第160話 【side:アルサラーム】天命の女神
「見つけた──おそらく、彼女だ」
エレベーターホールから少女を見送ったエルは、少し複雑な──けれど、どこか満足そうな表情で呟いた。
ラシードは訝し気に、黒衣の装束を纏った彼の侍従に目を向ける。
常日頃、己を律することにより感情をあまり表さない年上の青年──その彼が、口角を上げる様子が物珍しく映ったようだ。
その笑みの意味を知りたいが為、彼はエルに訊ねる。
「何を見つけたんだ? ア──」
ラシードが呼びかけようとしたところ、エルが遮る。
「殿下。この国にいる間は、エルとお呼びください。何処で誰が聞いているか分かりません。よろしいですね」
エルの言葉を受けて、ラシードは不服そうな表情を見せる。
「何故、侍従役なんだ。父上の指示の意味がわからない」
口を突き出して不満を訴えるラシードを横目に、エルは「おやおや」と言いながら言葉を続ける。
「陛下と私の利害が一致したまで──全て思惑あってのこと。私はこの国で『天命の女神』に出会う必要があり、陛下は殿下に権力を前にした人間の態度の表裏を見せたかった。その為には、私が側近くに仕えることが最良の選択だったのですよ」
エルの言葉にラシードの表情が曇る。
「ここ数日の滞在で、殿下に
ラシードは頷いてから、不満の声も付け加える。
「でも、あれはお前も悪いと思う。いつもその神官装束を着ていればよいものを、簡素な侍従の格好で人前に出るからだ。あとでお前の立場を知った相手が怒り出すかもしれない」
王子の言葉に、エルは微笑んだ。
「
政治も経済も常に国家の威信をかけた主戦場。そこを理解していない
近侍するエルの言葉に耳を傾けるラシードは、難しい顔をしたあと、フイッと顔を背けた。
「お前が消えるという、その未来を変えるために、この国で『女神』を探すのだろう。そんなことは二度と口にするな」
エルは楽しそうに笑う。
「殿下のお心遣い、感謝いたします。けれど、おそらく……彼女が目的の『女神』──まさか殿下の『祝福』を受けることになるとは──これも
歩みを止めたラシードは、後方を振り返る。
既にエレベーターホールのある廊下からは遠く離れているため、先程出会い頭に衝突した少女はいない。
「お前が最近になって探し始めた『天命の女神』とは、本当にあの女のことなのか?──それならば、お前も母上も……?」
ラシードは、彼の侍従の衣服を掴み、祈るような眼差しを向ける。
けれどエルは、肩をすくめただけだった。
「さあ? それはまだ分かりません。『女神』に出会う──それが今回の私の訪日理由でしたから、目的はほぼ達成されたと言ってもよいでしょうが……これが我々の──私と第三側妃さまの運命を変えるのか否か。答えが出るのは──数年後です」
エルは遠い目をして、複雑な笑いを浮かべる。
侍従であるエルとは打って変わり、ラシードはかなり不機嫌だ。
「あの女──王族であるわたしからの『祝福』を断ろうとした、あの無礼な女が『女神』なのか……」
眉間に皺を寄せる幼い王子の言葉に、エルはクスリと笑う。
「なるほど、それで先程から機嫌が悪いのですか」
エルの科白に対して、ラシードは首を傾げた。
「機嫌が悪い? 何のことだ? ただ、気に食わないだけだ」
憮然と言い放ったラシードは、再び前を向くと滞在する部屋へと続く廊下を歩き始める。
エルはそんな彼の背中に手を添えた。
「珍しいですね。そのように執着されるとは。
王子というお立場上、今まで、周りに彼女のように自らの意思を伝える友人は少なかったのは理解しておりますが──なるほど、新鮮さに興味が湧いたと。つまりは、彼女をお気に召された──ということでしょうか?」
エルの言葉に、不機嫌さを増したラシードが語気を強めて反論する。
「話を聞いていたのか? わたしは気に食わないと言ったんだ」
その様子に目を細めたエルは、先程の少女の様子を脳裏に浮かべる。
「それは非常に残念ですね──殿下のお立場を知っても、媚びへつらうことなく、自らの意志を貫く様は誠に見事。彼女の中には間違いなく面白い物が眠っている──私は大変気に入りましたよ。貴方がいらないと言うのであれば、私が貰い受けてもよ──」
「いらないとは言っていないっ」
ラシードが慌てたように、エルの言葉を遮る。
その様子にエルは目を丸くしたあと、楽しそうに口角を上げる。
「そんなに慌てずとも大丈夫ですよ。私の冗談が過ぎたようですね。失礼いたしました。彼女の『魂』とは違い、あの『器』はまだ子供──ただ、あの魂に囚われている者もいるようですが」
エルはラシードの背中に再び手を添え、部屋へ戻るよう促す。
「囚われる? わたしは捕まってなどいないぞ!」
面白くないとでも言うかのように、ラシードの苛立った声が廊下に響く。
「いえ、殿下のことではありませんよ。一緒にいた青年──葛城貴志のことです。彼は彼女の本質を、間違いなく見極めて……いる」
口元に手を当て、エルは何かを思い出すように言を紡ぐ。
「タカシ? その名前は、時々フィーネとお前の口から聞いた名前だ。あれが、お前たちの話に出ていたタカシなのか?」
ラシードが驚きの眼になり、食いつくように質問をする。
「ええ、彼が──ラフィーネ王女殿下の初恋の君。王女からは、もし会えたならばよろしく伝えて欲しいと言付かっておりますが──あの時、彼はだいぶ混乱しておりましたから……我々が幼き頃に交わした約束も、忘れているかもしれません──お互い、昔の面影もありませんしね。それに──」
エルはそこで言葉を止めると、急に黙り込む。
突然、静寂が訪れたことを不思議に思い、ラシードが顔を上げると、黒衣の青年は再び口を開いた。
「彼は既に『女神』の手によって、新たな運命を与えられている……魂の輝きが、あの頃とは全く違う……」
エルの意識が自分から離れてしまったことに気付いたラシードは、こちらを見ろと、彼の衣服を手繰り寄せ、注意を引こうとする。
「どうされました? 私が考え事をすると寂しくなってしまわれるのですか?」
からかうような雰囲気を滲ませながら、エルはラシードを抱き上げた。
ラシードは、子供扱いされることを腹立たしく思ったのか、黒衣の青年に向けて皮肉をお見舞いする。
「エル──お前の喋り方、いつもと違って……丁寧すぎて鳥肌が立つ」
ラシードの言葉にエルは、フッと笑った。
「それは申し訳ございません。現在、私は殿下付きの一介の侍従にすぎません。そこはお忘れなきよう。帰国すれば、またいつものように戻ります故、しばしのご辛抱を」
その言葉にラシードは大仰に溜め息をつくと、今度はエルに不満をぶつけた。
「ああ、本当に退屈だ。今日の午後は、あの女とずっと、楽器で遊ばねばならないのか。うんざりだ」
ラシードはエルの肩に、コテンとその頭をのせる。
「お疲れになりましたか。部屋に戻られたら少し眠っておきましょう。その間に、私が何か楽しめる遊びを検討しておきますので。けれど殿下、彼女と『祝福』を──『豊穣の契り』を結ぶには、シェ・ラに供物としての音色を捧げる必要がございます。それだけは避けられません」
歩く際に生じる振動に揺られながら、王子は蒼い双眸を伏せていく。眠気が襲ってきたようだ。
「分かっている。でも、あいつは『祝福』をいらないと言った──わたしは、誰からも……必要とされていないのかも……しれない」
そう呟いた後、微かな寝息がエルの耳に届いた。
あてがわれた部屋の扉をあけて、室内へと滑り込んだ彼は、ラシードに囁く。
先程までとはガラリと変わり、とても砕けた口調だった。
「そんなことはない。シード──お前は、とても大切な存在だ。未来を失う筈の私にとって、これから先を託す──希望なんだよ」
けれど──願ってしまう。
諦めていた未来のその先を、夢見てしまう。
「『天命の女神』──彼女に出会えたわたしは、この運命を本当に変えられるのだろうか?」
黒衣の侍従は、ラシードの背中を抱きしめると、足早に割り振られたベッドルームへ向かう。
…
エルの瞳には、何故か自嘲と憂いの色が浮かぶ。
「しかし──まさか、
彼の口から、溜め息がひとつ零れた。
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