第4話 月ヶ瀬真珠と家族 1
「……お、にぃ……ちゃま……お顔……べちょべちょ……なんだか変よ……?」
真珠の
伊佐子の人を落ち着かせる低めのトーンとは異なる、繊細で可愛らしい声だ。が、兄・穂高へと向けた第一声があまりに酷いのではないか? と感じたのは否めない。
伊佐子の意思で出た
「真珠? 真珠! 目を覚ましたわ! 誠一さんお医者様を!」
もう片方の手を握っていたのは、普段はあまり真珠に関心を示さない「今」の母親だった。
子供が二人いるのが信じられないような、その美貌に息を呑む。30代にはなっているはずだか、20代と言っても全く疑問に思わない佳人だ。
「……かぁ……しゃ……ま……綺麗ねぇ〜……」
真珠はフニャリと笑い、ホッとしたような気の抜けた声が咄嗟に出てしまう。
今の状況を考えると、あまりに呑気過ぎる内容なのだが、つい口にのぼってしまったのだ。
出てしまった言葉は取り戻せないので、そこは小さな子供故だと諦めてもらうことにしよう。
こちらもさぞご婦人方に人気だろうと想像に難くない、30代半ばの美丈夫である。
部屋に設置された電話で何処かに連絡を入れているのだろう、父親のバリトンボイスが室内に響く。
意識がハッキリしてくると、身体全体が怠く、上手く力が入らないことに気づいた。声を出すのも辛いのだ。
どの位の時間、寝ていたのだろう?
「無理にしゃべらなくてもいいから、今はゆっくりしていて。今お父さまがお医者さまを呼んでくださるから」
母・美沙子がそう言って、わたしの涙と自分のそれを拭うと、わたしの視界を埋めていた穂高をそっと引き離し、そしてベッドから離れていった。
これからやって来るであろう病院関係者を迎える準備の為らしい。
視界が広がり周囲を見回すと、自分の部屋ではないことが分かる。どうやら病院の一室のようだ。
さっき父がかけていた電話もナースステーションにつながる内線電話なのだろう。
目を覚ました部屋は、伊佐子の人生22年の間に蓄積された記憶の片隅にある白い病室ではなく、落ち着いた色合いの客間のような広い部屋だった。
最初は、ホテルか? とも思ったのだが、検査器具や酸素マスクが周りに設置され、バイタルサインを映す機械画面も目に入ったので、ああ、お金持ち専用の病室かと合点がいった。
医者らしき白衣を着た男性が看護士数名と共に入室し、ペンライトで瞳孔の確認をしたり、聴診器を当てたり、忙しなく動いている。
話を聞くと、どうやら3日間全く目を覚まさなかったらしい。しかも、どんな刺激を与えても無反応。ほぼ植物状態だったようだ。
呼吸だけはあるが、最悪一生目を覚まさない可能性もある。このまま生体反応が弱っていけば、脳死判定のチェックも将来的に行う可能性もある、と医師から告げられたばかりだったようだ。
5歳の幼女が、そんな状態になっていたら家族の心配と絶望は相当なものだったろう。
自分のせいではないが、申し訳なさがいっぱいになった。
普段、泣いたことのない穂高少年の珍しい泣き顔も見れたし、母に至っては『血も涙もないヒト』と感じていた真珠なのだが、どうやらそれは勘違いだったようだ。
母親に対してそんなことを思うなど、我ながらヒドい娘だ。
お医者さまからの検査が終わり、明日は精密検査に一日費やし、経過観察入院を経て、問題がなければ退院。その後暫く通院する事で両親と主治医の間で話がついたらしい。
倒れてから3日間、点滴のみで栄養補給していたため、まずは流動食で胃袋を満たすことになった。
母が介添え役をかってくれ、ペースト状の食事をスプーンで運ぶのを、わたしは鳥の雛よろしく口を開けて待つ。
パクパクと胃に流し込むのを何度か繰り返し、満たされるのには少し足りない六分目位の量でおあずけとなった。
「お母しゃま、ありがとう。ご馳走しゃまでした。」
手を合わせ、母と食事に感謝する。
お腹に食べ物が入ったことで、声もだいぶ出るようになり滑舌も戻ってきた。
でもサ行は発音が難しい。
話すための筋力が発達していないのだろうか?
寝込んでいたからなのかもしれないが、奇妙な違和感を覚える。
ふと母を見ると、未だかつて見たことのない柔らかな笑顔を湛えている。
――衝撃だ。
何がそんなに衝撃かと問われたら、この人に母性と言うものがあったことが……だ。
また失言かと思われるかもしれないが、真珠の五年間の歴史の中に、何処を探しても愛情をもらった記憶が
真珠の記憶に欠損でも生じているのか?と思ったが、どうやらそうでもないようだ。
穂高少年も「誰だ、このヒトは?」と言う驚きの表情を浮かべて母・美沙子を見ている。
ああ、そうだったね。確か君は、母親からの愛情不足を拗らせた結果、家庭を顧みない自分勝手な母に愛想をつかし、立派な女嫌いへの階段をのぼっていくんだものね。
女嫌い、というよりは女性不信だったのではないだろうか。
うんうん、ギスギスした家庭なんて落ち着かなくて嫌だよね。
確か両親の間で何かの行き違いがあって、そんな家庭になってしまったはずだ。
それに巻き込まれた子供達は――わたしも含まれているんだけど――本当に不憫だ。
完食した皿を片付けながら、母が嗚咽を漏らし肩を震わせる。
「真珠、本当に……良かった。このまま目覚めなかったらと思ったら……っ」
父が母の肩を抱き寄せ、背中を
(はっ?)
本日、2度目の衝撃に目を
真珠五年間の記憶が確かならば、会話をしている姿はおろか、目を合わせることさえなかった冷え切った夫婦の筈だ。
思わずギュンッと高速で兄に顔を向け、口をパクパクさせる。
穂高少年もそんなわたしの様子に気づき、困ったような表情で、口元に人さし指を立てる。
――しーっ あとでね。
彼の口の動きを見て取り、コクリと頷く。
穂高少年の、今は内緒ね、の仕草にうっかり萌えてしまった。
心の中で煩悩と葛藤しつつ、両親の姿をそっとうかがう。
わたしが意識を無くしていた3日の間に、家族の関係を修復する何かがあったようだ。
娘の生死を彷徨う状態が、ショック療法にでもなったのだろうか?
家族に何があったのかは非常に気になるが、まずは自分の体調をどうにかしないと頭も上手く回らず、状況判断もできない。
「今」の家族の現状も大切だが、その前に、どこまでが伊佐子で、いつから真珠になっていたのか自分自身で整理していかねばならない。
兄の伴奏で参加するはずだった未就学児向けの弦楽コンクール――おそらくわたしは、あの会場で大変な演奏をやらかしている筈なのだ。
(どうやって誤魔化そう……)
考えるだけでドッと疲れが出た。
ベッドの上で、大きな溜め息をひとつ吐いた。
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