった。
「見つけた――レディ真珠、やはり貴女だった。わたしの『天命の女神』」
エルはわたしの手の甲に、その額を当てた。
その様子を目にしたラシードが慌てて駆け寄り、その背にしがみつく。
「シエル! お前が跪いてよいのは、太陽神シェ・ラだけだ!」
エルを立ち上がらせようと躍起になるラシードを視界で捉えるが、それどころではない。
ラシード、お前はエルに向かって何と言ったのだ⁉
今、彼のことをシエルと呼ばなかったか⁉
貴志が息を呑む音が響く。
「シェ・ラ・シエル……第三王子――教皇聖下……?」
貴志が唖然とした声で呟いた。
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