第36話 【幕間・真珠】老舗旅館『紅葉』一泊ご案内
ジオパーク入り口近くの土産物店の並ぶ一角。その向かい側にある露店でお好み焼きを買って軽目の昼食をとる。
ソースとマヨネーズで汚れるということで、また貴志に餌付けされることになったが、卵が丸ごと入っていて実に美味しかった。
観音堂で一度別れを告げた女子大生グループに、ここでもまた再会した。
彼女たちも、この後、長野まで向かうらしい。
奮発して贅沢なお宿に泊まるということで、かなり楽しみにしているようだ。女子旅、楽しそうで羨ましい。
彼女たちはこれからすぐに移動するという話だった。
わたしは笑顔で手を振り、貴志も「道中お気をつけて」と伝え、三人組に別れを告げた。
駐車場近くの土産物店内にある農産物直売所で、嬬恋村特産のトウモロコシを手に入れるのも忘れてはいけない。
これも本日のミッションのひとつなのだ。
このトウモロコシ―――茹でずとも生のままでも甘くてジューシーなのだ。
前世で家族と一緒に遊びに来た時も沢山購入し、車中でポリポリ食べたのが懐かしい。
さすがに今回、車で食べることはしないが、穂高兄さまとお祖母さまへのお土産にと購入することに決めていた。
そしてあわよくば、スズリンとハルルンにも食べさせてあげられるといいなと、少し多めに手に入れる。
茹でなくても、こんなに美味しいのか! と驚く顔を見てみたい。
みんな喜んでくれたら嬉しいな。
そう思いながら箱詰めしてもらったトウモロコシを、貴志の手で車まで運んでもらった。
そうそう。今年もお世話になる星川リゾートのオーナー ――お祖母さまのお兄さん・
そういえば、千景おじさんは戸籍上では貴志のお兄さんになるのか、とちょっと不思議な感じがする。
さて、出発前にトイレ休憩だ。
お父さまとお母さまの予想を裏切って大変申し訳ないが――お漏らしは、しない。絶対に。
「お前、色々なことを良く知っているな。特に食べ物だけど」
車で貴志は、ちょっと苦笑気味だ。
食べ物を追い求めるわたしに、執念のようなものを感じたのかもしれない。
美味しいものは正義だ。
気分が落ち込んでいても、美味しいものを食べると元気が出るではないか。
食べ物には、人を幸せにする力が隠されていると思う。
音楽と同じように、食べ物も人に寄り添い幸せを分けてくれるのだ。
決して食い意地だけではない、本当にそう思っている。
……いや、でもちょっと食い意地は張っているかもしれない。
さあ、次なる目的地は、星川リゾート長野松本近郊にある山間の老舗旅館『紅葉』だ。
貴志の戸籍上の母にあたるわたしの曾祖母が亡くなった時に、遺産相続で名義だけ彼がオーナーになった旅館らしい。
経営については、祖母の兄・葛城千景おじさんにお願いしているが、丸投げすることはせずに手伝いをしているので、一時帰国時には名義上引き継いだ旅館やホテルを回って現状確認もしているとの話だ。
そんなことをしていたとは、まったく知らなかった。
2時間位で到着できるはずだから、とりあえず寝ておけ、と貴志が薄手のシャツを空調の風よけにかけてくれる。
自分は運転するから大変だというのに、この気遣いに「やっぱり良いヤツだな」と思った後、わたしはあっという間に眠りに落ちた。
完全に熟睡していたようで、夢は全く見なかった。
…
貴志に起こされたのは、『紅葉』の表玄関の車寄せに到着してからだった。
車の振動が心地よくて、二時間近く眠っていたようだ。
まだちょっとポーッとする。
サイドミラーに写った自分の顔を見ると、頬が少し赤い。目も潤んでいる。体調自体は悪くないが、少し気怠いのは発熱のせいだろう。
長野も北軽井沢と同じく小雨がぱらついていて、少し肌寒かった。
車で空調の風よけに掛けられていた貴志の薄手のシャツにそのまま包まれ、彼に抱き上げられて旅館の中へと入っていく。
貴志は車のキーと荷物をポーターに預け、フロントへと向かった。
アーリーチェックインの時間帯のようで、今日宿泊する人たちがロビーのソファでくつろいでいる。
チェックイン後、部屋に案内されるまでの短い時間ではあるが、お茶請けが出され、ホッと一息ついている時間なのだろう。
貴志は、ここでも目立った。もう、これは彼の持つ
わたしは気怠さの中、貴志の首に抱きつきながら、彼よりも頭一つ高い位置からその様子を見下ろしている。
怖いくらい、もの凄い視線を感じた。
「貴志さま……いえ、オーナー。ようこそいらっしゃいました。ご予定よりもお早いお着きでしたね」
そう言って、総支配人なのだろうか、初老の男性が貴志に向かい深々とお辞儀をする。
「ああ、君島さん。急な話で申し訳なかった。部屋の準備は?」
「準備中でございますので、よろしければロビー内のソファでお掛けになってお待ちください。ただいま茶請けをお持ちします」
「ありがとう。よろしく頼みます」
貴志はそう言って、ソファの並ぶロビーに向かい歩を進める。
老舗旅館ということだったが、フロントのある一階ロビー内は、品の良い調度品でまとめられた洋風の作りだった。
海外からの観光客もチラホラ目についた。
ロビー内にあるソファに降ろしてもらい、そこにゆっくりと腰かける。
柔らかい!
でもただ柔らかいだけではない。
包み込まれるような安心感のあるソファだ。
これには驚いた。
こんなソファが自宅にあったら、お尻から根が生えてしまい二度と離れられないだろう。
どうしよう、離れたくない。冬場の炬燵のような離れがたさだ。
お茶請け配膳のお姉さんが、緑茶と茶請けに酒まんじゅうを持ってきてくれた。
ボーッとしていると、貴志がそれを口に運んでくれる。
わたしはパクッと小さく切り分けられた酒まんじゅうに食いつく。
もう今日は餌付け日和だ。
気怠いから動くのは辛いけど、食欲は旺盛なのだ。
この酒まんじゅう、お酒の香りと上質なこし餡のハーモニーが絶妙だ。
これは両親へのお土産にしよう。
そんなことを思いながら次はお茶をすする。
ちょっと熱かったので舌を口からチョロッと出して、空気にあてて冷やす。
そんな様子を見ていた貴志が、お茶を冷ましてくれたので、それをゆっくりと飲んで、極上のソファの上でシャツに包まれ、至福の時を過ごした。
「真珠、今日は奥日光へ戻るのはキャンセルだ。ここで一泊して明日移動しよう」
そう言って、貴志がわたしの頬と首筋に手を当てる。熱を確かめているようだ。
貴志の手はひんやりして気持ちが良かった。
「ん……冷たくて気持ちいい。……わかりました。お兄さま」
そうか、泊まるのか。今夜は奥日光には行けないのか。
わたしの体調不良のせいで迷惑をかけてしまったな……。
そう申し訳なく思ったところ、ハッと我に返る―――
「とっ……泊まりぃーーーーーーっ⁉」
「ばっ 声がデカイ!」
貴志の手で口を塞がれた。
周囲からの視線が痛い。
思わず大声を出してしまった。ごめんなさい。
でもっ でもっ それどころじゃないのだ。
いきなり宿泊とか、ハードルが高すぎる!
貴志は、わたしの大慌てっぷりに頭を抱えているが―――すまん。何故冷静でいられるのか。
ちょっと、まったく意味がわからない。
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