第127話 【真珠】恋愛音痴とご褒美


 真珠と晴夏の協奏曲、演奏開始直前──客席は観客で埋め尽くされていた。


 貴志は目を閉じ、その合図を待つ。

 ステージ上の二人の呼吸を感じ、晴夏の独奏初音をその耳に受けた瞬間──彼は弾かれたように顔を上げた。


 驚きに彩られた表情をその面にのせた彼は、焦りを帯びた声音で茫然と呟く。


「駄目だ……晴夏、そのやり方ではあいつには伝わらない」


 晴夏が渾身の想いをのせて奏でた旋律は、日ごろの彼からは想像もつかない情熱的な調べ──真珠に手を伸ばし、彼女を手に入れようと、まるで恋焦がれているかのような音色だった。


 貴志の呟きを拾った紅子が耳打ちする。


「なんだ? どういうことだ?」


 彼女の問いに、眉間に皺を寄せた彼は小声で答える。


「真珠の音を聴けば、分かる。これでは──」


 ──彼女には伝わらない。

 彼女の負けず嫌いを甘く見てはいけない。


 これでは、真珠は晴夏から勝負を挑まれたとしか思わないだろう。


 真珠の表情を視界に入れる。

 晴夏から放たれた情熱を受け取った彼女は、まるで溢れ出す喜びを抑えられないとでも言うかのような恍惚とした表情をしていた。


 彼女の瞳が爛々と輝き始める。


 バイオリンをかき鳴らす直前、真珠は子供らしからぬ妖しげな光を瞳に宿し、嫣然と笑い──そして全身全霊の音色をはじいた。



「「──迎え……撃った!?」」



 紅子と咲也が、驚愕のあまり同時に声を洩らした。


「相変わらず……勇敢なお姫さまだね──真珠ちゃんは」


 加山が腕組みをして独り言ちる。


 その言葉に咲也が呆れ、額に手を当てて嘆く。


「なんつー、恋愛音痴だ」


 貴志が溜め息を吐く。


「まだ子供だからな。仕方がない」


「あれが、ただの子供であってたまるかっ」


 咲也が貴志の言葉に、小声で勢いよく反論した。



          ***




 晴夏の中に見え隠れした得体の知れない揺らめきの正体が、今やっとわかった。


 高温ゆえに青白く輝く、灼熱の火炎。


 彼の手から生み出された音色が、触れる物すべてを焼き尽くし、昇華していく。


 まるで煉獄で燃え盛ると言われる、浄化の炎だ。


 鷹司晴夏──彼はあの情熱の女・紅蓮の炎を身に宿す柊紅子の血を分けた息子だ。


 彼が、ただの『氷の王子』である筈がなかったのだ。


 そんな当たり前のことに、何故今まで気づけなかったのか。


 わたしは見誤っていた。

 だから自分の想像とは違う彼の内面を垣間見た時、足が竦んだのだ。


 けれど今は──それを知った今は。


 心が震える。

 胸が湧きたつ。

 ──彼の生まれ変わったかのような音色と、相まみえる幸運に。


 晴夏が音色で、わたしに問いかける。

 わたしは爪弾く音で、彼にこたえる。


 わたしが晴夏の心を求める。

 彼は旋律でわたしを包み込む。


 ガゼヴォで晴夏と共に、音の追いかけっこをして遊んだ。

 ──それは対位法をより身近に感じるために。


 スケールでリズムを変えて音遊びをした。

 ──それはお互いの音と会話をするために。


 すべてが、このステージ上での演奏に結びつけるため、わたしと晴夏が一緒に作り上げてきたものだ。


 彼はわたしの音色に焦がれていると訴える。

 わたしは彼の音色の輝きに心が躍る。


 彼がこれだけの調べを奏でるのならば、わたしもそれに負けるわけにはいかない。

 音に魅入られた者同士、音色に対するプライドはお互い絶対に譲れない。


 わたしたち二人は音楽を通じて魂をひとつに重ね、この演奏を通じて溶け合い、この感覚を分かち合っているのだ。


 晴夏がわたしの本気の音色を望み、挑んで来るのならば、わたしは正々堂々受けてたとう。

 

 彼の瞳に欣幸きんこうの光が見えた。


 彼はもう、大丈夫だ。

 演奏に心をのせることも、一人で容易くできるではないか。


 紅子に初めて会った日、彼女に訊かれた──晴夏の目に、この世界はどのように映っているのか、耳にする機会があったら教えてほしいと。


 わたしから伝えずとも紅子はこの演奏で、間違いなく感じ取り、確信していることだろう。


 彼の世界は、今、眩いばかりの輝きに満ちていることを。


 ああ、なんて楽しいのだろう。

 ──音の重なりが心地よい。


 もっともっと、彼と共にこの『最上の音色』を奏で続けたい。


 無情にも、永遠に終わらない曲などありはしない。

 もう、この時間は終わってしまうのか。


 残り二小節──ゆっくりと締めくくるため、お互いの弓の動きと呼吸に注視する。


 わたしはトリルを美しく響かせ、晴夏はビブラートをきかせる。


 弦の振動が消えるまで、二人でビブラートをかけ続けた。


 教会内に静寂が訪れる。

 しばらく物音ひとつしなかった。


 わたしと晴夏が、目を見合わせ微笑みあった瞬間──盛大な拍手が観客席から贈られた。わたしたちは深いお辞儀で、それに応える。


 穂高兄さまと涼葉が花束を持って歩み寄ってくるのが見えた。

 兄がわたしにブーケを手渡し、二人で抱き合った後、満面の笑みで健闘を称えてくれた。

 涼葉は晴夏に花束を渡し、彼の頬にキスを落としている。


 わたしは兄に促され、晴夏と向き合った。

 晴夏は今まで見たことのない、清々しい表情をしている。


 右手を差し出され、わたしは彼のその手を取った。


「シィ、ありがとう。君と出会えて、一緒に演奏ができて、僕は……僕は、本当に、幸せだよ」


 晴夏はそれだけ言うと、もう我慢ができないという顔になり、何を思い出したのだろうか突然声をあげて笑いだした。


「まさか……迎え撃たれるとは思わなかったけど……想定外過ぎて──やっぱり君は最高だ!」


 蕩けるような極上の笑顔を見せながら、彼はお腹を抱え、楽しげな笑い声を響かせる。


(うわっ 初めて見た! ハルの全開の笑顔──破壊力がすごい!)


 青き焔が氷の花を溶かし、あたり一面に花園と見紛うばかりに色とりどりの大輪の花が咲き誇る。絢爛豪華な満開の笑顔は、観客席をも虜にしているようだ。


 やっぱり、ものすごい美人さんだ!


 晴夏の顔が近づいてくる。


 超絶美人な笑顔に見惚れていたので、よく分からないうちに、彼の鼻先がわたしのそれに重ねられた。



 何が起きたのか、一瞬、分からなかった。



「は? え? なに? 今の?」


 わたしは驚いて自分の鼻先に手を触れる。

 驚愕に目を見開くわたしを見て、晴夏は楽しそうに笑った。


「いつものお返しと、さっきの迎撃の意趣返し」


 なぜだ!?

 今日は──いや、演奏後から、晴夏が妙に攻め攻めだ。



 わたしは彼に対して、またもや気づかぬうちに、何かやらかしてしまったのだろうか?


「え? 何? まったく意味が分からないんだけど」


 晴夏は「ちょっと攻略方法を長期戦で検討しないといけないかもしれない」と呟いている。


 ゲームか?

 何故いまゲームの話題なのだ?


 そもそも、晴夏よ、お前はゲームを愛するお子様だったのか!?


 狼狽えながら兄を見ると、彼は苦笑していた。


「気づかないことも、時には罪になると思うよ──真珠」


 どういうことなのだろう?


 貴志は?

 貴志なら、この言葉の意味がわかるのだろうか?


 わたしは客席に彼の姿を探す。

 彼も兄と同じ苦笑いを顔にのせ、舞台に向かって拍手を送っている最中だ。


 そうだ!

 協奏曲が成功したら、貴志に是非ともお願いしたいことがあったのだ!


「貴志!」


 わたしは彼の名前を呼んで、ここに来て欲しいと手招きをする。


 貴志は訝し気な顔をしてから、右手でシッシと小動物を追いやるような動作を返す。


 俺をステージに呼ぶな。


 彼の顔はそう物語ってのだが──そうは問屋が卸さない。

 何故ならば、わたしは貴志からご褒美をもらわねばならないのだから。


 多分、今日しか──いや、今しか貰えないご褒美だと思うのだ。





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