第114話 【真珠】咲也の音色と貴志の困惑
ああ、これは―――なんという複雑な想いの込められた『テンペスト』なのだろう。
迷い、戸惑い、憂い―――そして、希望?
不思議な色合いの混じった『嵐』―――音色の雨粒が想いを包み、地面を叩きつける。
その多彩な雫がすべてを洗い流し、彼の中にある『何か』を昇華している。そんな複雑な響き。
驚きだ。
咲也が、これほどまでの調べを紡ぎ出せるとは―――想定外だが、嬉しい誤算だ。
小さくノックをすると玄関扉はすぐに開いた。
ドアを開けたのは、何故か貴志。
加山ンはわたしと晴夏の登場に心底驚いた、という顔をしている。次の瞬間には、その驚きの表情はまるで無かったとでも言うかのように笑顔を見せる。
その後、彼はピアノを弾く咲也に目を向けた。
加山ンにしては珍しく、少し複雑な表情をしていたのが気になった。
わたしと晴夏は、貴志と加山ンの前に立ち、咲也のピアノ演奏に聴き入った。
彼は役者だと言っていた。
たくさんの人格をその身の内に棲まわせ、瞬時に仮面を被ることを生業にする芸能の人だと。
感受性も人一倍強いようだ。彼の生み出す音がそう物語っている。
本当は心のままに弾きたい。けれどこの演奏は、その感情が爆発する寸前で堰き止められたような―――そんなもどかしさを感じた。
どこか繊細で、不器用で、粗削りながらも、何かを納得させようとしているような。
その反面、痛みを糧にしよう、自分に取り込もう―――そんな意気を感じさせる演奏でもあった。
晴夏の顔を見る。彼は首元を押さえて咲也の演奏に聴き入っている。
芸術や芸能で身を立てる人は、芸をみがく為の相当な努力も必要だが、根源にあるのは真髄を見極める洞察力ではないかと思う。
本来あるものの形を正しく捉え、それを見る者聴く者に正しく伝達する表現力も必要だ。
役者に至っては、他者の望む『夢』を瞬時に理解する感性も不可欠。
この『テンペスト』には彼の鋭敏な感性が宿っている気がする。
眼の前で織りなされるこの音色だけで、彼が類まれなる天性の勘によって、芸能の荒波を生き残ってきた人間だということが理解できた。
彼の奏でる旋律は、そういった天性の才能を持たなければ成し得ない―――鮮やかな音色の連なりだった。
本能で嗅ぎ取った、真実を見極める慧眼―――彼の心の目に、本当のわたしはどんな姿で映っているのだろう。
―――少しだけ、興味が湧いた。
…
「咲ちゃん、やっぱりエンドレスで弾き続けてるのね~。」
理香がそう言ってやって来た。
心なしか息が弾んでいる。慌ててやって来たのだろう。
加山ンが「いま三巡目」と伝えると、理香は「いつもに倣うなら、あと二巡したらストレス消化完了ね」と言ってソファに座った。
「まだこの演奏、暫く続くと思うから座ったら?」
理香にすすめられて、わたしたちもソファへ移動した。
咲也の演奏をバックグラウンドミュージックにして、晴夏は加山ンにバイオリンの音色の違和感を伝えている。ブリッジを垂直に立て直してもらっているようだ。
それを直した後、加山ンと晴夏の二人は寝室に移動し、他におかしい箇所はないか確認をするらしい。
咲也の演奏を聴いていたところ、貴志のスマートフォンが三連続で振動した。
「真珠、返事が来たぞ。三人共来週の科博行きは大丈夫だそうだ。」
加奈ちゃんたち三人娘か!
貴志は詳細をつめるため、さっそく大学生三人娘に返信メッセージを打っている。
「あ……ありがとう! 加奈ちゃんたちの連絡先、わたしが持っていたみたいで伝えてなくてごめんなさい。今朝お兄さまに写真添付して送ってもらったんだけど、気づいてくれたんだね。良かった。早速コンタクトもとってくれて、すごく嬉しい。」
わたしは貴志の隣に移動して、彼の目を見詰めてお礼を伝える。
貴志は何故かとても嬉しそうだ。
わたしは、その彼の笑顔から目が離せない。
「目を見て話せるだけで、嬉しいものなんだな―――初めて……知った。」
貴志はそう言って、わたしの頬に手を添わせる。
彼の瞳から、わたしの心に温かな感情が流れ込んできた。
わたしも嬉しくて彼に微笑み返す。
心なしか頬が熱い。
また知恵熱でも出ているのだろうか。
明日は演奏会当日だ。
体調に気を付けなくてはいけないのに。
どうしよう。
突き抜けるような熱さが身体の中心を走る。
でも―――うん。もう大丈夫。
貴志の目を見つめ返すことができるようになった。
近々、脳の精密検査をする必要はあるのかもしれないが、とりあえず目を逸らすという最悪な態度をとり続けることは回避できたようだ。
昨日の『貴志クンを囲む会』での遣り取りが尾を引き、咲也に対して恨めしい気持ちもあったのだが―――あの茶話会のおかげで、わたしはこうやってまた、貴志の目を真っ直ぐ見ることができるようになったのだ。
そこは、お礼に値する。
昨日、咲也を女性だと思って繰り広げたアレやコレやについては、腹に据えかねる部分もあるが、これで相殺してやろう。
本当は気づかなかった自分が悪いのも分かっている。あまりにも淑女然とした物腰だったため全く彼女―――いや、彼が男性だということに気づけなかったのだから。
そんな自分のことを棚に上げ、上から目線で咲也に対して「許してやるか」などと思っていたところ、三人娘とやり取りをしていた貴志の表情が突然―――凍り付いた。
彼は慌てて立ち上がるとスマートフォンを持って、加山ンと晴夏のいる寝室へと入っていく。
理香もわたしも、彼のその態度を訝しく思い、何があったのだろう? と顔を見合わせる。
二人で頷いてから立ち上がり、貴志を追いかけて寝室へ入る。
貴志はスマートフォンの画面から目を離さない。
動画を見ているようだ。
ミュートされているので詳細は分からないが、石のチャペル『天球館』の内部が映っている―――演奏会の画像だろうか。
貴志は息を呑んで動画を見続け、瞬きも殆どしていない。
そして、今度は検索画面を開き、何かを打ち込んでいる。
その場にいる全員が、貴志のその態度に注目している。こんなに激しく困惑した様子の貴志を目にするのは珍しいので、みんな息を詰めてうかがっているのだ。
わたしは彼のその態度が気になり、そのスマートフォン画面をのぞき込む。そして、理香も加山ンも晴夏も、右へ倣えとばかりに同じ行動をする。
貴志はわたしたちがその画面を一緒に覗き込んでいることに、全く気がついていないようだ。
彼は何かを見つけたらしく、今度は目を見開き、微動だにしなくなった。
そこには―――貴志と咲也のツーショット写真。
咲也に顎クイされ、見つめられる貴志―――
まるで『六代目綾サマ』に迫られているかのような『チェロ王子』の、ちょっと背徳感漂う画像が現れたのだ。
「なんだ……これは……っ」
ものすごく困惑した貴志の声が、加山ンの寝室に響き渡った。
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