第108話 【幕間・番外編・高荷咲也】『セイレーンの魔女』


「あれは……魔女、か?」


 俺―― 六代目市川綾之丞あやのじょうこと高荷咲也たかにさくや(時々、咲子サクコ)が発した第一声だ。



 茶話会の日の夜、魔女――真珠という名の少女を隣室に送り届けにきた貴志と、偶然会った。


 俺は彼女の顔を見ることができないまま、貴志コイツを『天球』のバー『アンドロメダ』に誘った。



 昼間、彼等と別れた後、頭を埋めていたのは彼女ことばかり。


 もう一度、彼女の『目』を覗いたが最後、全てを水底に引きずり込まれ喰らい尽くされるのではないか――真珠には、そんな恐ろしさがあった。



 だから、夜偶々会った時、彼女に目を合わせるどころか、一言も声をかけることができなかった。


 数多の仮面を被り、様々な役を演じ分ける――そうしてきた俺が、彼女の前では何故かそれを纏うことができなかったのだ。



「そう……かもしれない」



 魔女か? の問に、そう答えたのは、昔からの友人である葛城貴志。

 交渉は途絶えがちだったので、友人だと思っているのは俺だけかもしれないが、とりあえず友人としておく。


 貴志は、どこか遠くを見つめるような瞳をしている。


 とりあえず「こちらに目線をよこせ」という意思表示で貴志の顎を持ち上げて、顔をこちらに固定させる。



 やっと視線を交わせたことに安堵していると、店内からは、か細い悲鳴と何故かシャッター音が聞こえた――が、今はそれどころではないので無視だ。



 去年まで、ガラス玉のような意思をうつさない、虚ろな瞳をしていた彼。

 他者を拒絶するばかりで、己の本心など打ち明けることのなかったコイツが、珍しく本音のようなものを漏らしているのだ。


 ――周囲のことを気にしている余裕はない。



 咲子の時に『貴志クンを守り隊』という酔狂な名前を冠した親衛隊の隊長職に担ぎ上げられて早五年。


 今年の貴志は、去年までとは全くの別人に成り代わっていた。


 驚くほど柔らかな笑顔を見せるようになった。

 行動を共にする子供達と打ち解けあい、軽口を叩いたり小言を言う姿を何度か目にした。


 しかも昨日のコンサート後、あの少女と唇が触れる事故があった時のあの態度。


 今まで何度かコイツが女の誘いにのっていたことを目撃していた俺からすると、目を疑うばかりの態度だった。


 お前は思春期の中学生か。

 いや、実は誘いにのって一夜を共にしたと思っていたことさえも、俺の勘違いだったのではないか? と一瞬疑いさえした――そんな彼の狼狽えぶりに、思わずこちらまで赤面しそうになったほどだ。


「だが……魔女というのは言い過ぎだ」


 我に返ったのか、貴志は苦笑している。


 付かず離れずの仲だったからか、コイツも俺に対しては本音を打ち明けやすいのだろう。しかも、俺と「お姫さま」の接点も殆ど無い。


 お姫さま?――いや、アレは、そんな生易しいモノじゃあない。


 何故、あの少女をそんな括りで呼んでいたのだろう。


 彼女と同じ空間で同じ時を共にした後は、そんな呼称で呼んでいた自分の識別能力の甘さに肩を落とした位だ。



 アレは魔女だ。

 いや、セイレーンと言った方が正しいのかもしれない。



 船乗りを、その美貌と美声で幻惑し、水底へ引きずり込もうとする――海の魔女セイレーン。


 少女の皮を被った妖婦――真珠には、そんな底知れない何かがあった。



 茶話会に誘い、間近で会話をするまでは、そんなことは微塵たりと思わなかった。




 あの少女の『目』が、人の心を狂わせるのかもしれない。




 本当は、あの茶話会の中、もっと『守り隊』と交流してもらう予定だった。


 けれど、彼女の中に魔性のようなものを感じ、耐性のない者にまみえさせる危機感を覚え、常に膝の上に置いたのだ。




 いや――この俺でさえも、彼女に魅せられ、手放せなかっただけなのかもしれない。




 俺は最後、彼女に何をしようとした?



 ――そう、口付けだ。



 すんでのところで唇の真横へとかわし、貴志からの阻止で事なきを得たが、自分の中で何が起きたのか理解するまで暫く時間がかかった。



 俺は何故、彼女の唇にこの指で何度も触れたのか。


 他者と見えさせる危険性を感じたからといって、膝の上に置く必要はなかった。


 甲斐甲斐しくケーキを食べさせてやる必要すらなかった。


 唇に残ったクリームをすくい取る必要も、あまつさえそれを舐めとる必要さえ無かっただろう。


 頬への口付けのかわりに頭頂へと唇を落とした時の、あの慕情にも似た高揚感は?


 貴志に彼女の身をかえす時の名残惜しさは、一体何だったのか。




 役者は、自分の中にいくつもの人格を飼っている。誰もがそうではないが、少なくとも俺はそう思っている。


 あの少女は、一体何者なのだろう。

 あの身の内に、何を飼っているのだろう。


 共に時間を過ごせば過ごすほど、惑わされる。



 最初はただの子供のように映っていたその姿が、いつの間にか変わっていく。



 それは、まずは身の内から。

 言葉を交わし、その仕草や態度から、その内に潜む『何か』が、ただの子供ではないことに気づかされる。



 更に時を重ねると、その姿さえも妙齢の女人の姿をとり、幻惑される。



 すべてを囚われ、間違いを起こしそうになる。



 ――身を持ち崩しそうになるのだ。



 アレに関わってはいけない――俺の中の人格のひとつが警告を発する。



 そんなことは、分かっている。

 けれど、頭から離れないのだ。

 あの姿が。



 妖しさを纏う蠱惑的な微笑と、羞恥から生まれた純真な恥じらい。

 その双方が心の奥の扉を叩く。



 けれど、それに応えて、扉を開けてはいけない。


 興味をひかれ扉を開けたが最後――その時点で、心諸共『セイレーン』の餌食となるのは間違いない。



 貴志は――コイツは大丈夫なのだろうか。



 あの『セイレーンの魔女』と、かなり長い時間を過ごしているのだ。俺が過ごしたたった数時間どころではない時を――



 幻惑どころではない。


 彼の目に映る彼女は、既に子供の姿をしていないのではないか?



 彼女を探して『天ノ原』へ足を踏み入れた時、貴志と交わった視線を彼女はすぐに逸した。


 その時、彼から感じた苦しげな感情が、自分の中にも流れ込んだ。


 俺の役者としての習性なのか、人の心を読もうとする意識が――彼と同調してしまったのかもしれない。

 相手の呼吸を感じ、次の間合いをはかる。まるで殺陣のような感情の読み合いをする感覚。


 彼女を愛しげに見つめる貴志は、身も心も『セイレーン』に囚われているのだろう。


 その身だけではなく、魂までもが彼女の手の内――魔女の虜囚となっているのだ。



          …



「お待たせいたしました」


 その声で我に返る。


 俺の前にウォッカ、貴志の前には冷酒が置かれた。


 何を話そう。

 そして、何を訊こうか。


 彼の心を、知りたいと思った。



 おそらく、これは俺の役作りにもなる筈――そんなことを考える自分は、やはり根っからの役者なのだろう。



 お互いに杯を持ち上げる。


 乾杯の声と共に、二人で酒をあおった。




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