第28話 【葛城貴志】『空蝉』と『天女』


 積りに積もった心労と、泣いたことによる肉体疲労が祟ったのだろう。真珠はすぐに眠ってしまった―――この腕の中で。


 俺は真珠を抱きとめ、彼女の顔にかかったその髪を、指でそっと払う。


 穂高は彼女の手を握り、労るような表情で自身の妹を見詰めている。兄というよりは男の表情だな、と感心もする。


「いやはや、なんとも不思議な子だねえ。可愛らしい子供の外見をしているけれど、話していると窮屈だった衣を一枚一枚脱ぎ捨てるように、大人の女性に変化する――しかし、あの『目』は良いねぇ。葛城クンもあの目にやられた口でしょう? ボクもだよ。将来どんな女性に成長するのか、今から楽しみだよねえ」


 早乙女教授は、そう言って楽しそうに「あははは」と笑う。


 俺はそれに対する答えを、微笑で返した。



「そうかい。……まるで『空蝉うつせみ』のような女性だねえ―――真珠クンは」



 空蝉―――悩み、迷い、苦しみながらも最後まで気高く、己の矜持を守り通した『源氏物語』に登場する女性―――確固たる己を貫いた、凛とした生き様の女。



 俺の中の空蝉に対する印象はそれだ。おそらく早乙女教授の目にも、そう映ったのだろう。



 早乙女教授の話に触発されたのか、俺も珍しく自身の本音のようなものを口に乗せる。



「俺には『羽衣をなくした天女』のように見えていました。俺を救い出してくれた奔放さと大胆さから一見とても自由に見えていたのですが、実際の彼女は窮屈な地上で自分の限界に苦しんでいたように……」



「ははは、そうかい。いいねえ。キミから女性のそういう話を聞けるとは思わなかったよ。また、今度、コレに行って話したいもんだよ。利根川クンも誘って―――そのキミの女性考をね」


 コレ、と言って教授はお猪口を呷るような仕草を見せる。


「ええ、いずれ―――是非お願いします」


 早乙女教授は「うんうん」と満面の笑みで頷きながら、姉・美沙子の話題に触れる。


「そういえば、あれから美沙子クンは元気にしているのかい?」


「ええ、今日は出がけにひと悶着あったんですが。相変わらずです」


「そうかい。彼女だけが、ボクの指導人生での心残りだったからねえ。あんな形でバイオリンから遠ざかってしまったから。……ああ、いや、これは年寄りの独り言だよ。すまないね」


「それはどういう……?」


 早乙女教授は、困った顔をして、頭を掻いてから微笑んだ。


「いや、すまないね。ボクも結局は、何があったのか詳細はわからないままなんだよ。もっと寄り添ってあげるべきだったと気づいた時には遅かったんだ、それだけだ」


 教授はそれ以上、何も語ろうとはしなかった。


 俺も、そこを無理にこじ開けるのは得策ではないと判断し、暇乞いの挨拶をして、教授宅を後にした。



          …



「穂高、大丈夫か? 疲れてるなら俺につかまって寝てもいいんだぞ」


 電車の中で甥に話しかける。

 穂高は真珠のバイオリンケースを大切そうに前抱きにしている。


 俺は寝ている真珠を抱き上げているので、穂高の手を繋いでやれず、その立ち位置だけに注意を払う。


「僕は大丈夫です。叔父さん、『For Isako』って……、真珠が言っていた『伊佐子』っていう偽名のことですか?」


「ん? ……ああ、多分……そうだ」


 穂高は俺を見上げて、真剣なまなざしを向ける。



 こいつも良い目をしているな、と感慨に耽っていると、穂高は少し悔しそうに言葉を洩らした。



「叔父さんは――貴志さんは、何か知っているんですね、きっと……悔しいけど、今はそれでいいです」


 穂高は俺にそう伝えてから、また前を真っ直ぐ見る。


 その瞳には車窓を流れる景色が映っている。



 こいつも将来、かなり有望そうだな―――そんなことを甥の横顔に思い、何故か嬉しくなり俺は笑みをこぼした。



 真珠が寝ぼけてモゾモゾと動きだす。


 穂高に気づいた彼女は、兄妹二人で少しの会話をしたのち、俺の首に手をまわし、落ちないようにしがみつく。



  「ありがとう……貴志……」



 彼女は、俺の耳元で、囁くように、甘えるように、感謝の言葉を述べた。




 いつか、天女は羽衣を手に入れて、俺の手の届かない遥か高みに昇っていくのだろう―――




 それまでは守っていこう。

 寄り添うことしかできないが、大切に慈しんでいこう―――



 そんなことを胸に、俺は真珠を強く抱きしめた。




 車窓からは―――夏の暑い陽射しが降り注いていた。










【後書き】


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ありがとうございます(*´ω`*)

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