第42話 【幕間・真珠】告白と「お仕置きの時間」
貴志はわたしを手招きした後、再び前を向いてミネラルウォーターを口に含んた。
彼の後ろに、わたしは静かに歩み寄る。
「貴志」
名前を呼ばれた貴志が、こちらを向いてわたしを確認しようとする。
「そのまま! そのまま……聞いてほしいの。こっちは見ないで……お願い」
語尾が自然と尻すぼみになってしまう。
貴志は軽く溜め息をついた。
「……分かった。で? 話って?」
彼の顔は見えない。
でも、その方が良い。
反応に怯えていては、やはりうまく話せないと思ったから。
「浅草寺で、わたしは自分のことを『幽霊』だって言ったのを覚えている?」
「……ああ」
「あれは、半分本当で、半分嘘なの」
貴志からは何も反応はない。
黙って聞いてくれているのだろう。
「椎葉伊佐子は、今は存在しないの。彼女は、わたしの中にいるけど、現実にはもういないの。探しても……この世界の記録には存在自体がない人間なの」
どんな顔をしてこの話を聞いているのだろうか――「それで?」と、貴志がその先を促す。
「わたしは紛れもなく月ヶ瀬真珠だけど、わたしにはもう一つの記憶がある―――多分、この記憶は『前世』の記憶。バイオリニストとして生きていく筈だった、22歳までの伊佐子の記憶が」
最初に目覚めたのは、あのコンクールだった。
そして乙女ゲーム『この音』の世界にいることに気がついた。
正直言うと、自分の頭がおかしくなったのではないかと、何度も……何度も疑った。
「わたしは『前世』で、この――今生きている『この世界』のことを知っていたの。正しく言うのなら、それは10年後から数年間だけの短い期間、狭い世界についてだけ……」
貴志がピクリと動いた。
「10年後……? この世界……?」
「そう……10年後。わたしはこの世界で、あなたやお兄さまの『宝物』になる存在を苦しめるためだけに生まれた人間だった。そんなのは嫌だけど……だけど、伊佐子の記憶を思い出さなかったら、きっと……わたしはそういう救いようのない酷い人間になっていたと……思う」
伊佐子の記憶が入り込まなければ、間違いなくそういう人間に成長していた。
真珠の心を知るわたしだから、分かる。
「わたしという異分子が『この世界』に入ったことで、本来想定されていた未来と、多分まったく違う未来に向かっているんだと思う。わたしが伊佐子の記憶を思い出したショックで倒れて、お父さまとお母さまの関係が変わった。本当なら二人は今もお互いを避けて暮らしている筈で、お兄さまもわたしやお母さまを嫌って家族を憎む予定だった」
向き合うことのない両親。
愛情を求めても、それに応えることのない母親。
父親に甘やかされて増長する妹。
きっとこれからの10年間で、穂高兄さまは辛酸の苦しみを味わう筈だったのだろう。
求めても求めても、絶対手に入れられない愛情に絶望して。
すべてを諦めて、女性を嫌悪する―――それを救ってくれるのが『主人公』の筈だった。
「貴志――わたしは……あなたの未来も変えてしまったの。あなたを苦しみから解放してくれる、あなたの『宝物』になる存在は、この先の未来に現れる筈だった。でも、わたしがボタンをかけ間違えてしまった」
本来なら有り得なかった両親の和解。
和解から生まれた一泊旅行。
そして、その旅行で出会ってしまったわたしと貴志。
あの浅草寺での出来事が、彼をわたしの祖父母の元に導いたのだとしたら―――
穂高兄さまを、貴志を、本当に救ってくれる『主人公』が現れる前に、状況は変わってしまった。
わたしが存在するだけで、この先の未来は全く予想のつかないものになるのだろう。
「わたしはもしかしたら、穂高兄さまの、貴志の、本当に大切な『宝物』を奪っているのかもしれない……」
きっと彼らは、将来「主人公」に出会うだろう。
でも、それは本来の『この音』の設定とは全く違った意味の出会いになるのだと思う。
――お兄さまが辛い思いをしなくて良かった。
――貴志の苦しみが癒えて良かった。
そう思うのは紛れもない真実だけれど……でも、わたしはこの二人の心を救ってくれる『宝物』を結果的には遠ざけてしまったのかもしれない。
きっと出会えば二人とも『主人公』に夢中になるのだろう。
救うとか、癒すとかではなく、普通の恋愛をしてくれたらそれで良いとも思う。
でも、もっと心の深い場所で――魂が求め合うような愛情を育む相手として『主人公』を捉えることができるのだろうか?
その大切さの度合いが違ってしまうのではないか?
そんなことを考えることが何度もあった。
怖くて、考えたくなかった。
だから深く考えるのを避けていた。
これは、乙女ゲームとしては想定外の未来だ。
そして、わたしにとっては最善の未来――
穂高ルートでは、お兄さまに憎まれなければ、月ヶ瀬真珠としての人生を全うできる。
本当だったら、わたしは主人公を貶めようとすることで、お兄さまの逆鱗に触れて、月ヶ瀬を乗っ取った兄に放逐される運命だった。
何も知らない深層の令嬢だ。
ひとりで無事に生きていけるわけがない。
貴志ルートでも、わたしは「主人公」を傷つける。
それによって、わたしは貴志の怒りにも触れる筈だった。
そして高校を強制退学させられることになる。
月ヶ瀬真珠には、そんな未来が待っていたのだ。
死ぬわけではない、けれど、高校強制退学というのは、今後の人生を歩むうえでは最悪の選択肢の一つだ。
ゲームはそこで終わるけれど、生きている私にはその先の人生がある。
そんな状況になってしまえば、バイオリンを続けることも不可能に近い。
あの、まだタイトルを付けてさえいない『あの曲』をもう一度この手で弾くことさえできなくなるのだろう。
自分にとって、都合のよいことばかりだ。
わたしはズルい人間だ。
「ごめん……なさい……。大切なものを奪ってしまって……」
自分の幸せのために、二人の『宝物』を奪っているかもしれないことに気づき、怖くなって声が震えた。
「ごめんなさい……わたしがいて。二人の運命を変えてしまって……」
自分勝手な思いが情けなくて涙が出た。
知らず、彼の後ろ姿に頭を下げていた。
どのくらい時間が経ったのだろうか、貴志がこちらを振り返る気配がした。
わたしはずっと下を向いている。
こわくてその顔を見られない。
彼は何を思って、どんな表情を浮かべているのだろう。
「真珠、お前が知る未来がどういう物なのか、俺は知らない。でも、もしそれが本当なら――」
――本当なら?
「ありがとう……。10年もの時間を無駄にしなくて済んだんだ。俺はそれだけで充分だ。話してくれて……ありがとう」
わたしの身体がフワリと浮いた。
貴志がソファの上からわたしを抱き上げ、ストンと彼の隣に座らせる。
「怒ら……ないの?」
「何を怒るんだ?」
ティッシュを渡され、わたしはズビーッと勢いよく鼻をかんだ。
「まだ俺にとってのこの先は何も決まっていないんだ。お前が言う『決められていた筈の未来』に進むよりは、よっぽど良い人生を送れるのは間違いない。
俺は救われた。それだけが俺の真実だ。だから、泣くな。俺はそれだけお前に感謝している――分かったか?」
貴志は優しい眼差しで、わたしを見ていた。
頭をゆっくりと撫でられ、わたしはコクリと頷く。
「もし将来、貴志がその『宝物』に出会ったら、わたし、ちゃんと協力するから! あ、でも、その『宝物』が選んだ人に協力するっていうか……だから、貴志、頑張って。ああ……でも、お兄さまにも頑張ってほしいというか……うう、困った」
貴志がわたしの顔を覗き込む――ちょっと困ったような、悩んだような相貌で。
「もういいから、早く寝ろ」
「うん……、貴志頑張れ! わたしは協力は惜しまない! 女に二言は無い。生きている年数で考えると、わたしの方が貴志よりもお姉さんなんだから、姉と思って頼ってね」
わたしがそう言うと、貴志は何故か更に戸惑いの表情を見せた。
「参ったな……そういうこと……なのか……? つまり……俺の願望が見せる姿……ということ? そんなに飲んでいないぞ……」
意味のわからないことを呟いた貴志は、額に右手を当て天井を仰ぎ見る。
しばらく、そのままの姿勢で何事かを考えていた貴志は、ふと何かを思い出したようで「そうだ」と言って、わたしを見詰めた。
その目が、ちょっと悪戯に笑った。
あ、これはまた、何か仕掛けてくるヤツだ。
わたしはこれから何が起きるのかと、少々身構える。
「俺より年上だと豪語する真珠さん? あまり、悪戯が過ぎるのも困り物だ」
そう言って、わたしはコロンとソファに転がされた。
「さて――お仕置きの時間だ」
へ? お仕置き? なんで?
悪戯? はい?
どこにそんな要素があったのだ⁉
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