第2話 われらの絆
十日後、私はルルカと連れ立って奥宮に向かった。物語を書き上げたのは空が明るくなってきてからで、倒れるように寝て起きたばかりなので正直出来がどうこう言う段階ではない。ルルカはやたらとご機嫌に私をせっついた。
「さあ、急ぎましょう! 竜が陛下を待っていますよ!」
「うう……静かにしてよ、頭が痛い……」
ふらつく足でそれでもなんとか険しい山道を登り、奥宮にたどりつく。古びて蔦に覆われた石造りの宮は静まり返っていて、本当にここに竜がいるのか不安になってしまう。ルルカはさくさくと丈高く伸びた草むらを踏み分け、私に道を作ってくれた。
朽ちかけた重たい木の扉を開くと、ふわりと陽だまりの匂いが鼻をくすぐった。私は目を何度も瞬いて眼前に現れた別世界を見回す。木漏れ日と、風が葉を揺らす音。どこからかさらさらと水の流れる音もする。大きな樹の根元に丸くなってうたた寝しているのは、鱗に苔むした老年の竜だった。
なにが起こったのか理解できないでいる私に気づき、竜がゆっくりと片方のまぶたを持ち上げる。それから深く刻まれた鼻面のしわをさらに深くして、いたずらっぽく笑った。
「せっかく登ってきたというのに、山の中とは思えぬ景色で驚いたかい?」
「い、いいえ! 申し遅れました、私は第二十五代法王の──」
名乗ろうとすると、竜はごろごろと地響きのような笑い声をあげる。
「堅苦しいのはなしだよ、今日は儀式でもないんだから」
「そうです、陛下」
ルルカはいつのまにか竜のかたわらに敷物を用意して、呑気に水筒からお茶を注いで飲んでいる。行楽気分か。私は頭をかき回してその敷物に腰をおろした。語りに使う鈴板を取り出し、軽く鳴らす。たしなみ程度に習っただけだが、ないよりあったほうがいいとルルカに言われて持ってきたのだ。
竜は湾曲した背骨をゆったりと上下させて呼吸し、優しく目を細めてじっと私の物語を待っている。……緊張してしまう。
二、三回咳払いをして、私はぎこちなく鈴板を打ちながら語りはじめた。
高き深き御山に座します、
われらが竜のかたわらに、
こころよき光の降ります、
こころよき風の吹きます、
こころよき水の流れます。
高き深き御山に座します、
われらが竜のかたわらに、
おもしろき音を捧げます、
おもしろき話を語ります、
われらの絆を温めるため。
しゃん、しゃん、と鈴板の音に合わせて決まり文句を唱えると、それだけでなんとなく心が落ち着いて、物語もなめらかに口をついて出た。
……昔、おじいさんとふたりきりで静かに暮らしていた女の子が、街へ出かけるおじいさんにこっそりついていって迷子になってしまう話。街は賑やかで、驚くほど人が多くて、女の子はすぐにおじいさんを見失ってしまう。露店に並ぶきらきらのガラス細工や、軒先いっぱいに吊るされた鳥籠のなかの色鮮やかな小鳥たちが女の子に語りかける。どうしてひとりでいるの? あなたは誰なの? おうちはどこ? 女の子はどう答えていいのかわからなくて、泣きながら街を歩きつづける。そこに、街角で弾き語りをしていた吟遊詩人が女の子に気づき、声をかける。「泣き虫さん、一曲いかが?」「でも、お金がないわ」「お題は笑顔でいいですよ」優しい歌を聴いているうちに、女の子は眠りに落ちてしまう。目がさめるとおじいさんの温かい背中におぶさって、おうちに帰る道を歩いていた。おじいさんはあの吟遊詩人と同じ歌を口ずさんでいる。「おじいさん、あの人はどこに行ったの? お礼がまだなのに」「わしが代わりに払っておいたよ。とびきりの笑顔でな」にんまり笑うおじいさん。女の子はほっとしてまたうとうとしながら、あの人にもう一度会えたらいいなとぼんやり思う……。
「……暖かいおうちが、女の子とおじいさんを迎えます。きっとまた、あの人にも会えることでしょう」
しゃりん、しゃんしゃん、と鈴板を打ち鳴らし、私は全身で大きなため息をついた。人生でいちばんの大仕事を終えた気分だ。
ルルカが小さく拍手をしているのを耳で聞きながら、じっと目を閉じている竜を生きた心地がしないまま見つめる。竜は相変わらずゆったりと呼吸で揺れるだけでなにも言わない。もしや、つまらなくて寝てしまったのだろうか。
しかし、よく見ると竜は口元をもごもごと動かしていた。しばらくそうしてから、にっと口の端を引き上げる。
「……うん、うまい」
幸せそうに笑み崩れる竜の顔を見つめ、私は一気に脱力した。なんとか合格したらしい。竜は気持ちよさそうに首をひねって伸ばしながらまた喉をごろごろさせた。
「あたたかくて、腹にやさしい、暖炉のスープみたいな物語だ。これがはじめてかい? よくできている」
優しくそう言われて、なんだか涙がにじんでしまう。私の徹夜も無駄ではなかった。こんな拙い物語で竜の怒りに触れやしないかとそればかり心配していたが、褒めてもらえるなんて。慌てて目をこする私の背中を、ルルカがぽんぽんとさする。
「だから言ったでしょう? ご安心くださいと。そもそも怒るような竜じゃないんですよ」
ルルカがお茶を差し出すので受け取るが、「ありがとう」の声がひっくり返る。からからの喉が少しぬるいお茶でゆっくりと潤っていった。
「……でも、ルルカ、あなたは妙に竜のことに詳しいのね」
不思議に思って尋ねてみる。竜は飢えているとか、私を待っているとか。奥宮にも慣れている様子だった。ルルカはお茶のおかわりを注ぎながら平然と答える。
「ここに住んでいますからね」
「へっ?」
空のコップが手からこぼれ落ちる。
「冗談でしょう……?」
こうして木漏れ日の下でお茶を飲んでいると忘れてしまいそうになるが、奥宮は人がめったに寄り付かない場所だ。井戸もなければかまどもない。食料を運んでくるのだってひと苦労のはずだ。……せせらぎの音が聞こえるから、火さえ自分で起こせばなんとかなるのかもしれないけれど。
「さて、どうでしょうか?」
ルルカはにやにや笑うばかりできちんと説明をする様子がない。私は助けを求めて竜に目をやった。竜はまた目を閉じてゆっくり呼吸をしていたが、私の視線を受けて細く目を開く。
「うん、こいつはここに住んでいるよ。……俺とちょっとした縁がある」
竜も多くは語るつもりがないようだ。私は恨みがましくルルカを見つめる。
「縁があるなら、やっぱりあなたが物語を捧げればよかったのに。だいたい毎日近くにいるくせに、竜を飢えさせておくなんてひどい」
ルルカはここにきてようやく困った顔をして首を傾げ、ぽりぽりと顎をかいた。
「ええと、……なんと言えばいいのか。私は、縁があるから物語を捧げることができないんですよ」
「そうなの?」
訝しむ私の視線を受け止めかねるのか、ルルカは居づらそうにもじもじと身をよじる。
「その……共食いになってしまうというか……」
「でも、街ではすっかりあなたが竜に物語を捧げる吟遊詩人になるんだって話になっているのに。私のまわりをうろちょろするから……」
「ええ、ひどくないですか? 陛下が私を遠ざけないから安心してうろちょろしていたのに」
ルルカは大げさに肩を落としてみせる。私は空のコップを拾って手に包み、うつむいた。
「……やっぱり私が儀式で物語を捧げるなんておかしい。みんながどう思うか……」
見た目の華やかさも、物語の流麗さもルルカには遠く及ばないのだ。自分で語ってみて嫌というほどわかってしまった。竜は褒めてくれたけれど、儀式には儀式の威儀というものがある。
「竜が望むなら私はいつだって物語を捧げられるし、儀式で物語を奏する誉れは吟遊詩人の憧れなんだから、私が奪うような形になるのは……」
もごもごと言い訳じみたことをつぶやく私を遮るように、また竜が笑った。
「面倒なことを考えるでないよ。俺があんたの物語を望むんだ。それより大事なことがあるかい?」
私は言葉に詰まってしまう。とても嬉しい。でも、竜の言葉を民に伝える役目は私ひとりのものだ。私が竜の言葉だと言えば、なんでも竜の言葉になってしまう。それが本当のものか、私のでっちあげなのか、民に知るすべはない。……つまり、すべて私のでっちあげだということにもできる、ということだ。
「継いだばかりの法王位を危うくして、国を乱す結果になったらおじいちゃんに顔向けできない」
ぎゅっとコップを握りしめると、竜とルルカは困ったように顔を見合わせた。
「陛下のご心配はもっともですが、竜はこのとおり老体なのです。ここを動くわけには……」
「いや、出よう。……嬢ちゃんのためならなんでもないさ」
竜の言葉に、私はひどく動揺して顔をあげた。竜が奥宮を出るとなったら、私も引っ込みがつかない。私の物語を食べるために、民の前に姿を見せるのだ。苔むした巨体をこの心地よい場所から引き剥がして。
「……私の物語なんてそんなにいいものじゃないのに、どうしてこだわるの?」
泣きそうになりながら呟くと、竜は重たげに瞬きを繰り返して私の顔を覗きこんだ。
「こだわるさ。俺の最も親しい人間の物語だ。俺のためを想ってつくられた物語だ。……何よりの甘露だよ」
優しい、木漏れ日を映してゆらゆらと揺れる金色の瞳。顔を合わせたばかりの私をどうして「最も親しい」なんて言うのだろう。私が法王だから? 竜の優しい瞳に見つめられても心はちっとも鎮まらず、私はぐるぐると言葉にならない不安を抱えたままその日は法王宮に降りた。
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