第115話 【真珠】「抱きしめられるなら」


「なんだか……すごいことになってるわね。貴志。ご愁傷様」


 理香と加山が、それぞれのスマートフォンとタブレットから目を離し、貴志に憐憫の眼差しを投げかける。


 貴志は憮然とした表情で静かにその身に怒りを募らせているようだ。


 加奈ちゃん情報で、先日のコンサート映像が出回っているということが発覚し、その動画リンクを確認した貴志。

 そして、そこに書かれていた『チェロ王子』というワードで検索をかけたところ、それはそれは色々な画像が出てきたようだ。


 しかも『チェロ王子、柊紅子愛人説』も、本当に巷間に広まっていたらしい。

 一体全体どうなっているのだ? と言うことで、理香と加山も情報収集に加わったところ、噂話のまとめサイトを理香が発見した。


 ちなみにわたしが当初──コンサート当日に想像していた『愛人説』が流れてもおかしくないと思った巷間は、星川リゾート『天球』内だったのだが、どうやらそれは既に全国区デビューを果たしていたようだ。


 ちょっとお子さまが知ってはいけない内容かと思ったので、わたしは晴夏の手を引いて、寝室の隅──扉の近くで、二人して体育座りで待機中である。

 わたしはお姉さんだから、そのくらいのゴシップネタに耐性はあるが、晴夏には刺激が強すぎるだろうと思って大人三人から離れたのだ。


 しかも、紅子は彼の母親だ。

 綾サマについてもマユツバだとは思うが、まだソッチ方面の世界の存在を知るには早すぎる年齢だと思う。


 まあ、それもこれも、貴志のこの容姿がすべての原因だ。

 老若男女を虜にする彼の佇まいは、性別と言う名の垣根をも軽く跳び越してしまう魅力があるのだろう。


 どちらにせよ、あと十年後には『チェロ王子』は全国区になっているし、抱かれたい男ナンバーワンにも輝いているのだから、その時期がちょっと早まってしまったと思えばよいだけだ。(まあ、その事実を知るのはわたしだけなのだがな)


 そんなことを考えていたら、玄関口の室内楽ルームから届いていたピアノの音が消えた。


 暫く物音ひとつしなくなった隣室の様子が気になり耳を澄ます。

 わたしの耳が、咲也の呟きを拾った。


「……俺は、倒せた……のか? 海の魔女セイレーンを……」


 少し躊躇うような咲也の声だった。


 セイレーン?


 ああ、あれか!──船乗りを食べるという、上半身は女性、下半身は妖鳥の──


 怪物だ。


 後世では下半身は魚──つまり、人魚という説もあるらしく、たしか某有名コーヒーショップのロゴマークはマーメイド系のセイレーンだった筈だ。が、わたしには怪鳥のイメージの方が強い。


 何故かというと、伊佐子時代に読んだ子供向けギリシア神話の挿絵のセイレーンが半人半鳥だったからだ。

 子供向けの『オデュッセイア』だったが、歌声で人間の男を誑かし、食べてしまうという話がものすごく怖かった。


「もう……大丈夫だ。本当に命拾いした」


 咲也の安堵の声が聞こえる。


 舞台なのか?

 それともテレビドラマや映画なのか──咲也は今度『オデュッセウス』役でも演じるのだろうか?


 その科白の練習をここでもしているとは、彼の役者魂に感心しきりである。


 そんなことを思っていたら、足音が寝室の扉に近づき、突然背中のドアが開いた。


 わたしと晴夏はぎょっとして固まる。

 そして、その扉を開けた咲也も驚きの表情を見せる。


「魔女……セイレーン……?」


 彼が震える手でわたしを指差し、そう呟いた。


(へ!? セイレーン? わたしがか?)




 彼の慧眼で私の姿はどう見えるのか気になった、とはいえ──



 まさかの化け物!?



 『紅葉』の佐藤マネージャーのように、本質は大人の女性に見えるとかだったら面白いな、くらいには思ってはいたが──予想外の言葉に衝撃を受けている。


 こんなにいとけないお子さまであるわたしをつかまえて『怪物』呼ばわりとは!


 思わず眉間に皺が寄ってしまう。


 わたしは彼に何かしたのだろうか?

 昨日は、咲お姉さまに対してそんなに酷いことをした覚えがない。


 どちらかというとわたしのほうが弄ばれていた気がする。


 兄に貴志に、尊に──あの困った笑いをさせてしまったように、咲也に対しても気づかないうちに、何か嫌われるようなことをしてしまったのだろうか?


 万人から好かれようなどとは毛頭思ってはいないが、嫌われるようなことをした覚えがない。

 理由が分からない。


 昨日の茶話会までは、割と好意を持たれていたと思う。

 そう──貴志に笑顔を取り戻してくれてありがとうと、お礼まで言われた筈だ。


 彼の行動と言動に一貫性がみられない。


 何故だ!?


 そして思い至る。

 あれか?──先ほどの顎クィ写真が脳裏によみがえる。


 笑顔の戻った貴志との触れ合いで、まさかとは思うが咲也は違う趣向へと向かう扉を開きかけているのだろうか。


 人の性的嗜好にとやかく口を出すような真似はしないし、誰を好きになろうと他者に迷惑をかけない限りは個人の自由だとは思う。


 もしかすると、貴志に(割と)大切に扱われている(かもしれない)わたしに対してヤキモチを焼いている──ということなのだろうか。


 貴志に視線を向ける。

 さすがに攻略対象だけあって、困惑して静かに怒っている姿でさえも麗しい。


 貴志よ。お前の節操を知らぬ魅力が恐ろしい。

 まさか、男にまで通用する色香を持っているとは、どこまで罪作りなオトコなのだ!?


 わたしは、貴志を咲也から守らねばならぬのか?

 それとも、貴志が無意識に垂れ流す魅惑という名の毒牙から、咲也をガードしてやるべきなのか。


 そんなことで頭を悩ませていると、咲也がわたしの前に膝を抱えるようにして座り込んだ。


 どうしよう。ものすごく見られている。

 穴が空きそうなほど、食い入るように見つめられている。


 こいつの行動原理がまったく読めん!


 読めないのだが──……不思議だ。

 わたしに対して負の思いが芽生えてしまい、怪物呼ばわりされているのかと思ったのだが、咲也の眼差しに嫌な感情は見当たらない。


 どちらかというと、やはり──好意に近いものを感じる。


 でも、その好意もわたしの『出来たら人に嫌われたくない』という思いが見せる錯覚なのかもしれない。


 晴夏が少し警戒して、わたしと咲也の間に移動しようとするのが分かった。


 けれど、その晴夏の動きよりも早く、咲也の手がわたしの顎を捉える。

 値踏みをするかのように、至近距離でわたしの顔を左右に動かす。


 その後、何故かホッと安堵の吐息を洩らす彼がとても印象的だった。


「咲也さん? 綾サマ? あの……?」


 わたしは、状況が読めないまま、そんな声を洩らした。


 彼の手が頭の上に置かれた。


「咲也──でいい。昨日の茶話会では、その……騙したようで、悪かったな。俺も──多分、もう大丈夫だと思う」


 安心した表情で笑う彼は、咲姉さまの時と違って少し幼く見えた。


「あんまり、貴志を惑わすなよ」


 貴志を惑わす?

 いや、ここ最近翻弄されているのはわたしの方だ。


「あともうひとつだけ、最後に実験させてくれ。悪いな」


 咲也は『実験』と言って、わたしの身体を抱き上げようとする。

 わたしはピシリと固まった。

 緊張のあまり身動きがとれない。


 咲姉さまには抱き上げられた。

 でも、あれは女性だと思っていたからだ。


 いまは、彼が成人男性だということが分かっている。

 分かっているから──


「咲っ お前、今度は真珠に何をする気だ?」


 少し慌てた貴志の声が届く。


 背後から伸びた貴志の手によって、わたしはフワリと抱き上げられた。


 天の救いだ。

 良かった。助かった。


 咲也に抱き上げられてしまう──と身構えて緊張した身体が、貴志に救い出されたことによって弛緩する。


 気づくとわたしは、貴志の腕の中にいた。


 ホッとすると同時に、わたしは貴志の名前を何度も呼び、彼の首筋に顔を埋めると更にぎゅっと抱きついた。


「うわっ 真珠、やめろ。くすぐったいだろう!」


 貴志が慌てて、わたしの身体をはがしにかかる。


 でも、わたしは無我夢中で彼の首に腕をまわした。




 抱き上げられるなら、抱きしめられるなら、その相手は──




「真珠! おいっ いい加減にしろ! 苦しいだろっ」



 わたしの腕が貴志の首を羽交い締めにし、彼はその苦しさからかわたしの腕をバリッとはがした。



「お前は、俺を絞め殺す気か!」



 貴志がお怒りモードで、わたしの柔らかほっぺをギュムッとつかんだ。



 ──ハタと我に返る。



 あれ?

 いま、わたしは何を思った?

 何を望んだ?



 わたしは貴志の顔を見詰めた。


 何も反応しないわたしのことを、彼は怪訝そうに見つめ返す。



 なんだ?

 わたしは何かを掴みかけていたのだ。


 なんだろう。

 この湧き上がるモヤモヤ感は。



 貴志め!

 邪魔をしおってからに!



 わたしが超絶不服そうな顔をしていたところ、理香が咲也に声をかけた。



「咲ちゃん、なんか貴志との関係が面白おかしく書かれてるわよ。ネット上に」


 咲也は「へぇ」と楽しそうに写真を覗き込んだ。



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