第47話 【真珠】星川リゾート中禅寺湖『天球』


 星川リゾート中禅寺湖『天球』―――天球儀を天井に模した石造りのチャペルのある湖畔の避暑地である。

 『紅葉』が和の趣の旅館だとすれば、『天球』は洋の趣のホテルになる。


 中禅寺湖を前面に見渡すことができ、背面は森林に抱かれる立地で、湖と山の両方を一度に楽しめるのが売りの高級リゾートだ。


 石造りのチャペル『天球館』では、リゾート挙式も取り扱っているのだが、全国的にお盆の時期に入ると婚礼も入らなくなるため、この期間だけは毎晩『クラシックの夕べ』というコンサートが開催される。


 毎日いろいろな奏者の方が演奏をしてくれるのだが、最終日はお客さんも飛び入りで参加したり、近所の子供たちも演奏したり合唱したりと、大変にぎやかな一日となる。


 わたしと貴志が『紅葉』を出発し、『天球』に到着したのは夕方のディナータイムの時間帯。

 途中で予想外の渋滞にはまり、到着がかなり遅れてしまったのだ。


 『天球』表玄関の車寄せで荷物を降ろし、車のカギをポーターに預けると、貴志はわたしを抱き上げてくれた。


「熱はもうないからひとりで大丈夫。歩けるよ? 貴志も疲れているでしょ?」


 そう伝えたところ、ちょっと困ったように笑って「最後までエスコートするよ。お姫さま」と言ってくれた。



 昨夜貴志に『前世』の話をしてから、この困ったような笑い方をするようになった。



 わたしはまた何かやらかしてしまったのだろうか、と小心者ゆえ非常に気になっている。


 

 まあ、もう抱っこしてもらう機会もそんなにないだろうと思い、今日の長時間の車移動(渋滞つき)は非常に難儀だったので、お言葉に甘えて抱えて移動してもらうことにした。



「しっかりつかまってろよ」



 わたしは「はい」と答えて、落ちないように首に手をまわして抱きつく。安定していて、とても心地がよい。



 貴志の頭よりひとつ高いところから見下ろす景色は、いつもの真珠の世界より広く、はるか遠くまでみえるので好きだ。



「昨日は色々と付き合ってくれてありがとう。本当に嬉しかった。一生忘れない一日になったと思う」



 そんなお礼を伝えると、「ああ、そうだな」と貴志が返事をしてくれ、わたしを抱き上げる腕の力がギュッと強くなった。



 館内に入っていくと、またもや視線の的となっていることに気づく。


 もうこれは、貴志と一緒にいると、避けて通れない苦行なのだと諦めるしかないのであろう。



「おかえりなさいませ、貴志さま。いらっしゃいませ、真珠さま。一年ぶりですね。とてもお美しくなられましたね」



 そう言って恭しく、総支配人の手塚さんが出迎えてくれた。

 お世辞だとわかっていても褒められると嬉しい。



 あれ? そういえば『紅葉』でお世話になった手塚さんて、もしかして―――



「手塚さん、もしかして『紅葉』の手塚さんて、ご家族ですか?」



 そう質問すると「はい。そうでございます。みのるに、愚息に会われたのですね。あちらでのご滞在はいかがでしたか?」と笑ってくれた。



「手塚さんには良くしていただきました。ありがとうございます」


 そう答えた後、ロビーのソファに通された。


 遅い時間にもかかわらずお茶とおしぼりが運ばれる。

 お茶請けは、これから夕食になるので止めておきましょう、とのことで食べられなかったが、美味しい夕飯のためグッと我慢した。



 二人でソファに座り部屋に移動するまでの間、お茶を飲みながら休憩をしているのだが、何故かわたしは貴志の膝の上だ。



 どうしたんだ、貴志よ。



 ああ、そうか、女性客に苦労しているという話だったから、女除けに子供のわたしを使っているのか。


 ならばそれに応えてやらねばなるまい。


 わざわざ御朱印帳の為に、鬼押し出し園まで行ってくれたのだ、それに報いるのがわたしの務めであろう。



 さて、可憐な妹演技をしようと気合を入れ、貴志に甘えるようにもたれかかり、そのまま後ろ向きの体勢で彼の顔を見上げる。



 予想より近い場所で視線が重なり、双方ともにビックリして動きが止まった。



 どうしたんだ、貴志よ。


 なぜそこで動きが止まるのだ。

 いつもなら文句のひとつも出る筈なのに。



 何かしっくりこなくて、わたしは口をすぼめてフッと息を彼の前髪に吹きかける。



 我に返ったのか貴志は急に動き出す。



「ああ、すまん。少し……考え事を……していた。ところで、なんでお前、俺の膝の上にいるんだ?」



 なんと、そんなことをのたまったのだ。



「へ?」



 なんだと、貴志。


 自分で膝の上に置いておいて、腕で抱えて離さなかったくせに、わたしのことを完全に忘れていたと言うのか⁉



 わたしの存在感のなさ、これはいったい何なのだ?



 ムッとしたわたしが、貴志の膝から降りようとジタバタしてみるが、貴志の腕は未だに胴体に絡まっていて抜けない。



「ああ、すまん。トイレか?」


「違います。デリカシーというものを学べ。貴志よ」



 賢者になったつもりで、デリカシーについて説こうかと思っていたところで、わたしたち二人に声をかける人物が現れた。


「ああ、ここにいたんだね。貴志、おかえり。真珠も良く来たね。おお! 綺麗になって、去年とは見違えるようだ」



 声のした方を見ると、お祖母さまのお兄さん―――この『星川リゾート』オーナーである葛城千景ちかげさんが立っていた。



「千景おじさま! ご無沙汰しております。膝の上からのご挨拶で申し訳ありません」



 貴志の腕を引きはがそうとしたがビクともしない。



 貴志はわたしの身体に腕を回していたことも忘れていたようで「何故どかないんだと思っていたら、俺の腕か」と言っている。



 本当にどうしたんだ、貴志よ!


 心此処にあらずだぞ。

 長時間ドライブがそんなに堪えているのか。


 それとも何か悩みでもあるのか?

 今日は夕飯を食べたら早く休んだ方がよいぞ。



 貴志の膝からおり、おじさんの元に近づく。


 なかなか恰幅の良い老年の紳士で、お祖母さまとは雰囲気がまったく違う。


「おじさま、しばらくお世話になります。祖母と兄は、お部屋でしょうか?」


 わたしがそう訊くと「千尋と穂高は、いま夕食中だ」と教えてくれた。


「荷物は部屋に運びおわっているよ。お茶を飲んだら、貴志に部屋まで連れて行ってもらうといい。今年もあの部屋だ」


 そう言って、千景おじさんはウインクする。



 あの部屋―――大きな天窓に天の川が映り、前面に中禅寺湖、背面に森林と、どちらも見渡せる眺望最高の特別室だ。



 ちなみに、祖母の実家ではあるが、宿泊中は特別室を使用させていただいているので料金はしっかりと支払っている。


 持てる者は、経済をまわす一助とならなければならない。

 少しノブレス・オブリージュに似た考えで、月ヶ瀬家の家訓のようなものだ。


「貴志、真珠を『星川』まで連れて行ってくれるか? そうしたら夕食前にちょっと確認したいことがある」



 特別室は星川リゾートの名前『星川』を冠する部屋だ。


 貴志に最上階の特別室『星川』まで連れて行ってもらい、部屋に入って、窓際に駆け寄り、閉じられたカーテンを開ける。


 湖面に斜陽の光が反射してキラキラと輝いている。


 反対側の森林側のベランダに続くカーテンも同じく開けると、森が見渡せた。


 『天球』の石造りのチャペル『天球館』も目に入る。


 そして、その天球館の奥、森の中の小さな一角にあるガゼヴォ――東屋が目に留まる。


 東屋のその奥にも建物が何棟もあった。

 あれ? あんな奥にも宿泊施設があったのか。

 知らなかった。


「貴志、あのチャペルの奥も『天球』の宿泊施設があるの?」


 わたしがそう訊ねると、貴志が近くまで来て抱き上げてくれる。


 すると、今まで見えなかった森の中の宿泊施設の全貌が良く見えるようになった。



「ああ、あそこは一棟ずつ分かれた建物なんだ。このシーズンは『クラシックの夕べ』で演奏する音楽家の人たちが宿泊している。この本館だと楽器の練習を心置きなくできないからな」



 森の中に宿泊棟があったことを、今日初めて知った。


 そうか、だから、スズリンとハルルンは森の奥にいつも帰って行ったのか。

 それで、わたしは森の中に棲む彼女たちを本当の妖精だと思っていたのだ。


 なるほど、合点がいった。



「あれ? そういえば貴志は今日は『星川』で一緒に泊まるの?」


 特別室『星川』は、部屋の玄関口を入ると、右と左にそれぞれ鍵付きの扉がある。

 右棟にはクイーンサイズのベッド二つの洋室と小さな居間、風呂に洗面所にトイレ。

 左棟には20畳の和室と同じく20畳の居間になる洋室。それから洗面所に檜風呂つきの浴室とトイレ。更には8畳ほどの和室が納戸代わりに設置されている。


 これだけの広さだ。わたしたちと一緒に宿泊することも可能だ。


 その方が、お祖母さまも喜ぶのではないかと思って聞いてみた。


「いや、俺は、あの森の奥の別棟に滞在予定だ。指を動かしておきたいからな」


 チェロの練習をするのか。


 わたしも昨日は朝出発前の明け方にスケールを一度さらったきりだ。指を動かしておきたい。



「それなら、わたしも練習したいから、そっちで一緒に泊まりたい!」



 そう言って昨日ヘリコプターで運んでもらった、わたしのバイオリンと貴志のチェロを左棟の納戸へ取りに行く。



「貴志、一緒に泊まっていいよね? わたしも弾きたいし、貴志のチェロも聴きたい」



 もうすっかりご一緒するつもりになって、バイオリンを背負ったところ、貴志に「駄目だ」と断られた。



「え? なんで?」と言いかけて、やめた。


 そうだった。

 今朝のこともあるし、久々に会う彼女などもいるのかもしれない。

 大人の逢瀬があるのならば、わたしは完全なお邪魔虫になってしまう。



「そうか。わかった。うん、大丈夫。お邪魔はしないよ。ちゃんと心得てます。えへへ……。わたしとした事が、気が付かずに大変申し訳なかった」



 納得して、わたし分かってますよー。大丈夫、大人だから、そういうことは分かりますから、と婉曲に伝えてみた。



「だから、なんでそういう話になるんだ?」



 貴志は、はぁーっと溜め息をつき、困ったような顔で苦笑いだ。



「え? 久々に会った彼女を連れ込むから来るなってことなんじゃないの?」



 直球で訊くと「違う! そんなものはいない」と、滅茶苦茶怒られた。


「泊まるのは駄目だ。でも、練習だけだったらいつでも来ていい」


 そうか、だったら夕食のあと、ちょっとお邪魔したいなーと、お願いした。


「分かった。じゃあ、先に楽器だけ運んでおく。俺は今から千景さんのところに行って用事がすんだら迎えにくる。夕食を一緒に食べたあと時間をとるから」


 夕食後、お兄さまも一緒に行くかな、と思っていたら、お兄さまはご自分の夕食後、そのままピアノ奏者の方の棟で夜の練習とのことが判明した。


 日本を代表するピアニスト・ひいらぎ紅子べにこから教授されているらしく、かなり演奏にのめり込んでいるらしい。羨ましい。



 柊紅子、どこかで聞いたことがあるような気がする。我が家の音楽CDの棚にでもあったのかもしれない。彼女の演奏を聴くのもとても楽しみだ。



 お祖母さまにもまだ会えず、そうしている間に貴志との夕食の時間になり、食後は貴志の滞在する森の中の離れ屋に向かった。


 こちらにはピアノが設置されていて驚いた。

 時々、音楽大学の夏合宿にも使われるらしく、一棟につき一台置いてあるとのこと。これも全く知らなかった。



 わたしは自分のバイオリンを取り出し、スケールだけを練習する。


 練習量を落としたことで、腕の痛みは徐々に引いてきている。


 腱鞘炎に良く効く塗り薬も取り寄せてもらった。

 それを塗りはじめたら、腱の炎症の痛みが軽くなるのが分かって嬉しかった。


 子供の治癒力は大人と比べて、やはり高いのだろう。


 早乙女教授には、痛みが取れたら簡単な曲であれば弾いてもよいとの許可をいただいたので、この分ならすぐに大丈夫そうだ。



 自分のやるべき練習を終え、貴志のチェロの音色に耳を傾ける。


 彼の音色は心地よい。


 けれど今日は、何故か今まで感じなかった不思議な色がその調べに宿っている。





 何を想いながら弾いているのか、


  それは、とてもとても―――切ない音色に聴こえた。





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