第86話 【鷹司晴夏】思いやる気持ち


 翌週、お盆休み前の須藤新太との合同レッスンは前日にキャンセルになった。

 体調不良とのことだが、前回の会話が原因の可能性もある。


 自分が放った言葉について謝ることも考えた。

 けれど、自分が心をのせた演奏をすることができないうちは、本当の謝罪にならない気がした。


 月ヶ瀬真珠の演奏を聴いてから、僕の世界には小さな火がともった。まだまだ小さな、いつ消えてもおかしくない篝火かがりびだ。


 それでも昏い世界で佇むだけの時間は終わりを告げた。


 正しく、美しいだけではなく、母のように、彼女のように心を音に重ねたい。


 僕は見つけたい――自分の心を込めた、僕にしか奏でることのできない音色を。



 見つけられるだろうか。

 迷いながら、躊躇ためらいながら、光を求めて彷徨さまよう――そんな日が続いた。



          …



 長期連休を目前に迎えた、8月の2週目――


 早めの夕食後の家族団欒の時間に、その電話はかかってきた。



 食後のデザートを準備していた母にかわり、父がその電話をとった。


「紅ちゃん、珍しい人から電話だよ」


 父が嬉しそうに、母に受話器を渡す。


克己かつみくん、これを子供たちと先に食べててくれ――珍しい? 誰だ?」


 母は洗ったデラウェアの盛られた皿と麦茶のボトルを父に手渡しながら、電話の相手を確認する。


「貴志くんだ。久々に声を聞いたけど、だいぶ大人びた感じだよ」


 母は呆気にとられたような顔をした。


「はぁ!? 貴志? どうしたんだ、あいつは。珍しいこともあるもんだ」


 そう言って受話器を受け取りながら、僕たちに指示を出す。


「ハル、麦茶をみんなのコップに注いでくれ。ブドウも先に食べていいぞ。それが終わったら歯磨きの準備だ。いいな」


 母は驚きながらも少し嬉しそうに、その電話を取った。




 どうやらその電話は『天球』でのコンサートの話のようだった。



「ははっ そいつはいい。この天下の紅子さまに伴奏をさせるとは、お前も偉くなったもんだな」



 そう言って、機嫌よく笑う母はチラッと一瞬だけ父を見た。



「それは正解だ。あの小娘――西園寺理香。わたしは好かん! 何かあったら協力してやるから遠慮なく言え」



 父は麦茶が気管に入ってしまったようで、激しくむせていた。



「父さま、大丈夫? はい、どうぞ」


 涼葉がそう言って、父にティッシュケースを手渡した。


 その様子を見ていた母は自分の唇をトントントンと三回叩き、ニヤリと笑った後、また電話に向かった。


 父の顔色は何故か青くなっていた。




 電話が終わった後、父が心配そうな声で母に訊く。


「貴志くん、なんだって?」


 母は「ふぅむ」と言いながらデラウェアを口に放り込み、父にこたえる。


「『天球』でのコンサート、毎年伴奏依頼していた小娘に、今年は頼んでいないらしい。週末に、月ヶ瀬家も訪問するみたいだしな、何か心境の変化でもあったようだが……詳細は不明だ」


 母の科白に、父も驚いた表情を作る。


「それは、美沙ちゃんも喜ぶだろうね。しかし、随分急な……一体彼に何があったんだろう?」



「分からん。とりあえず『天球』で、久々にイロイロと遊んでやろう。ここ数年、あいつは暗くて本当に面白くなかったからな。よーし! たっぷりと可愛がってやるか!」



 母は「とても面白い玩具を見つけたぞ」という表情で、嬉々として楽しそうだ。


 父は、少し引き攣った顔で「節度ある対応でお願いします。紅ちゃん」と言っていた。



「節度……か、今回は微妙だな。すまんが克己くん、子供たちが寝たあと相談したいことがある。時間を取ってくれ」



 母は思案顔で父にそう言ったあと、涼葉の歯磨きの仕上げをはじめた。

 僕がその様子を窺っていると、母に声をかけられる。



「ハル。お前、バイオリン教室で弾いている協奏曲、あれを徹底的に練習しておけ。『天球』での『クラシックの夕べ』最終日、お前と真珠であの曲を弾く気はあるか?」



 僕は息を呑んだ。


「それは……どういう……?」


「真珠は毎年、お盆の時期に『天球』に来ている。今年、わたしは『天球』滞在中に、彼女の兄のピアノの指導をすることになったんだ――晴子ハレコの代理でな」


 そこで母は言葉を区切り、一度口角を上げる。


「会えるぞ――真珠に。あの音色に。お前が望むのならば、二重奏を打診してやろう」


 一緒に――同じ舞台に立てるのだろうか。けれど――


「彼女は、あの曲を弾けるのでしょうか?」


「愚問だな。あいつは間違いなく弾ける。常識にとらわれたらこちらが食い尽くされるぞ。一緒の舞台に立つ覚悟があるなら、真珠とあの曲を弾いてみろ。面白いことが起きる気がする。お前にとって、かけがえのない経験になる筈だ」


 僕はゴクリと唾を飲み込んだ。


 一緒に、弾ける。

 彼女に、会える。


 あの音色を生み出す彼女の手に、指に、相応ふさわしい音を奏でたい。


 それは希望――僕の光。




 ああ、でも、僕は――彼女を傷つけてしまうかもしれない。



 今までの仲間が離れていったように――須藤新太を、傷つけたように。



 会いたい。

 けれど、会うのが怖い。



 相手の心を、その気持ちを、考えたことなど今まで一度もなかった。



 僕は『天上の音色』を求めるあまり、周りが見えていなかったのだ。



 彼女を思うことで、はじめて、その事実にも気づく。



 僕はできるだろうか。

 相手を思いやる気持ちを、育てることができるだろうか。



 心も成長していかなければ、そうでなければ彼女にふさわしい音色を、一緒に奏でることはできない。



 それでも僕はやらなければならない。

 彼女と共に舞台に立てる。

 そんな機会は滅多にない。


 それだけは理解できる。



「僕は彼女と一緒に、同じ舞台に立ちたい」



 僕は母の目を真っ直ぐ見つめて、はっきりと言った。



          …



 TSUKASA本社屋上ヘリポートから『天球』まではヘリコプターで約1時間の距離。


 今年も母と涼葉と僕の三人で一週間の滞在だ。


 涼葉は「シィシィと会える!」と興奮している。


 シィと真珠、この二人は同じ人物なのだろうか。

 印象があまりに違いすぎる。


 でも、彼女に会えば、すぐに分かる。

 あの輝きを間違えることはない。


 会いたい。

 早く、早く――一刻もはやく、彼女に会いたかった。



 眼下の景色が、灰色のビルの森から、色鮮やかな自然の森へと、少しずつ変わりはじめる。






 ヘリコプターの扉が開いた。

 はやる心を落ちつけるよう、僕はタラップをゆっくりと降りる。



 都会の喧騒と熱気ではなく、清々しい空気と涼やかな風が僕たちを包んだ。





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