第二話 【驚きの再会】




「あなたは誰ですか?」

「――――……ぇ」


 結愛の口から発せられた言葉に対して出たのは、声とも言えないような微かな息だった。

 言っている意味がわからない。

 否。

 言葉の内容も、その意味もわかっているが、理解が及ばない。

 何を言っているのかと、疑問が湧き続ける。

 混乱が混乱を呼び、思考が鈍っていくのを感じる。

 頭の中が空っぽになって、考えが白紙に染まっていく。


「――誰、って……俺だよ、綾乃葵。結愛の家族で、一つ年下の――」


 混乱と驚愕の中で、ようやく絞り出した言葉。

 考えて口に出したものじゃない。

 誰と問われ、反射的に口に出てきた言葉。

 その言葉と共に、縋るように、乞うように、結愛の方へと弱々しい一歩を踏み出す。


「それ以上近づくな」

「……止まって」


 もう一歩を踏み出そうとしたその時、両脇から二人の女性が現れて葵の進行を止めた。

 どこから来たのか、どうやって近づいたのかが一切不明だが、邪魔をされる筋合いはない。


退いてくれ。あなたたちに構っている暇はないんだ」

「奥様に近づこうとする無関係な輩を通すわけにはいきません」


 右脇で進行を止めている女性が睨みつけるようにこちらを見据えてそう告げる。

 左脇にいる小柄な女性も、表情に不服を表しながら睨みつけてくる。


「退けと、そう言った」


 嫌悪感とも言うべき視線と感情を向けられて、負の感情を溜めない人間はいない。

 葵自身も例外ではなく、むしろ同年代よりも精神的に成長できていない自覚がある。

 気が付けば語気が強くなり、嫌悪が全身から溢れ出す。

 結愛との再会を邪魔するのなら、その全員張り倒してでも――


「葵様。ここで問題を起こせば帰還が遠のきます」

「それは結愛を連れて帰れなくても同じだ。それにこの世界で何をしようともう関係ない。なら町の一つくらい――」

「悪い言い方をしますが、そうなれば葵様と一緒にいた私やアフィ、ソウファの心象が悪くなります。私はともかく、アフィやソウファは葵様の庇護が無くなった後はどうなるかわかりません」


 自らを人質にし、交渉を仕掛けてくる。

 葵が相手を強引に納得させるときによく使う手法だ。

 故に、反論できない。

 だからと言って、結愛を諦めることもできない。


「ん? 何かあった?」


 背後から、男の声が聞こえた。

 男子禁制のこの町において、教皇の許可がなければ立ち入ることのできない男の声。

 葵と同じ、例外を許された人間。


「フレッド様」

「実は……」


 葵を結愛の方へと行かせないように体でバリケードを作りながら、背後から声をかけてきた男に事情を説明する。

 小柄な左脇の女性が“フレッド様”と呼称した男へと説明を終えると、男が頷いてこちらへと足を運んでくる。


「久しぶりだね。君は確か……綾乃葵くん、だったかな?」

「こいつらの知り合いか? なら退いてくれるように言ってくれ。悪いが、今は余裕がない」


 言外に何をするかわからない、と視界に入り込んできた男に視線も向けずに言う。

 失礼に当たる行為をして、男と知り合いそうな両脇の女性が怒りを滲ませる。


「あなたは――」

「大丈夫だよ、アヤ」

「……わかりました」


 その一言だけで、葵を詰めようとした女性を止めた。

 一回のやり取りで立場を理解できる。

 だが、それが結愛との対話を諦める理由にはならない。


「あんたならそいつに指示できるんだろ?」

「できるかできないかで言えばできる。でもしない」

「……あんたも俺の邪魔をするのか」

「結愛を守ることが君の邪魔になってしまうのなら、そうなるかな」


 ここへ介入してきたのは第三者として場を収める為ではなく、女子側の手助けをする為だったと言うことだ。

 つまりは、葵の敵。


「そもそも、自分の許嫁に手を出そうとする輩を黙って見過ごすヤツがいるか?」

「………………は?」


 果てしない長考の末、口から漏れ出た言葉は疑問の一文字。

 今の今まで、殺気じみた圧を纏っていた男が発したとは思えないほどの素っ頓狂な声。


「……許嫁?」

「ああ。君だって、大切な人がいたら全力で守ろうとするだろ? それと同じさ。俺にとって結愛は大切な人だ。だから――」

「そうじゃない。全く違う。お前、許嫁って意味、分かって言ってんのか?」

「……? 当たり前だろ? お前の方こそ何言って――」


 フレッドの言葉は途中で途切れた。

 最後まで言い切ることなく、葵の手によって遮られた。


「フレッド様!」

「……!」


 葵を固めていた両脇の女性がこちらへと詰め寄ってくる。

 瞬く間にフレッドへと詰め寄り、その胸倉を掴み上げた葵の方へ。


「大丈夫だよ」

「! しかし……」

「大丈夫だから」


 その二人を、フレッドは言葉で制す。

 そして自身の胸倉を掴んでいる葵へと視線を向ける。


「ごめん。何が気に障ったのかわかってないんだ。逆撫でするようで悪いんだけど、教えて欲しい」

「ああ。言われなくても教えてやる」


 胸倉を掴まれているというのに冷静で落ち着いた態度を貫き通すフレッド。

 フレッドと相反するように、声に、瞳に、態度に。

 綾乃葵と言う存在の全てに怒りを滲ませて言葉を放つ。


「許嫁ってのは、互いの両親が認め合って初めてできる関係のことだ」

「そうだな。当人同士が納得してるならよりいいだろうな」


 さも当たり前のことを言う葵にも、見下す様子なく好青年の表情を保ったまま頷いた。

 それがより、葵の神経を逆撫でする。


「……じゃあなんで――なんで許嫁だなんて言いやがった」

「だから、何を言ってるんだ? 俺の両親はいないが、俺は結愛の両親の合意を貰って――」

「結愛の両親は! 八年前に行方不明になってんだぞ!」


 絶叫が、慟哭のように響く。

 フレッドの胸倉を掴み、怒りと悲しみを真正面からぶつける。


「結愛の両親はもういない! どれだけ願っても、結愛の両親が返ってくることはない! それなのに、お前はッ……お前は――ッ」


 その時のことを思い出し、それ以上言葉を続けられなくなる。

 葵自身が何か不都合を被ったわけではない。

 言い方は悪いが、かなり仲の良い二人の大人がいなくなっただけの話。

 でも、結愛にとっては違う。

 兄弟姉妹がおらず、親戚とも疎遠だった結愛にとって、たった二人だけの家族。

 そんな二人を失った時の結愛の悲しみを、苦しみを思い出し、感化されて項垂れる。

 フレッドはそんな葵を見つめた後、結愛の方を一瞥し頷いた。


「……どうやら、思っていたより君は結愛のことを知っていたらしい」

「まだ……まだ何か言うつもりか」


 許嫁があり得ない理由を話した。

 それでもその言い訳を取り消さないフレッドに対し、怒りを滲ませる。

 話した胸倉を再度掴み、その瞳を睨みつける。


「言い訳をするつもりじゃないし、許嫁って言ったのを撤回するつもりもない」

「てめぇ――」

「待ってくれ。その理由を今から説明する。俺のことを殴ってもいいが、せめて説明くらいは聞いて欲しい」

「……」


 理性を失ったわけじゃない。

 その言葉を聞いて、理解するだけの理性は残っている。

 けれど、それを受け入れられるかどうかは別問題だ。


「それに、俺が許嫁だと言葉にしても、それが嘘ならこんなことになる前に結愛が否定するんじゃないか?」

「……」


 葵の視線で説得が無理だと判断したのか、フレッドは根本に立ち返った説明をした。

 それに反論できず、しかし納得もできない葵は、自分を言い聞かせるように歯を食いしばる。


「――やるなら早くしてくれ」

「ありがとう。すぐに済ませる」


 胸倉から手を放し、吐き捨てるように促す。

 フレッドはそれに必要のない感謝をして、言葉数の少なかった小柄な女性に視線を向ける。

 それを受けた女性は視線の意図を理解したのか頷いて、どこかへと走り去っていった。


「一分ほど時間が欲しい」

「ああ」


 正直言うと、一分すら惜しい。

 けれど現状、待つ以外の選択肢はない。

 むしろ、冷静になるのにいい時間だと言い聞かせる。

 待つこと一分程度で、走り去っていった二人の男女を伴って女性が戻ってきた。


「まさか――」

「……もしかして、葵君かい?」


 女性が連れてきた男女の姿を見て驚愕する。

 いるはずのない人間。

 八年前に行方不明になって、警察が動いて尚見つけられなかった一組の夫婦。


「大地さんと、真衣さん……?」

「本当に……本当に葵くんなのね――」


 つい今しがた話題に出た、結愛の両親だ。


「どうして、ここに二人が……」

「ああ、話すと長いんだが……それはこっちも聞きたいな。結愛だけじゃなく葵くんがこっちにいる理由を――」

「大ちゃん。まずは用件から済ませましょう」

「……そうだね」


 真衣に窘められて、大地はコホンと咳払いする。

 改めて葵に向き直り、黒と金のオッドアイを見据えて言葉を紡ぐ。


「事情は聞いているから、結論だけ言うね。僕と真衣は、フレッド君を結愛の許嫁として認めてるよ」

「それは――それは結愛の意思を……無視して、ないですか?」

「ああ。むしろ、結愛の方から認めて欲しいと話を持ってきたからね。僕と真衣はフレッド君の人となりは知らないけれど、この国に立ち入れるってことは少なからず結愛を不幸にする存在ではないと判断した」

「……そう、ですか」


 事実を淡々と告げられて、認めざるを得ない状況に持ち込まれた。

 本当は今も、結愛と目の前の男が許嫁だということは認められていない。

 でも結愛の両親が認め、何より他ならぬ結愛自身が認めているのだったら、葵の入り込む余地なんて存在しない。

 いや、結愛の為に生き、結愛の幸せを願うだけの存在である葵は、それを応援しなければいけない。

 それしか、できないのだ。


「――――――――わかりました……お邪魔しました」


 それだけ言って、踵を返す。

 葵を呼び留める声も、周りの客の喧騒も、何も聞こえない。

 ただただ無音で無色の世界を歩いていく。

 先程まで曇天だった空はいつしか美しい青を覗かせていて、けれどしとしとと小雨を降らせている。

 晴れなのに雨。

 その矛盾は今の葵の心情のようで、容赦なく体と心を濡らしていった。






 * * * * * * * * * *






「落ち着きましたか?」

「ぁあ、だいぶね。ありがと」


 いつの間にか取っていた宿で、いつの間にか着替えていた葵は、いつの間にか用意してもらっていた中身の入ったマグカップを手渡され、いつの間にかベッドに腰かけていた。

 おそらくその全てをしてくれたであろうラディナは、心配そうに葵を見つめている。

 ラディナだけではない。

 ソウファも、アフィも、今の葵を見て心配している。

 ぱっと見でわかるくらい、表情に心配が表れている。


「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

「でも……これじゃあるじ様の目的が……」

「――ぁあ、そだね。まぁでも帰るだけなら今すぐじゃなくていいよ。転移者の時でもチャンスはあるしさ」

「そうじゃなくって!」


 ソウファが声を張り上げる。

 今にも泣きそうな顔で、葵を見ている。

 口を開き、何かを言おうとしては言葉にできずに消えていく。

 そんなソウファを、ラディナは優しく抱きしめる。


「すみません。まだソウファ自身、整理できていないようで」

「いや、いいよ。俺の為だってのはわかってるから」


 ここにいる三人は、葵が目的を以て世界を旅していたことを知っている。

 だからこそ、それを目前にして永遠に叶えられなくなったと知り、葵と同じか、それ以上に悲しんでくれている。

 そこまで同情してくれる人たちがいることに、今は感謝しかない。


「俺は大丈夫だからさ。だから、一日だけ頂戴。俺も一人でゆっくり、整理したいんだ」


 両手で大事に抱えるようにして持っているマグカップの中で揺れる水面を見つめて、そう呟いた。

 ただの呟き。

 けれど、室内にいた全員に聞こえるくらいの声量。


「ですが――」


 何か言いたそうなラディナだったが、アフィが翼でその口を遮った。

 アフィの顔を見て、その意図を理解したラディナは口を結んで、ソウファの頭を優しく撫でた。

 そのまま何も言わず、部屋を去っていく。

 ここまで手配してもらって悪いとは思うが、今の葵と一緒にいてもいいことなんて何一つない。

 だったらせめて、今だけは一人にしてもらいたい。

 そうすれば、全部自分で解決していつもの綾乃葵に戻れるから。

 だから、今だけは――


「――ハッ。何が一人で解決できるだよ」


 自嘲が漏れる。

 あまりにも馬鹿らしくて、あまりにも愚かで。

 どうしようもない自分に向けた軽蔑。


「一人で抱えきれなかったからこんな状態になってるってのにな」


 乾いた笑いが顔に張り付いた。

 自分自身を賢いと、賢者だと思ったことはない。

 むしろ愚かで愚者だという自覚はあった。

 けれど、ここまでだとは思っていなかった。

 自分が苦しいとき、辛いときは、誰かに頼ってもいい。

 そう教えて貰って、他人には実践できていたそれを、己自身では実践できなかった。

 なんて愚かで、みっともないんだろう。


「……これ、ホットミルクだったのか」


 ついた溜息で、水面が不自然に波打った。

 それが温めた牛乳が冷えた際にできる薄い膜だと理解してようやく、マグカップの中身を理解した。

 手がその温かさを伝えてくれず、見た目はモノクロで機能せず、匂いも感じない。


「それでも何も感じないのか……元々人として終わってたけど、これはいよいよ終わりかもな」


 五感の内、三つが真面に機能しない。

 今まで使えていたはずの五感が一つでも使えなくなれば、恐怖はするものだ。

 それでもそう言った感情が一切湧かない。

 あるのはただの無だ。

 視覚に限って言えばただ色が見えないだけで“視る”という機能自体は果たしているから除外できるかもしれないが、一部が機能していないだけでも異常――機能しないと言っても差し支えはないだろう。

 そう考えて、葵はマグカップに口をつけてゆっくりと傾ける。

 口内に広がっていく液体を味わうように口に含む。

 確かめるように、何秒か舌で液体を転がしてみたが、確信に変わりそれを飲み込む。


「味覚も機能しないか。この様子じゃ、真面に機能してるのは聴覚くらいかもな」


 尤も、それもいつまで機能し続けるかはわからない。

 マグカップをベッド脇に備え付けられたライトの置いてあるテーブルに置き、小さく溜息をついて天井を見上げる。

 目を瞑り、ついさっきの出来事を思い返す。

 願い続けてきた再会を果たし、でも想像していた再会にはならず、怒りと悲しみに満ちたあの出来事。

 思い返せば無になってしまった心に感情の火を灯せるのではないかと思ったが、何も揺れ動かない。

 嬉しさも、悲しさ、怒りも、何もない。


「何の為に、ここまでやってきたんだろうな」


 そう言葉にして、ふと疑問を抱く。

 この報われないという感情は、何を以ってして報われていたのだろうかと。

 結愛と感動の再会を果たして、今までのように仲良く地球に帰れていればよかったのか。

 忘れられていなかったら、それだけでよかったのか。

 それとも、この世界で頑張ってきたことを、褒めてもらいたかったのか。


「昔から何も変わってないんだな、俺」


 ここ半年で、心身ともに成長できた気でいた。

 心の支えゆめを失い、それでも支えを取り戻す為に周囲の力を借りてここまでやってこれた。

 実力的な面は確実に伸びていたし、大戦にだって勝利できた。

 結愛がいなくとも生きていくことができていた。

 だからどんな再会になっても大丈夫だって、そう思っていた。


 けれど実際は、そんなことはなかった。

 再会に喜び、忘れられていたことに悲しみ、結愛の両親との再会に驚いて、結愛の関係を素直に喜べなかった。

 思い描いていた未来は心ごと悉く打ち砕かれた。

 生きる意味とは即ち、生きる希望だ。

 それが無くなった以上、もう綾乃葵が生きている必要はない。

 なら、いっそ――


「死ぬのは許しませんよ」

「……」


 心を見透かしたような言葉をかけられた。

 一人になった部屋で葵に語り掛ける存在などいるはずがない。

 そう考えていたから、咄嗟の言葉に反応できない。


「一人にしてほしいという気持ちはしっかり聞いています。ですが葵様は一人で抱え込む癖がある。だから今回くらいは、頼って欲しいのです」


 声のする方へ視線を向ける。

 そこには今までに見せたことのない表情をしたラディナが立っていた。

 胸の前で手を組んで、素直に懇願するように悲しげな表情を浮かべている。


「人は弱い生き物です。一人でなんでもできるわけじゃありません。でもだからこそ、支え合うことが大切だと思います」


 一歩ずつ、ラディナは距離を詰めてくる。

 こちらの警戒を引き出さないように、距離感を確かめるようにゆっくりと。


「その通りだと思う」


 ラディナから視線を外して、床の一点を見つめる。

 確かに、心の問題は一人で抱え込むより誰かに相談するのが良いとよく耳にする。

 それこそ、見知らぬ第三者に向けて一方的に話すだけでも、意外と良かったりするものだ。


「けど正直、今は誰がいても気持ちの整理をつけられる気がしない」


 言外の拒絶。

 今までなら、きっとラディナの提案に飛びついていただろう。

 けれど今回だけは違う。

 頼るも何もない。

 支える必要だってない。


「もうね、諦めたんだよ。俺が何を思っても、俺の知ってる結愛が帰ってくるわけじゃない。あの日には――召喚前にあった日常には戻れない」


 解決する、整理する。

 そう言ったことは、もう諦めている。

 召喚されて、この世界で半年を過ごして、地球ではできない経験をたくさん積んだ。

 魔術もそうだし、殺し殺されの戦いに身を投じたのもその一つだ。

 でも、これから過ごしていくべき世界は地球だ。

 地球ではできない経験を積んだからと言って、元の世界で過ごしちゃダメというわけではない。

 魔術が使え、プロのスポーツ選手並みの身体能力を発揮できる高校生など普通に考えて異端だ。

 色々と厄介なことにも見舞われるだろう。

 けれど、戻りたいと願い、それを実行するために邁進すれば、今までと同じとまでは行かなくとも、近しいところまではいけるはずだ。

 そう考えて、ずっと生活してきた。


 でもその考えは覆された。

 地球に戻り、即座に異端だと認識されたわけではない。

 そもそもの大前提から覆された。

 日常の象徴。

 綾乃葵の全てが崩れ去った。

 例え地球に無事帰れたとしても、もう葵の望んだ日常は戻ってこない。

 永遠に、取り戻すことはできない。

 それを知り、深く理解したからこそ、どうにもならないと匙を投げた。

 諦めているから、ラディナの要求に頷けない。


「葵様……」


 悲痛な表情を浮かべ、ラディナは葵の名を呼ぶ。

 手を伸ばそうとして、悩んだ末にその手を引っ込める。

 葵へと届かせられなかった手がキュッと握られ、微かに震える。


「……覚えていますか?」


 葵から拒絶を受け、普通なら部屋を出て行ってもおかしくないのに、ラディナは対話を続ける。

 瞳には不退転の決意が浮かんでいるが、同時に恐れと悲しさも内包している。

 葵を助けたい、絶望の淵から掬い上げたい。

 けれど、それを敢行すれば今まで以上の拒絶を受けるかもしれない。

 そんな考えが透けて見える紅い瞳。


「葵様は仰いました。『どんな困難に見舞われても、結愛を追い続ける』と」


 そんなことを言われ、記憶がフラッシュバックする。

 王城の食堂で日菜子たちから協力を持ちかけられたときの話だ。

 確かに、そんなことを言った覚えがある。


「あの時の決意はどこへ行ってしまったのですか? それともあの言葉は、ただの虚言――嘘だったのですか?」

「……」


 納得する。

 諭すことができないと悟り、煽りによる矯正へと進路を変更したのだと。

 平時ならきっとムカついて口を効かなくなったり、一言二言言い返したりしただろう。

 でも、諦めた人間に煽りは通用しない。

 反論する気概すら失われているのだから。


「……答えては、くれないのですか?」

「あの時の俺は何も知らなかった。だから、そうだな。虚言だとそう思ってくれていい」

「葵様……」


 目論見が成功せず、悲痛な表情を浮かべる。

 言葉を尽くしても、思考を尽くしても、葵をどうこうすることができない。

 葵を立ち直らせることができないと悟る。

 それでもラディナは諦めたくないのか、言葉を紡ごうとして口を開く。


「……ぁ――――ッ」


 言葉を紡ごうとして、しかしそれは形にならない。

 掠れた音となって口から漏れるだけ。

 瞳にはまだ葵を立ち直らせたい意志が籠っている。

 けれど、それが言葉となって出てくることはない。


「……」


 何度かその葛藤を繰り返し、やがてラディナの瞳は葵を捉えられなくなった。

 瞳に宿る決意は変わらない。

 けれど、葵を助ける為の言葉を口が放ってくれない。


「――眠れば……」


 ようやく言葉にできたのは、ラディナ自身が助けることを諦めた言葉。


「……眠れば解決することも、あるかもしれません」

「――そうだね。そうするよ」


 ラディナは頭を下げて、部屋を出ていった。

 葵の言うことを無視しての行動は、結果的に失敗と言う形で終わった。

 そう言う意味では、葵のやったことは良くなかったのかもしれない。


「……どんな困難に見舞われても、か」


 昔の自分が言った言葉。

 啖呵ともとれるその言葉は、間違いなく葵の本心だったはずだ。

 けれど今はどうだろうか。


「……寝よう」


 ベッドに横たわり、微睡に身を任せた。

 ゆっくりと、しかし確実に。

 長旅の疲れも相まって、深い夢へと落ちていった。



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