第109話 【幕間・番外編・高荷咲也】夜想曲『シレーヌ』と 覚悟
ウォッカが喉を通り抜ける。
普段はこんな酒精の高い酒は口にしない。
けれど『セイレーンの魔女』の呪縛から逃れるため、今日はあえてこの強めの酒を選んだ。
比較的癖の少ない『フィンランディア』が『アンドロメダ』にあったのは幸いだった。
貴志は手酌で、冷酒を江戸切子のお猪口に注ぎ、少しずつ杯を傾けている。
俺は日本酒はあまり飲まないのでその様子を眺めていたところ、それに気づいた貴志が手を上げてスタッフを呼ぶ。
もう一つ余分に切子グラスを届けてもらうと、杯を冷酒で満たして俺に手渡したので遠慮なく口にした。
「日本酒はあまり飲まないんだけど、これは……飲みやすいな。どこの酒なんだ?」
俺が驚いた顔をしたのが面白かったのか、貴志は笑いながら銘柄を口にする。
「久保田の萬壽――月ヶ瀬の父の好物なんだ」
ここ数年、こんなに柔らかな笑顔を他人に向けることはなかった筈だ。
詳しい経緯は分からないが、葛城姓に変わってから月ヶ瀬の家名を出すことを憚られていたが、こんなに穏やかな表情でその姓を語れるようになったのか。
男の俺でさえもドキリとするような艶やかな微笑だ――昨日のコンサート時、柊紅子に挑発され、それに果敢に挑んだあの艶笑を思い出させる。
貴志が柊紅子と共に弾いた『リベルタンゴ』――あの情熱の音色は、去年までの彼の音とは一線を画していた。
俺も高校を卒業するまでは、ピアノを本格的に習っていた。国内のコンクールにも出場し入賞したこともある。
大学に進学すると共に、本業の公演が増え、ピアノは自宅で趣味の範囲にとどめることになった。
ピアノの師にはつかなくなったが、それでも心を落ち着かせるため、ピアノがそばにある時は指を動かすようにしている。
本業だけに没頭する生活では、いずれ破綻する。
心の逃げ場や、苦しさを紛らわせるためにピアノは必要不可欠だった。
本格的な音楽活動から離れているとは言っても、音の違いには、やはり気づく。それも、あれだけの音色の違いだ。
コイツの中の何かが変化し、それが音色にも良い影響を与えていることは分かる。
あの場にいた『守り隊』のほぼ全員がそれに気づいていたのではないかと思う。
そして、その影響を与えた人物が――あの少女だということも。
他者を寄せ付けず、常に一人でいることを望んでいた葛城貴志。
彼は、昏い影を抱え、暗黒の淵を常に覗き込んでいた。
その本心を写さない双眸は、常に絶望の色を宿していたのだ。
彼を見る者は、その美しさに魅了されるが、そこにある不安定さから、彼のことを見守らずにはいられなくなるのだ――目を離した隙に、彼が奈落へと身を投じてしまうことを恐れて。
それが、今年に限っては、その気配がない。
あの昏い影を取り払い、この先を生きようとする希望さえ見受けられた。
『守り隊』だけではなく、おそらく音楽関連の仲間にも安堵の吐息が広がっていることだろう。
立食パーティー時、貴志の音色の変化と、心の変化――まるで別人のように幸せそうに笑う彼のことで話題が持ちきりになっていた。
それは、逃げ出した『セイレーン』を彼が探しあて、戻ってくるまで続いた。
彼らの間柄が、どんなものなのかは分からない。
お互いに心の垣根を取り払い、遠慮のない関係だということは見ているだけで分かる。
年齢差もあるので、まさか恋仲というわけではないだろう――という意見が殆どだったが『セイレーン』に心を囚われ、思わず行動に出てしまった自分という例がある。
おそらく、貴志が彼女に感じているのは、その『まさか』なのだろう。
「あれは、彼女は……『セイレーンの魔女』だ」
俺は、うわ言のように呟く。
「セイレーン? ああ、ドビュッシーの夜想曲『シレーヌ』か――ローレライ的な」
貴志は俺の呟きを拾い、興味深そうに言を継いだ。
コイツがいっているのは、女性のヴォカリーズで始まる、あの曲だ。
あの妖艶で魅惑的な女性合唱のさざめきに誘われる幻想的な『シレーヌ』――セイレーンが、あの少女と重なる。
「ああ。俺は水底に引きずり込まれる寸前だった。あの時、お前の手に阻止してもらえなかったら――いや、お前に助けられた。本当に命拾いした心地だよ」
貴志は目を見張ると「お前もか」と苦笑した。
「あれは何なんだ? お前は、常に傍にいながらよく正気を保っていられるな――俺は身を持ち崩しそうになった。正直、恐ろしい」
貴志は、顎を掌にのせ、俺の顔を静かに見つめている。
「いや、俺も一度、失態を犯している。あれは、大人としてはあるまじきことをしたと、かなり反省をしている。彼女に――彼女の『目』に惑わされた。人を初めて『恋しい』と思った――その感情を侮っていた俺の失態だ」
彼は過去の出来事に思いを馳せ、自嘲の笑みを洩らす。
その心を『セイレーン』に奪われたことに気づいた時、彼が何かの失態を演じた――それだけは分かった。そして、そのことを後悔していることも痛切に伝わった。
「しかし、『セイレーンの魔女』ときたか」
貴志はそう言って、クッと笑う。
屈託のない笑顔だ。
俺は、二度と目にすることはないと諦めていたコイツの笑顔を再び見ることができたのだ。
それは、貴志が彼女と出会ったから――そのことだけでも『セイレーン』に感謝しなくてはいけないのだろう。
「みんな真珠のことを色々な言葉で表現するからな。それぞれ印象が違って興味深いだけだ」
それぞれ印象が違う――それだけの仮面を心に飼っているということなのか。
それとも、人の望む姿で心を惑わすのか。
「ある人は『空蝉』だと言う。彼女の兄は『眠り姫』と、その友人は『光の妖精』と言っている」
「お前は?」
コイツは彼女のことを何と思っているのだろうか?
「……『天女』――羽衣をなくした天女――だ」
『空蝉』に『眠り姫』に、『光の妖精』――こいつに至っては『天女』だと?
「なんだか、俺だけが彼女を悪女のように言っているみたいだな」
バツの悪そうな俺の態度を横目に、貴志は可笑しそうに笑う。
「悪女か――本人が聞いたらどう思うんだろうな。いや……でも、確かに悪女……だな。今日一日、早朝から晩まで、彼女の態度に戸惑い、一喜一憂させられた。俺もお前と一緒だ。彼女が子供に見えなくて――困惑していたんだよ」
どこか遠い目をした貴志の心は、既に何か覚悟のようなものを決めているように思えた。
俺は、貴志に質問する。
例年なら、演奏会翌日には『天球』を去っていた彼が、まだ残っているのだ。
「今年はいつまで滞在するんだ?」
毎年、自分の演奏が終わるとサッサと姿を消していたのに、今年に限ってはまだここにいる。その理由に興味がわいた。
「今年は、『クラシックの夕べ』最終日に飛び入りで参加することに決めたんだ。お前、加山と理香と同じピアノスタジオだったろう? 急遽、加山に伴奏してもらうことにしたんだ」
理香とは腐れ縁のような仲だ。
良治は、どちらかというとバイオリンがメインだったけれど、未だにピアノも続けているのか。
「ああ、あの二人と同じ師に仰いでいた。そうか――最終日も出るのか。『守り隊』は今日殆ど帰ったからな。それを知ったら残念がるだろうな」
貴志は「
「今朝、決めたばかりなんだ。真珠に、俺の心を救ってくれた彼女に、この気持ちを伝えるために――俺は彼女の為に、この想いを奏でるつもりだ。彼女に出会って、俺の人生は変わった。まさか、こんな短期間の間に、これほどまで心の持ちようが変化するとは、思いもよらなかった」
彼の心を救ったという『セイレーン』――やはり、彼女には心惹かれる。
最終日は、俺もまだ滞在中だ。
貴志が奏でる、まるで生まれ変わったかのような音色。その音で紡がれた旋律を再び聴くことができるのだ。
「何を弾くんだ?」
貴志は「分かり易すぎると笑ってくれていい」と穏やかに言葉を紡ぐ。
「サティの
――邦題は『あなたが欲しい』
「それは随分――ストレートなタイトルだな。いいのか? それ? かなり熱烈な恋の歌だったよな」
貴志はニッと口角を上げる。
「聴けば分かる――俺が彼女に伝えたいのは肉欲的な意味ではない。もっと、崇高で高潔なものだ。真珠は、俺が伝えたい気持ちを間違いなく……汲み取ってくれる筈だ」
「それは、お熱いことで」
俺は少し茶化して返答する。
少し妬けるような、寂しいような、そんな不思議な気持ちを隠すために。
貴志は「ここまでくるのに、この心境に到達するまでには、かなり苦しんだんだ」と自嘲の笑みを洩らす。
俺はその言葉に黙って耳を傾ける。
「今朝、あいつが大暴れしたおかげで自分の心に踏ん切りがついた。初めて知った『人を恋慕う気持ち』を甘くみて失態まで犯したが、いくら大人の姿に幻惑されようとも、やはりあいつはまだ子供だ。
巡り巡って――
自分のこの気持ちに覚悟を持てた。
全てが、俺にとって、必要な苦しみだったんだ」
彼の言葉を聞いていると、ギリシャ神話を思い出す。
一度は『セイレーン』に屈したが、それでもその誘惑を遠ざけることに成功した『オデュッセウス』――それが今の『葛城貴志』なのだろう。
ああ、もうコイツは迷わない――何か覚悟を持って、彼女を――『セイレーン』を愛すると決めたのだ。
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