第18話 【葛城貴志】夏の夜の夢 2


 俺は黙って、その不思議な少女――伊佐子の話に耳を傾けた。


 伊佐子は気づいているのだろうか――

 彼女が話す言葉が、突然変わったことを。


 日本語ではない――彼女がその声に乗せるのは落ち着いたトーンの英語。


 雷門に浅草寺――日本を代表する国際的観光名所だ。

 英語を話す子供も沢山訪れているだろう。


 けれど、彼女の話しぶりは、その口調は、その身振り手振りは、まるで大人そのものだ。


 遠い記憶を呼び覚ますように、懐かしむように、彼女の声が優しく穏やかに思い出を紡ぐ。



 とても心地の良い、美しい旋律を思わせる、望郷の言葉――



 伊佐子は語る――彼女のことを、家族のことを。


 思い出しては涙を双眸に溜め、息を吸い込んでは呼吸を詰まらせ、それでも尚、言を繋ぐ。



 嗚咽にせき止められた呼気。

 流れ出すように紡がれる追憶。



 ――それらが、まるで緩急を伴った美しい旋律のように、心の中へと広がっていく。



 その言の葉の数々に、相槌を打つのも躊躇われた。

 もっと聞いていたいと思える、それは心地の良い天上の音色だった。



 その声音のさざめきに酔いながら揺蕩たゆたう。


 まどろむような甘美さに、隣に座る少女がいつしか大人の女性であるような錯覚を覚えた。



 伊佐子は言う。

 会いたい、謝りたい、愛していると伝えたい、家族に――と。


 もっともっと大切にしたかった――と。



 ふと、思いを馳せる。

 少年時代の自分に――己が既に一人前の大人だと思い込み、自分の選択を常に正しいと信じて疑わなかった浅はかな過去の自分に。



 彼女に感化されたのだろうか、俺は今まで誰にも話したことのなかった過去の自分のことを――心の昏い場所に溜まっていた、後悔という名のおりを、少しずつ少しずつ、伊佐子へと吐き出していった。



 父の願いと思い。父が背負う責務に気づかず、幼い正義感だけで反発していたこと。

 自分の傲慢さに気づけず、一人で生きてきたつもりになっていたこと。


 いつも泣いて、寝込んでばかりいた母に心配ばかりかけたこと。

 それでも母がいつも助けてくれていたこと。


 自分が逃げ出すことで、姉にすべてを背負わせてしまったこと。

 その姉に課せられたのは愛のない生活――


 家族の思いから逃げた過去の自分を思い出しては、浅慮さを嫌悪してきた自分。


 大人になって、その愚かな行為に気づいたが、もう既に手遅れだったこと。


 そんな懺悔の言葉ばかりが、零れていく。


「遅すぎることなんて何ひとつないわ」


 伊佐子は、クスッと笑う――後悔したら、そこからまたやり直せば良いのだ、と言って悪戯に微笑む。



 俺の心の中のよどみを浴びながらも、そうやって笑う姿は、まるで蓮の花のようだった。



 汚泥不染おでいふせん――場所柄か、そんな言葉が脳裏を掠めた。


 蓮は汚水から立ち上がるが、花は清浄なまま汚れを寄せ付けない。


 彼女がそんな、清廉な花に見えた。



 

「いいこと教えてあげる。あなたは将来きっと、とても素晴らしい『宝物』に出会える。だから大丈夫。必ず救われるわ」


 伊佐子は、そんな予言めいた科白セリフを俺に残した。



 不思議と心が凪いでいた。


 心の中の汚泥に溺れそうになっていた心が救われたような、浄化されたような、そんな不思議な時間だった。



 伊佐子が俺のチェロケースを、そっと撫でた。



「ねえ、何か弾いてくれる?」


「お望みは?」


「そうね……」


 首を傾げながら逡巡した後 ――


「"Silent Woods" by Dvorak」


 そう答えた。




 ドヴォルザーク『森の静けさ』―――作曲家アントニン・ドヴォルザークが同胞のもとから新天地へ旅立つ時のコンサートで披露するため、もともとあったピアノ連弾曲からチェロ用に編曲したものだ。


「了解」



 何故この曲を選んだのだろう――伊佐子のその眼差しから、この曲を選んだ彼女の意図を微かに感じ取りながら、弓を張り、調弦を済ませる。



 椅子代わりにと、少し離れた植え込みの石垣に腰かける。



 伊佐子はその場から動かずに、細い道を挟んだ石段の隅で演奏の開始を待っている。



          …



 目を閉じる――鼻から深く息を吸い込み、一音一音を大切に、慈しむように、音の輝きに心を宿していく。



 夜の静寂をぬって、薄暗い森を連想させるフレーズ――森の中を漂う霧を彷彿とさせる音色が広がっていく。


 音を震わせるためにヴィブラートをかけ、たっぷりとした余韻を持たせて弓を引く。


 穏やかな悠久のときを彷徨いながら、温かさのこもる音の波に包まれていく――囁くように、けれど時に、激しく――転調と共に、音にあかりを灯す。



 周りの音は何も聞こえない。



 耳に届くのは自分の爪弾く音色だけ――こんなに思いを込め、恍惚とした思いで曲を奏でたのは何年振りだろうか。



 伊佐子の思いを汲み、彼女を想いながら、曲の世界へ誘われていく。



 新天地へと向かう希望の光が、薄明光線のように霧の中に差し込む。その幻想的な輝きを彷彿とさせる滋味溢れたぬくもりを、その音の響きを、最後の一音にまで渡らせる――



  ――この音色は、彼女のために。

  ――そして、過去に留まっていた自分の、これから先の未来のために。



 最後の長音を滑らかな弓の返しで響かせ、その残響が消えゆくまで左の手首を揺らす――余韻の中、ゆっくり目を開け、弓を弦からそっと離す。



 いつの間にか、観光客や帰宅途中の人々が俺の前に人垣をつくっていた。


 目を見開くと同時に、聴衆からあたたかな拍手が送られた。

 驚きながらも、目礼する。


 伊佐子のいた場所に視線をむける。


「……どこに……?」


 姿を探すが、彼女のいた石段にその影はなかった。



 

 彼女は、やはり幻だったのだろうか?


 本当に、うつつのものでは、なかったのだろうか?




 何年もの間、抱え込んでいた――鉛を飲み込んだような重苦しい心が、いつの間にか軽くなっていることに気が付いた。



 俺の吐き出した泥濘は、伊佐子がその身で受け止め、浄化してくれたのかもしれない。



 関係の途絶えていた父親の顔が脳裏に浮かんだ。


 一度、腹を割って話をしたい――己の未熟さと愚かさを、心から詫びたいと素直に思えたのだ。


 父は、会ってくれないかもしれない。


 けれどもし、会うことが許されたのならば――逃げずに真っ直ぐな気持ちをぶつけてみよう。



 彼女に会うまで、そんなことを自分が考えるなど思いもよらなかった。



 伊佐子が選んだ曲は、希望の輝きを予感させる曲。



 もしかしたらこの曲は、彼女から贈られた俺へのはなむけなのかもしない。




          …



 伊佐子が告げた、予言めいた言葉が胸によみがえる。



『いいこと教えてあげる。あなたは将来きっと、とても素晴らしい『宝物に』出会える。だから大丈夫。必ず救われるわ』




「……ああ、見つけたよ」




 大切な、不可侵の『宝物』――


 決してけがしてはいけない、聖域――伊佐子――君を。




 目を閉じると、思い出されるのは彼女の声音。



 (またいつか、君に会えるはずだ……)



 ――何故そう思えたのか、理由はわからない。


 けれど、予感がする。




 その時が来たら――


 ――俺は、彼女の笑顔を守りたい。

 ――この心を、救いだしてくれた彼女の笑顔を大切にしたい。




 心の底から、そう――思った。








【後書き】

ドヴォルザーク『森の静けさ』を聴きながら読んでいただけるとイメージが伝わるかな?と思います。

Jacqueline du Pré《ジャグリーヌ・デュ・プレ》や、Yo-Yo Ma《ヨーヨー・マ》&小澤征爾氏の『森の静けさ』もとっても素敵ですが、貴志はSteven Isserlis氏の"Silent woods"のイメージで弾いてます。



イメージがわくかな?

 と念の為リンクをつけておきます。


https://youtu.be/X_3NoaYZJ3s

(0:26から演奏開始です。)

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