第128話 【真珠】ご褒美の行方
「貴志!」
わたしは彼の名前を呼んで、ここに来て欲しいと手招きをする。
貴志は訝し気な表情のまま、右手でシッシと小動物を追いやるような動作を返した。
──俺をステージに呼ぶな。
彼の顔はそう物語っている──が、そうは問屋が卸さないのだ。
何故ならば、わたしは貴志からご褒美をもらわねばならないのだから。
多分、今日しか──いや、今しか貰えないご褒美だと思うから。
わたしが再度彼の名前を呼ぶと、あやつめは紅子と咲也に背中を押され、溜め息をつきながら舞台下まで歩み寄った。
「何故、俺を呼ぶ」
腕組みをして、少し不機嫌そうだ。
ゴシップネタで全国デビューした苦い記憶があるからなのか、あまり目立ちたくないという気持ちが伝わる。
すまん。貴志。
でも、わたしはこのチャンスを逃すわけにはいかんのだ。
兄がわたしの花束とバイオリンを受け取ってくれた。
心が読めるのですか? 素敵です穂高兄さま──と感心したが、貴志を放置したらすぐに席に戻ってしまいそうな気配がしたので、慌てて彼に向き合う。
わたしは貴志の瞳を見詰めると、両手を広げた。
彼は目を見開いて、動きを止める。
抱っこならしてくれる──筈だ。
今までもそれだけは嫌がらず、わたしを抱き上げてくれたのだから。
でも、わたしが欲しい『ご褒美』はそれではない。
貴志は、わたしが手を広げた時点で何かを感じ取ったようで、警戒し、氷のように固まってしまった。
「貴志! 早く抱き上げて」
駄目なのだろうか?
抱き上げてはくれないの?
わたしは内心、かなり必死の思いで、貴志に向かって両手を伸ばす。
お客様も『ちびっ子に懐かれる美青年の図』を期待しているぞ!──の意を込めて、わたしは一度観客席に視線を移す。
貴志はいつものゲンナリした表情を浮かべた後、意を決したのか、わたしの身体をフワリと抱き上げた。
視界が変わり、客席が奥まで見渡せた。
わたしは貴志の首に腕をまわし、彼に微笑みかけ、自分の頬をトントンと人差し指で叩く。
「なんだ、それは?」
貴志は渋い表情をしている。
「わたし、頑張ったよ? いい演奏してたでしょ?」
「ああ──だから、なんだ?」
「わたしは貴志の演奏の時、ちゃんとご褒美をあげたよ? 貴志からは──ないの?」
彼は、もうきっと……暫くは、唇でわたしに触れてはくれないのだと思う。
だから、わたしはご褒美をねだることでしか、それを貰う方法を思いつかない。
多分、いま貰えなかったら──彼と触れ合うことは、もう二度とないのかもしれない。
「お前は……俺の話を聞いていたのか?」
貴志は困ったように苦笑する。
「聞いていたからだよ。今じゃないと、してくれないでしょう? だから──して?」
わたしは貴志を見下ろし、両手で彼の頬を包む。
多分、これは子供の我が儘のひとつ──無い物ねだりだ。
駄目だと言われると欲しくなる──かなり厄介な欲求。
わたしは首を傾げ、彼の瞳を覗き込む。
貴志は「飴と鞭」の飴は与えない派なのだろうか?
そう思うと、ちょっと不安になってきた。
「頑張ったんだから、ご褒美くらいしてやんなさいよ。男でしょ?」
いつの間にか、花束を持った理香が近くに現れ、わたしのアシストをしてくれる。
彼女の後ろには、爽やかに笑う加山が控えている。理香の花束は加山からの贈り物のようだ。
理香に助太刀して貰ったが、それでも貴志は首を縦に振ってくれない。
ちょっと……いや、かなり淋しくなる。
もう一度お願いして駄目だったら、潔く諦めよう。
「やっぱり、駄目……かなぁ?」
そう言って、貴志の唇に親指で触れてみた。
わたしにしては、かなり大胆な行動だと思う。
貴志は軽い溜め息を落として、わたしを見上げた。
彼の瞳に見つめられると、なぜか頬が熱くなる。
「お前には負けたよ……駄目じゃない──」
あれ?
貴志のその微笑みが、罠を仕掛けられる直前の笑顔に見えてしまうのは何故だろう。
わたしの脳が見せるまやかしなのだろうか。
「──と、俺が言うとでも思ったか」
そう言って、彼の人差し指がわたしの極上柔らかほっぺにプスッと突き立てられた。
「へ!?」
呆気にとられて貴志の態度を傍観していると、彼は晴夏と理香を呼び、横一列に並ばせる。
貴志は観客席に向けて柔らかな笑顔を向けると、晴夏と理香と共に流れるような所作で深く一礼をした──わたしを抱き上げたままの姿勢で。
何が起きているのか分からないまま、貴志に抱えられ、わたしは舞台裏へ退場と相成った。
その後ろを、その場にいた皆がゾロゾロとついてくる。
理香が「何だか楽しそうなことが起こりそう!」という目をしているのを、わたしは見逃さなかった。
へ? あれ? ちょっと待って?
これって、もしや、ご褒美は無しってこと?
今は触れない──そう言った彼の言葉がよみがえる。
貴志よ、お前のその鋼鉄の意思は大変大変素晴らしいと思う。男としても立派だと思う──いや、本当に。
思う……のだが、でも、期待させておいて、最後に落とすというその態度はいかがなものか!?
乙女心──いや、子供心を弄んだ罪を許すまじ。天誅に値する!
──と、怒り心頭になったところで、彼がわたしを地面に降ろし、目線を合わせて片膝をついた。
いつの間にか、わたしと貴志は皆を引き連れて、チャペルの裏口から外に出ていた。
わたしたち二人を、理香と加山が囲み、バイオリンケースを背負った兄と晴夏が遅れて到着する。
そして、何故か咲也もチャペルの裏口近くにやってきた。
お前は、野次馬くんか!?
「褒美は後でくれてやる──が、俺との勝負にお前が勝ったら──だ」
貴志は、なんとそんなことを言い出したのだ。
「勝負? なにそれ?」
駄目だ。ここで乗せられてはいけない。
でも、勝負か──その響きにちょっとウズウズする。
貴志はわたしが『勝負』という言葉に弱い事実に、ちょっと気づいているのかもしれない。
「これから俺が弾く曲で、お前が俺の真に伝えたいことを理解できたら──お前の勝ち、だ」
なるほど。
それが勝利条件か──そう思っている自分にハッとする。
駄目だ、乗せられてはいけない。
「さっきの晴夏への迎撃行為で、お前が俺の気持ちを本当に理解できるのか不安になってきた。だから勝負だ。
ああ、別に負けるのが怖いなら、勿論戦わずに敵前逃亡しても何ら問題はない──が、その場合、当たり前だが褒美は無しだ。
やるか? 逃げるか? どうする?」
貴志は上から目線で、言葉を投げかける。
わたしがこの勝負に乗ってくることを確信している表情だ。
敵前逃亡だと!?
そんな尻尾を巻いて、勝負から逃げるようなことができるか!
若干、乗せられた感は否めないが、絶対に負けられない。
──勝負は勝たねば意味がないのだ。
わたしの中にメラメラと闘志が湧き上がる。
「受けてたつ!」
──お前など、返り討ちにしてくれるわ!
貴志は不敵な笑顔で、わたしを見つめる。
わたしは悔しくて悔しくて、大きな声で宣言する。
「絶対勝つ! その時は、もんのすごいチュウをしてもらうからな! 覚悟しておけ!」
あやつめは、クッと笑い、
「真珠、お前こそ覚悟しておけ。腰を抜かして死ぬかもしれないぞ」
「望むところだ!」
みんなの前での大胆宣言。
これを思い返して、消えいりたくなるほど青ざめたのは、貴志に反省をうながされた後──あと数分だけ時間が経過した時のこと。
だが、今日ほど、舞台上から退場していたことに安堵を覚えたことはなかった。
ステージ上で、こんな赤っ恥発言をしている場面を想像するだけで、軽く気絶ができる。
事前に連れ出してくれた貴志には、もう二度と足を向けて眠れない──かもしれない。
穂高兄さまが「貴志さん、そろそろ揶揄うのは止めてあげて」と言い、晴夏は「なるほど、こうやって操縦すればいいのか」と感心している。
晴夏よ、それはちょっと違う。
わたしはそんな簡単に操れるような、安っぽい女ではない。絶対に!
「まあ、ご褒美云々の冗談はさておき……、真珠? 逃げるなら今のうちだぞ」
貴志は、彼とわたしが出会った当初によく見せていた、あの色気たっぷりの笑顔でわたしに語り掛ける。
この余裕が、何故か今は憎らしい。
貴志め、もう許さん。
絶対に、絶対に、正解を導きだしてやる!
その思いから、わたしは憤慨しつつも再度宣言する。
「否やは、無い!」
わたしはどうやって彼に勝つのか──と、貴志のことしか考えられなくなり、打倒貴志を胸に拳を握りしめた。
これは、女の意地だ。
兄が、呆れた顔をしているのが分かる。
晴夏は、貴志の言葉を真剣に聞き入っては時折頷き、何故か感心している。
理香は目をキラキラと輝かせ、加山はクスクス笑っている。
貴志は不機嫌顔で、わたしの額をピシッと指ではじいた──デコピンか!?
そうやっておちょくる時に触るなら、頬にブチュッとしてくれてもいいのではないか!?
指と唇の差すら判別できないくらいに、わたしの頭の中は残念な状態になっていたようだ。
深い溜め息が、貴志の口から洩れる──手に負えん、と言われている気がした。
「負けず嫌いもいい。闘争心が旺盛、これも上を目指す者には必要だ──が、その周りが見えなくなる、向こう見ずなところを直せ、と俺は一度ならず何度も言っている筈だ。正直、ここまでお前を意のままに操れるとは思わず、俺自身も衝撃を受けているくらいだ。残念なことに、お前の将来に対して、かなりの危惧を覚えている。よく今の今まで無事だったと『
わたしはハッとして息を呑んだ。
この数分間の彼との会話で繰り広げられた遣り取りを反芻し、完全に凍結した。
まさしくフリーズだ。
「あの……ごめんなさい。ものすごいチュウは全く、全然、これっぽっちもいらないです──と言うか、丁重にお断り申し上げます。売り言葉に買い言葉でした。反省してます。もしわたしが勝ったらホッペに軽くでいいので、ご褒美をください。多分、それが一生に一度、最初で最後の貴志からのご褒美になると思うので……」
消え入りそうな声で、自分の発言をしどろもどろに訂正する。
穴が在ったら入りたい──かなうならば、更にはどなたかにスコップで埋めてもらい完全に姿を隠したい。
貴志は眉根を寄せた。
「一生に一度……? それはどういう……?」
彼は困惑顔で、わたしのことを見ている。
わたしは笑顔を張り付けた。
動揺のあまり、言わなくてもいいことまで口走ってしまったと内心冷や冷やだ。
でも、今は言わない。
みんなの前では絶対に言えない。
わたしは更に無言で笑顔を貫く。
なにも答えようとしないことが分かると、貴志は諦めたように溜め息をついた。
この態度の時は、何を聞いても無駄だと言うことを彼は分かっている。
そして、彼も、人様の秘密を無理矢理暴き立てるような品性を持ち合わせる人物ではない。
ふと天球館前庭に意識が奪われた。
だいぶ人が集まりだしているようだ。
『クラシックの夕べ』最終日は、地域活性化の為のイベントでもある。
観光客だけではなく、地元の人たちも既にたくさん訪れているようだ。
ホテル内の各レストランが、この日限定で野外専用メニューを提供してくれるので、食通の方々もやってくる。今日使われている食材は、この地域の地産品ばかり。
「ねえ、みんな。もうチャペル前に食べ物ブースが準備されているみたい! 何か食べに行こうよ!」
わたしは貴志との話はもう済んだ、とばかりに兄と晴夏の手を引いて走り出す。
大人たちも、わたしたちの後を追って移動をはじめる。
振り返ると、貴志だけが、何か物言いたげな眼差しで、わたしを見つめていた。
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