第85話 【鷹司晴夏】出会い と 出合い

 母が映像を流す。


 拍手と共に、ひとりの少女が舞台袖から登場する。

 その印象はひどく幼く―――母がいう『天上の音色』を生み出せる人物とは、とても思えなかった。


 僕は、何故か落胆した。

 何かが変わるかもしれない―――そう期待した心を恥じた。

 誰かに頼ろうと思った気持ちを不甲斐なく思った。



「シィシィ?! 光の妖精のシィシィだ!」



 突然、妹の涼葉が歓声をあげた。とても興奮している。

 母はそんな彼女を膝に置き、なだめている。


 シィ―――毎年夏に訪れる星川リゾートの森で時々会う少女だ。


 けれど、僕は会話らしい会話をしたことがない。

 言動が幼い印象が強く、同じ年だと言われた時は自分の耳を疑ったほどだ。


 ガゼヴォでは涼葉とその少女の近くに座り、ただ彼女たちの遊びを眺めているだけの時間―――僕は、その少女の顔さえ覚えていないことに気づく。


 本当にこの少女がシィなのか、僕には判別がつかない。




 画面の中の彼女は緊張しているのか下を俯いたまま動かない。


 見ていられない―――舞台に立った瞬間から、自分の誇りをかけて演奏するのが音楽家だ。そこに年齢や性別、経験は関係ない。


 ステージに上がったその瞬間から、誰もが緊張の中、今まで積み上げてきた練習の成果を示して、自分の中の弱さと戦うのだ。


 どんなに幼くとも、一度舞台に立つと決めたのならば、その舞台上で甘えは許されない。



 もういい、充分だ―――僕がそう思って席を立とうとした時。



 少女は突然、往年の演奏家のような悠然とした笑みを見せ、ゆったりとした動作で優雅な礼をみせた。


 彼女の全身にみなぎる自信と、わたしの音を聴けとでも言うような泰然とした態度。


 彼女は既に先ほどの所在なげに立ちつくす子供ではない。


 まったく別の―――何か神がかった存在が突然宿ったような、その姿に―――僕は、目を、離せなく、なった。



 まだ演奏さえ始まっていないその段階で、僕の心は彼女に完全に魅せられていた。



 灰色だった僕の世界。

 彼女だけが色づいて見えた。




 彼女のバイオリンの構えは、僕の自宅の音楽ルームに飾られたヤッシャ・ハイフェッツのポスターを彷彿とさせる。


 『バイオリニストの王』と呼ばれた彼の若かりし頃の姿。Gストリングに弓を置く演奏の構え―――あの眼差しと威厳そのものだ。


 彼女から、目が離せない。

 瞬きも―――呼吸すらできない。


 彼女だけが、その画面から浮き出るように、僕の心に入り込んでくる。


 その少女は、短く、けれど勢いよく鼻から息を吸い込む。

 

 準備された初音がフォルテシモで弾かれた。


 重厚な音色―――細い子供の腕のどこに、これほどまでに深い重音を響かせる力があるのか。


 この速弾きのパッセージに、ついていこうとする指が指板上を優雅に踊る。

 滑らかにポジション移動していく彼女の指さばきに、僕は陶然となった。


 これは何という曲なのだろう。

 今まで一度たりと聴いたことのない、至高の技巧が散りばめられた音の洪水だ。


 僕をいざない、何処かへ連れ去ろうとする―――そんな演奏に全身が襲われ、戦慄に身体中が粟だった。


 少女が後方に目配せをした。

 ほんの僅かな時間、一秒にも満たない瞬間、彼女が息を呑むのが分かった。


 何事かが彼女の心に衝撃を与えたように見えた。けれど、彼女はその驚きを瞬時にしまい込み、動揺をおくびにも出さす、その神がかった演奏を続ける。


 僕は、右手で胸元のシャツを握りしめた。

 本物だ―――彼女が奏でるのは、本物の『天上の音色』だ。


 彼女が先ほど向けた視線のさき、後方のピアノの前に座る少年の存在に今更ながら気づく。



 何故、彼女と同じ場所にいるのが、この少年なのだろう。

 何故、その舞台に共に立つのが自分ではないのだろう。



 今まで感じたことのない、複雑な気持ちが混じり合う。

 この感情を何と呼ぶのか、僕はまだ知らない。


 けれど、ひとつだけ分かったことがある。


 僕は、彼女と共に『天上の音色』を奏でたい―――


 色づき始めた僕の心に、彼女が―――彼女の音色が棲みついた。


 カラカラに枯れた気持ちに、彼女の奏でる音の粒が―――雨の滴のように染みわたり、僕の世界を潤していく。



 もっと、もっと、もっと―――彼女の奏でる音楽を聴いていたい。




 声も出せす、ただ見詰めるだけ。


 その画面に手を伸ばそうとした瞬間―――映像の途中で画面は、暗転した。


 何が起きたのか、僕には分からなかった。


 演奏は途中だった。けれど最後まで映像を写すことなく画面は黒く変わったのだ。


「ここまでだ。この後―――彼女は訳あって演奏を止めた。お前に見せられるのは、ここまで―――だ。」


 母が、難しい顔をしてそう言った。


「名前は……っ 彼女の……、この子の名前は?!」


 僕は、母に必死になって訊いた。


 同年代の誰かを、知りたいと、こんなに心惹かれる思いで求めたことはなかった。


 知らない人間の爪弾く音色を、もっと聴いていたいと、こんなに魅せられたのも初めてのことだった。



「真珠だ―――月ヶ瀬真珠。それが、この少女の名前だ。」


 母が、何か思案しながら、彼女の名前を口にする。


「月ヶ瀬真珠……。」


 彼女の音色は、他の人の奏でるものとは違う。


 あの音は、細心の注意と、日々のたゆまぬ努力によって生み出されたものだ。


 僕には分かる。

 それは僕が音楽に対して向ける愛と同じくらい、深い想いの宿る音色に間違いなかったから。


 僕は、いつか、彼女と同じ舞台に立つことができるだろうか。





「会いたいか?」


 母が僕に訊ねる。


 僕は、頷く。言葉には出さずに返答する。


 僕の首肯に、何故か母は穏やかな笑みを見せた。


「そうか……。あえたか……。」


 彼女はそう小さく呟いた。





 出会えた―――彼女に。


 出合えた―――運命の音色に。




「ハル、今年も『天球』へ行くぞ。おそらく真珠とは、そこで―――逢える。」



 会いたい―――彼女に。


 彼女の―――あの音色を生み出す、奇跡のその手に、その指に、触れたい。


 僕は彼女と一緒なら、心を宿した演奏ができる―――そんな予感がした。


 この予感が、母がよく口にする『匂い』と言うものなのだろうか。





 ―――彼女は、僕の大切な唯一無二の『友』となってくれるだろうか。


 僕は彼女の音色を耳に残したまま、音楽ルームへ向かう。


 弾こう―――今はただ、あの『天上の音色』を目指して。


 彼女の音に恥じることなく、共に―――僕の音色を奏でる為に。

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