第159話 【真珠】父の変化と電話の相手


 父が貴志に、水色の封筒を手渡す。


「貴志くん。これを使うことになった場合、ほとぼりがさめるまでは君にも迷惑をかけることになる──が、真珠を助ける為と思って、少しの間でいい……我慢してもらえると助かる。対外的にも──君が適任なんだ」


 勿体ぶった父の物言いに、貴志は首を傾げる。


「それは……どういう? いや、真珠を助けることが出来るなら、勿論協力は惜しみませんが……」


 その言葉に父はカッと目を見開くと、貴志を抱擁した。


 わたしは父の腕の中にいたので、二人に挟まれてグエッとなる。

 さながらサンドイッチの具材よろしく挟み込まれて、まったく身動きがとれない。

 咲子だった咲也と、貴志の間で潰されそうになった苦い記憶が思い出された。


「貴志くん、わたしと共に真珠を守ってほしい。後生だ!」


 父がそう言ったところで、再び玄関ドアの呼び鈴が鳴った。

 モニターを確認すると、父の首席秘書さんが映る。


「ああ、もうこんな時間か。話の途中だが、もう行かなくてはならないようだ。万が一、その封筒の中身を使用しても、君の不利にならないよう話は進めるつもりだから、そこは安心してくれ」


 貴志にそれだけ伝えると、父はわたしをソファにおろした。


「しぃちゃんは貴志くんにとても懐いていると、お義母さんから聞いたよ。我が儘を言って彼に迷惑をかけるんじゃないぞ? また今夜、お家で会おう」


 父の科白に、わたしはまたしても驚いた。


 悪い子育ての見本を、地で行く甘やかしっぷりだった少し前。

 その頃には絶対耳にすることのできなかった科白が、たった今、彼の口から飛び出したのだ。


 迷惑をかけるな──父は、確かにそう言った。

 今まで、そんな科白をわたしに対して使うことなど、一度として無かった筈なのに。


 一体どうしたというのだろう。

 これも美沙子ママと仲直りをした影響なのだろうか。


 彼の子供に向ける愛情の種類が、少しずつではあるが変わり始めている気がする。


 今までの彼ならば、娘を甘やかす言葉しか言わなかったはずだ。


 けれど今日は、彼の発する言葉の端々に、わたしを良き方向に導こうと意識する姿が見て取れるのだ。


 母と向き合うことによって、親としての在り方を再考する余裕ができたのかもしれない。


 父なりに『良き父親像』を模索している最中なのだろうか──そう思うと、もう少しだけ、彼に歩み寄るのも悪くないように思えた。


 わたしが、この世界に現れたことによって生じた変化──きっとこれもその一端なのだろう。



 彼の変化を受けて、自分の中でも、誠一を父親として認識する新たな感情が芽生え始めるのが分かった。



 わたしの頭頂部に口付けを落とした父は、片膝をついて目線の高さを合わせてくれた。


 今度はこちらから両腕を伸ばし、その首に抱きつく。

 伊佐子としての恥じらう気持ちは、不思議と現れなかった。


 父がわたしのことを心配し、できる限りの手を尽くそうとしてくれているのが伝わる──わたしの将来の幸せの為に。


「大丈夫だ。しぃちゃんは何も心配しなくていい。パパが絶対に守るから」


 ああ、わたしは父にとても……愛されているのだな。

 そう思うと、心が温かくなった。


 今までとは違う、父に対する感謝の気持ちが広がっていく。


 彼はわたしを強く抱きしめ、何度も頭を撫でてくれた。


 貴志は親子二人の時間を邪魔しないよう、首席秘書さんを招き入れるため玄関口に向かったようだ。


「ありがとう。パパ」


 わたしは、父の耳元でお礼を伝えた。

 そっと離れた父は、優しく笑うとわたしの頬に触れる。


「大人の都合に巻き込んでしまって、申し訳なかったね」


 そう言って立ち上がると、スーツのボタンを留め、凛とした顔つきに変わる。

 意識が仕事モードに切り替わったようだ。


 父は入室してきた首席秘書さんに仕事の状況確認をし、指示出しをすると、企業家の仮面をつけてこの部屋を後にした。


 別れ際に見せた父の笑顔に、何故か安心感を覚え、思わず駆け寄りたい衝動にかられたことは、暫くの間内緒にしておこうと思う。



          …




 わたしは貴志の手の中にある封筒を、まじまじと見つめる。


 父は時間切れのため、この封筒について、肝心なことを伝えていないのだ。


「貴志、これ、さっき誠一パパが切り札って言っていたけど……本当に大丈夫なのかな? これを使うと、貴志にも迷惑がかかるって言っていたよね……」


 わたしの疑問に対して、貴志は首を傾げる。


「この中身で『祝福』の辞退が出来て、お前を助けられるなら、迷惑をこうむることは問題ない。そんなことは気にするな」


 まったく動じることなく言い放つ貴志には、本当に頭が下がる。


「ありがとう……でも、どんな迷惑になるのか分からないから、そこが心配だよ」


 わたしの言葉を受けて、貴志が頭を撫でてくれた。

 そのまま抱き上げられ、ソファからダイニングテーブルに移動する。


「気にするな。それよりも、プリンがまだ食べ終わっていなかったな。食べるだろう?」


 貴志がスプーンを手に取り、わたしの口に残りのプリンを次々と放り込んでいく。

 弾力のある舌ざわりと、ほろ苦いキャラメルソースの味が口の中に広がった。



「母さんから渡された服を寝室のベッドの上に出しておいたから、これを食べ終わったら着替えてこい。その間に俺も準備しておく」



 プリンを咀嚼しながら、わたしは首肯した。



          …



 スイートルームの寝室──落ち着いた色合いの調度に囲まれた十二畳程の部屋の中央で、キングサイズのベッドが存在感を放っている。

 その上に濃紺のワンピースと白のボレロが置かれているのが目に入った。


 貴志はクローゼットを開き、自分の着替えを選んでいる。

 先週、荷物が運び込まれた際、スタッフの手によって、衣服はトランクから移動されていたようだ。


 貴志が濃紺のスーツを手にする姿を見て、わたしは新鮮さを覚えた。


 演奏会で彼が着ていたスーツは常に黒だったため、それ以外のカラーを身に着ける様子が物珍しく映ったのだ。

 シャツは淡い空色、ネクタイは薄い黄金色とアイボリーの細かな格子状のシルク織りを合わせることにしたようだ。


 そうか──黒はアルサラームの禁色。


 だから、貴志は配慮して、その色を避けているのだと今更ながらに気づく。




 着替え一式を手にした彼が寝室から出ていこうとした時、ベッドのサイドテーブルに設置されている内線電話の呼び出し音が鳴り響いた。

 服を両手に抱えているので受話器を取りにくいだろうと、わたしは気をきかせて彼を手で制する。


「わたしが出るよ」


 そう伝えて受話器を取ると、聞こえたのは英語訛りの日本語。



『レディ真珠? ミスター葛城は近くにいらっしゃいますか?』



 電話の相手は、まさかの──




「──エル!?」





 わたしの口から飛び出した思いもよらない人物の名前に、貴志が急ぎ電話に近づく。


 スーツをベッドに放り投げるように置いた彼は、わたしから受話器を受け取った。



 エルとの会話中、何故か貴志の表情が、徐々に困惑顔へと変わっていく。


 どんな話になっているのか分からないが、何かを了承していることだけは理解できた。


 一体どうしたというのだろう?

 

 わたしは物音をたてないよう息を潜め、エルと会話を続ける貴志の様子を見守った。






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