第110話 【幕間・番外編・高荷咲也】同調と『テンペスト』


 さざめく波の音が海辺へと誘う。

 数多のニンフのヴォカリーズが、この心を支配する。

 俺の意識を奪っていくのは、セイレーンの歌声か。


 『セイレーンの魔女』が妖し気に笑い、ゆっくりと手招きをする。


 彼女の姿は、既に子供ではなく大人の女性へとかわっている。


 なんという美しさなのだろう。


 俺は一歩一歩、足元を確かめながら彼女の元へと進む。


 ああ、駄目だ。

 これでは囚われてしまう。


 俺の命を糧に、彼女は更に美しく、その艶やかな美声でまた人間の心を奪うのだろうか。


 彼女を思い描くだけで、何故こうも胸が苦しいのか。


 彼女を想うだけで、何故胸が張り裂けそうになるのか。



 ――この狂おしい程の胸の痛みは、果たして俺の心が感じたものなのだろうか?




 嫣然と笑い、俺を誘う彼女のその身をかき抱き、掌をその頬に這わせる。



 唇を重ねたが最後――魂を貪りつくされるのだろう。



 それでもいいのかもしれない。


 一度、その唇に触れられるだけで本望だ。その後は、骸になろうと構わない。



 唇が今、重なろうとしたその時――



 突然、『セイレーン』はその身を子供の姿に――本来あるべき彼女の姿へと変える。いや、戻ったと言うべきか。



 俺は、驚いて彼女から咄嗟に離れる。



 今までの妖艶さは何処へ行ったのか、今度は好奇心旺盛な光をその瞳に映し、彼女は――真珠は、言う。



『咲お姉さま、わたし白猫ラブちゃんを抱っこしたいです』



 一瞬、何を言われたのか分からず、ハッとして俺は目を開けた。



          …



「夢――か……良かっ……いやっ 夢か、なんて言っている場合じゃない! 駄目だ! 毒されている。これは本格的に不味い……」



 昨夜、貴志と飲んだ後、部屋に戻りすぐに寝た。



 なんだか、色々な夢を見た。



 空蝉に眠り姫に、妖精に、天女にとオンパレードだった気がする。



 部屋のガラス窓にうつった自分の顔を見ると、心なしかゲッソリと窶れている。


 目の下には隈ができているのだろうか。

 精気を吸い取られているような気分だ。


 俺は何をしているのかと塞ぎ込みたくなった。



 しかし、なんつー夢を見ていたのだ。



 このままだと完全に囚われる。

 それだけは避けなくてはいけない。



 俺には、貴志のような覚悟なんて持てないし、そもそも、生身の彼女は子供なのだ。


 いくら幻惑されようとも、それは紛れもない事実。


 いかん。このままでは、マジで身を持ち崩す。



 ――ピアノを弾いて、心を落ち着けたい。



 理香のところで弾かせてもらおうか――いや、そのためには咲子にならなくてはいけない。



 さすがにこの格好で女の宿泊棟などに通っていることがバレたら、それこそ大事だ。

 週刊誌にすっぱ抜かれでもしたら理香に迷惑がかかり、間違いなく彼女の逆鱗に触れるだろう。


 しかし、咲子になるための準備をする気力は、今の俺には残っていない。



 もう、これは良治のところへ行こう。

 あいつの『真珠考』も聞いてみたいし、一石二鳥だ。



 そう思って、加山良治へとメッセージを送り、シャワーを浴びる。


 良治は、咲子の姿の時には絶対に近寄ってこないが、咲也の時には普通に声をかけてくる。


 俺の身バレを防ぐために、そうしてくれているのは分かるが、理香のように臨機応変に対応してくれればいいものを――と思わなくもない。



 心と身体の澱みを洗い流し、禊を終えた気分で玄関口をうろうろしながらタオルで髪を拭く。



 すると、廊下から『彼女』の声が響いてきた。


 思わず息を呑む。


 そうだった。

 俺の滞在する『天ノ原』の隣室『星川』に彼女は滞在しているのだ。


 彼女の兄――たしか昨日の茶話会に理香と共に現れたあの美少年王子の声も響いてくる。



「お兄さま、これからレッスンなのに申し訳ありません。こちらのメモを先に貴志に写真添付してほしいんです。すっかり渡すのを忘れていたので」


「ああ、これ? 女の人の連絡先なの? いいよ、ちょっと待っていてね――はい、送れたよ。じゃあ、行こうか」


「はい。紅子の部屋までよろしくお願いします」



 息を詰めてその会話を聞く。



 不思議だ――昨日感じた、彼女に対する想いへの焦りが、今の自分の中には見あたらない。



 仄かな慕情が残っているのは分かる。

 けれど、昨日感じた激しい想いとは異なるのだ。



 何故だろう。



 廊下から聞こえた彼女の声は、蠱惑的でもなく、なんら特別な感情が沸き起こるでもない。ただの子供の声に聴こえるだけだった。



 そんなことを考えていたら、良治から連絡が入った。

 理香の宿泊棟の3軒隣――ドアに緑の紐を結んである棟ということで、部屋番号とご丁寧に略地図までもが返信に添付されていた。



          …



 良治の部屋のドアを開けると、理香もその室内にいた。



「え? 咲ちゃん? 嫌だ、貴志みたいな雰囲気を醸し出しちゃって、アイツが来たのかと思った。ビックリしたわ」



 理香の第一声がそれだった。


 彼女は、明日の最終日に真珠の伴奏をするらしく、良治とその弾き方についての打ち合わせをしていたようだ。


 二重奏の伴奏ということで、真珠の相方は昨日最初に『天ノ原』まで彼女を探しにやって来た、あの美人系貴公子だ。


 あの少年も、彼女に心を囚われているのだろうか。

 末恐ろしい少女だなと、真珠を脳裏に思い浮かべて苦笑する。



「なあ、あの真珠って何者なんだ? なんでお前らは普通にアイツと話ができるわけ?」



 俺の苛ついた声音に、何かを感じ取った二人が会話を止めて、こちらを見る。



「なに苛々してるのよ? ハゲるわよ」


「えーと、真珠ちゃん? 彼女は『葛城のお姫さま』だよ。普通に話? できるけど……」


 理香の毒舌には慣れているから無視だ。

 咲子として会っている時は女友達のように接してくれるが、咲也の時は何故か当たりがキツイ。


「なにが『お姫さま』だ。そんな可愛げのあるモノじゃない。アレに魂を抜かれそうになったんだぞ!? 俺は!」


 一気に捲し立てたあと、ハッと息を飲んだ。


 理香が、獲物に狙いを定めた蛇のような目でニヤリと笑ったのが分かったからだ。


 失言だ。全て根掘り葉掘り暴かれる序章を自ら作ってしまった。



          …




「ほうほう、それで? 気になっちゃってたまらないって話ね」


 理香がものすごく良い笑顔をしている。


「うーん……。たしかに真珠ちゃんは美少女だとは思うけど、僕にとっては可愛い女の子――葛城を生還させた勇敢なお姫さまっていう感じかな。だから、そういう……慕情? みたいな思いは抱いたことはないなあ。ごめんね、高荷。役に立てなくて」


 理香は楽しそうに、良治は申し訳なさそうに答えてくれた。


 理香は何かを思いついたのだろうか。「あ!」と言ってから、急に合点がいったという表情をする。


「咲ちゃんの今の状態が分かった! ヒントよ。『安寿と厨子王』――覚えてる?」


 理香が何に気づいたのだろうか。突然、物語のタイトルを口にした。


 『安寿と厨子王』――昔、まだ小学生の頃、厨子王役を演じたことがある。けれど、その後の記憶が何故か抜け落ちているため詳しくは思い出せない。



 覚えているのは、その役の撮影後、気づいた時には数日が経っていて、ピアノの発表会に参加できなかった――と言うことだけ。



「ピアノの発表会を欠席したでしょう? あなたのお母様が挨拶にいらして、先生と母親数人をまじえた場でおっしゃっていたらしいけど、役の感情に同調し過ぎて、演技が終わっても咲也の人格が戻って来ないって大騒ぎだったんでしょ?――その時と同じなんじゃない? 貴志の気持ちに同調しなかった?」



 そう言えば――


「した」



 あれは同調したからなのか?



 あの気持ちは――苦しくて切なくて、狂いそうなほどの想い。


 あの時、真珠に目を逸らされた貴志の気持ちが流れ込んできた。


 ああ、そう……なのか?



 夜、真珠に会った時に仮面を被れなかったのは、既にその時「貴志」という役を演じていたから――そう言うことなのか?



 先ほどの理香の第一声がよみがえる。


『え? 咲ちゃん?! 嫌だ、貴志みたいな雰囲気を醸し出しちゃって、アイツが来たのかと思った。ビックリしたわ』



 俺は、やはり貴志に同調していたのだろうか。


 しっくり来るような来ないような、何処か釈然としない気持ちを吹っ切ろうと、俺はピアノにむかった。



 ベートーヴェンのピアノソナタ17番第三楽章『テンペスト』――


 今の自分の心を表すのなら、この曲しか思い付かなかった。



 俺は貴志の心に同調し過ぎただけなのだろうか。

 彼の心の奥底を覗きすぎたのだろうか。


 本当に? 本当に――それだけ?


 いや、深く考えれば身動きがとれなくなる。


 だから、答えはそれでいい――




  こんなにも強い、溺愛と執着。


  それにも勝る、深い慈しみに満ちた愛情。





 貴志から流れ込んできたこの想いを知れただけでも、大きな収穫だ。


 彼から伝わったこの気持ちを、今後の演技の糧としよう。



 役者としての魂が、貴志の心に同調した――それが答え。


 それで……いいんだ。



          ***



 咲也の、心を表現したかのようなピアノの音色が室内に響く。

 

「理香、あんなこと言ってたけど、高荷は葛城が部屋を訪ねてくる前から、真珠ちゃんを膝にのせたり甲斐甲斐しく世話をしていたっていう話なんだろう? それって――」


「しっ――良ちゃん、今は黙ってて。咲ちゃんには申し訳ないけど……なんというか……『貴志と真珠』なら何だか許せるんだけど、『咲ちゃんと真珠』っていうのは、ちょっと違うのよ……何でかしらね? 不思議だわ」


「ああ、何となく言わんとしていることは……分かる……かな。葛城と真珠ちゃんには、僕たちの想像もつかないような不思議な絆があるのは――感じているよ。だから、みんなも何も言わずに見守っていられるんだから」


「……咲ちゃんの気持ちはまだ萌芽。役者馬鹿だから、きっとうまく折り合いを付けて仕事に生かすわよ……ね? ……ごめんね――咲ちゃん」


 良治が時計を確認する。


「理香、そろそろ時間だろう? 僕は葛城とリハーサルをしてから、そっちに向かうから。真珠ちゃん達と先に始めていてくれるかい?」


「わかったわ。貴志の伴奏頑張ってね。良ちゃん、責任重大よ。一世一代の大告白? それに参加するんだから」


「そうだね。葛城から聞いた時は正直驚いたけど。あんなに幸せそうな顔を見たら協力したくなるよね。本当に責任重大だ」


「じゃあ、わたし、行くわね。咲ちゃんに、よろしく伝えておいて」


 理香は、そう言って玄関の扉を開けた。



 それと入れ違いで、黒のチェロケースを背に貴志が良治の部屋に入ってきた。



「この『テンペスト』は咲が弾いていたのか。これは……すごいな。想いの籠もった音の『嵐』――まさしくテンペストだ」



 貴志が感心したように、聴き入る。


「そうだね。彼も……色々と大変みたいだね」


 良治が少し複雑そうに笑う。



「みんな……色々な思いを抱えて、生きているからな……」


 貴志はそう呟いた後、穏やかな顔で良治に微笑み、その右手を差し出す。



「加山、よろしく頼む。伴奏を引き受けてくれてありがとう」



 良治も笑顔で、その右手を取った。



「こちらこそ、ご指名ありがとう。僕の最善を尽くさせてもらうよ」




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