増殖らきむぼん殺人事件

らきむぼん

増殖らきむぼん殺人事件 問題編



◯登場人物



・阿良木

 愛鞍布島と貸別荘の管理者。昨日から連絡が途絶える。


・影山

 「シャドウマン」のメンバーを愛鞍布島まで乗せていった船の持ち主。阿良木の友人。

 

社会人ミステリ研究会「シャドウマン」会員


 ・増鏡  三十六歳、男性。まとめ役。阿良木の友人。

 ・ランベルト鯖  三十四歳、男性。道化役。オカルトマニア。

 ・レッドラム  二十九歳、男性。孤高。寡黙な現実主義者。

 ・火凛  三十歳、女性。秀麗。後輩想い。

 ・ルルイエ  二十二歳、女性。可憐。最年少。

 ・らきむぼん   二十六歳、男性。トリックスター。夢想家。


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プロローグ


 旧き神が遂に眠った。

 地上の永遠は、海底に封じられた者共にとってはほんの僅かな時の流れでしかない。しかし、彼らにとっての僅かな微睡みは、肉体を腐敗させ、精神を深い闇へと封じ込めてしまうには十分過ぎるほどに長かった。

 彼らは一人の少女を創り出し、先導者たらしめた。彼女は古の都市の名を冠し、彼らを覚醒めさせる。蠢く深海の闇は、地上の幾つもの肉体と魂を喰らい尽くし、やがてその精神は完全に覚醒した。しかし旧き神の血を引く肉体は彼らの肉体としては相応しくなく、霞のように消え失せた。彼らは地上に殖え拡がるための器を強く欲した。

 やがて少女は地上に一つの「器」を見出した。それは旧神の血が薄く太古の支配者の核を持つ者、そして健康で若い「器」であった。



一 海は黙して


 小さな送迎船のデッキで、は潮風に吹かれている。思いの外揺れは小さい。天気は頗る良く、海は凪いでいる。見渡せば、水平線がただ永遠に混じらないはずの空と海を曖昧に線引いていた。古い送迎船であるが、海の穏やかさに呑まれてしまったのか、スクリューの音すらもくぐもって曖昧だ。

 四方を海に囲まれるのは、思い返すとこれが初めてのようだった。不思議なもので初めてであっても初めてでないような気がするのだ。どうにも最近、このような錯覚を感じることが多い気がしていた。

「らきくん」

 隣で空色のワンピースのが彼を呼ぶ。一瞬だけ煽るように吹いた潮風が頭に乗せている変わった形の帽子を攫おうとしている。彼女の黒髪が、まるでそこだけ無重力になったかのようにさらりと舞う。この一瞬を一枚の写真に収めたら、きっとこの夏を象徴する一枚になっただろう。

「何?」と、らきむぼんは反射的に返した。おそらく用事があるわけではないだろう。ルルイエは彼の横に並ぶと、遠く水平線に目をやる。

「何を考えてたの?」

「別に。ふと最近デジャヴュが多いなって思ったところだよ」

「へえ、あたしも最近多いよ、偶然かな」

「そうなのか? 偶然さ、必然のわけがないだろう?」

「まあね。でもさ、記憶ってどこまでが自分の記憶なのか、怪しいと思わない?」

 ルルイエは唐突に哲学染みたことを言う。自分の記憶は、自分の記憶だ。らきむぼんはうまくルルイエの思考を読めなかった。

「どういう意味だ?」

「らきくんの脳を私の頭の中に入れたら、私はらきくんになるのかな」

「それは、たぶん、違う」

 少しだけ、思考が頭蓋の中で深い間隙に落ちかけた。一度迷入したら戻ってこられないような、思考実験の奥深く。らきむぼんにはそういった哲学の深みに陥りかけて恐ろしくなることがよくあった。

「テセウスの船の応用だね」

 振り返るらきむぼんとルルイエの前には、薄髭を生やしたがっしりとした体格の男が立っている。彼は、今回のの代表だった。

 風に吹かれたTシャツがパタパタとはためき鬱陶しげであるが、本人は気にした様子もなく微笑を浮かべている。

「増鏡さん、なんですか? テセウスって」

 ルルイエが聞き慣れない言葉の意味を問う。

「『テセウスの船』という思考実験がある。ギリシャ神話でミノタウロスを退治したテセウスは、クレタ島から船でアテネに帰還した。その時のテセウスの船をアテネの人々は後々の時代まで修復を重ね保存し続けていた。やがて朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、元の木材はすっかり無くなってしまい完全に素材は新しいものに置き換わった。 全ての部品が置き換えられた時、その船はまだテセウスの船であるといえるのだろうか。そういう議論さ」

 増鏡は以前も同じ問いに答えたことがあるのか、淀みなく語った。らきむぼんは再び深淵を覗く。船の部位に例えた思考実験だが、これは即ち存在論だ。ある存在の根拠をその構成要素に求む時、それは同じ名称で固定された別の代替でも成立するのか。

 ルルイエは一瞬真面目な顔になって言う。

「それってさ、さっきの記憶の話で言うと、脳や記憶が置き換わっても、身体がまだオリジナルだったら、修繕した船と同じだよね。じゃあ、全ての部品がオリジナルと同じ見た目の別の部品に置き換わったらどうだろうってこと?」

「まあ、そういう話になるかな」

「私は、それは別の人だと思うな」

 ルルイエは微笑した。その根拠を語ることはなかったが、何かが彼女の中で腑に落ちたのだろう。

「君達、何の集まりなの?」

 不意に、よく通る低い美声がらきむぼん達に向けられた。

 この美声の持ち主は、この船の持ち主で今回一行を「ある島」に送迎してくれることとなった人物である。年齢不詳だが、三〇代だろうか。増鏡がこれに答える。

「社会人サークルですよ。いやはや、不思議に思われたでしょう。らきむぼんだとか、ルルイエだとか、増鏡だとか、そんなニックネームが飛び交っていますからね。歳もみんなバラバラですし」

「まるで『十角館の殺人』だねぇ」

 突然会話に現れたミステリ小説のタイトルに、らきむぼん達はつい顔を見合わせてしまう。それは彼らにとってバイブルと言っていい小説だった。

「船長さん、十角館をご存知なんですか」

「船長はやめてくれ、影山でいいよ。僕は趣味で船を持っているだけで海の仕事はしていないんだ。実は、ミステリファンでね」

「それは奇偶ですね。私達もミステリファンの集まりなんですよ。SNSで集まったミステリ愛好家達で社会人サークルを作ろうということになりましてね。今回はその創立祝賀オフ会といったところです。ネット発だから、みんなニックネームなんですよ」

「というと、彼らも?」

 影山はそう言って船を見渡す。小さな船には他にも三人ほどの男女が乗っている。

「ええ、みんな会員ですよ」と増鏡は舞台役者のように腕を振った。話を聞いていた三人もこちらに向き直り、全員が影山に向き合う形となった。

「折角なので紹介しますね」とらきむぼんは代表して言う。

「まず、僕はらきむぼんと言います。二十六歳で最年少だったのですが、隣のルルイエが最近入会して今は彼女が最年少です」

 そう言いながら隣のルルイエを見やる。

「彼女は今申し上げた通り最年少で、二十二歳。見た目通り、可憐で明るい女性です」

 こちらをじっと見つめるルルイエと目が合い、らきむぼんは少しドキリとした。

「次に、増鏡さん。彼は三十代で、我々の年長者です。そして、新設された社会人ミステリ研究会『』の会長でもあります。頼りになる兄的存在ですね」

 増鏡は少し改まった様子ではにかんだ。

「そしてその隣にいるのがさんです。シャドウマンのムードメーカーです。実はオカルトマニアでもあります」

 ランベルト鯖は肥満気味な身体を揺らして、会釈する。

「ははは、その名前はメルカトル鮎のもじりだね」

「判りますか! 流石ですね船長さん!」

「船長はやめてくれ」と言いながら影山はランベルトと謎のハイタッチをした。

「ランベルトさんの横にいるのがさんです。美人でスラッとしていて、みんなのまとめ役でもある、僕らのお姉さん的な存在ですね」

 火凛は丁寧にお辞儀をする。たったそれだけの所作もまるでモデルのように美しかった。

「今日は送迎ありがとうございます」

 静かに笑みを浮かべる火凛を見てランベルトがニヤニヤと笑う。

「なんだ、今日は随分おとなしいね火凛ちゃん。最近ルルちゃんにヒロインの座を奪われたもんだから清楚キャラになったの」

「何言ってんのよ。ルルイエが来るまで女の子は私一人で寂しかったんだから。私、ルルイエ大好きよ。かわいいじゃない」

 火凛はそう言ってルルイエの左隣に座る。火凛が熱を帯びた視線をルルイエに向けると、彼女は「私も好き」と返しながら火凛の右腕に抱きついた。

「さて、最後に一番奥にいるのがさん。いつもクールで、ミステリもロジック重視の現実主義な人です。実は一番のミステリフリークです」

 紹介を受けたレッドラムは眼鏡を外してレンズを拭きながら、「会長には負けるよ」と一言残し、海に顔を向けてしまった。確かに、増鏡会長も相当のマニアである。

「俺は蔵書が多いだけで知識はラムやランベルトには負けるさ」

 増鏡はそう謙遜すると、「個性的なメンバーでしょう」と影山に向けて少し自慢げに微笑んだ。

「丁寧に紹介ありがとう。実は君達の送迎は、僕の知人でもある島のオーナー阿良木から頼まれてね。君達の内の誰かも阿良木と知人だと聞いている。そういう縁もあるから、いつか君達ともゆっくりミステリの話でもしたいね」

 影山は少し羨ましそうにシャドウマンのメンバーを眺めていた。ミステリ仲間と出会えて、純粋に嬉しいという気持ちがあっただろう。

「オーナーの阿良木さんの知人は私のことですね。そういうことでしたら、また今度影山さんとは連絡を取らせていただいて、ぜひお話したいですね」

 増鏡はそう言って改めて影山の方へ目を向ける。その時、船の行き先方向の視界の中に、水平線に浮かぶ小さな影を見つけた。

「あれは……」と同じ方向を見ていたらきむぼんが呟く。影は視界の中で段々と島の形を成していく。

愛鞍布えくらふ島だ、今日から君達が二泊三日で滞在する小さな無人島だよ」

 木々と岩で覆われた小さな孤島が、シャドウマンを出迎える。

 海は不気味なほどに凪いでいた。



二 愛鞍布島


 シャドウマンの一行が荷物を持って船着場に上陸したのは、午後三時を過ぎた頃であった。本土から愛鞍布島までは船でおよそ一時間。これはこの島の周りの特殊な潮の流れや地形の影響も加味してのものだった。

 日差しは未だ強く、六人はもう使われていない廃屋同然の小屋――殆ど骨組み程度しか残っていないが――の物陰に集まった。落ち着くと、自然とみんなが会長の言葉を待つ形となった。この旅のスケジュールと島の設備を完全に理解しているのは、メンバーの中でも増鏡だけである。

「じゃあ、簡単にこの島の説明と注意事項を話しておこう」

 そう切り出した増鏡はまるで熟練の冒険者のようで、サバイバル知識を語り出しそうな風であったが、この旅が比較的安全な観光であることをらきむぼんは知っていた。この島はきちんと設備のある島だ。彼は手作りの島の略地図を広げて端を小石で留めた。


愛鞍布島略図

https://bit.ly/2Oj6jOt


「まず、愛鞍布島では基本的に整備された道と施設しか入れない。元々この島は岩と木々で埋め尽くされているような島で、そこを昔の人達が切り開いて拠点にしていたんだ。行ける場所は全て島の南側にあって、北側は侵入すらできない急斜面と断崖だ。南側も海岸沿い以外は基本的には常緑樹が密生していて侵入は難しい。今いるのは南側のやや東にある入り江でここがこの島の唯一の船着場になる。東西の集約点で、東西移動には必ず通る道だ。ここから東の道に十分ほど進むと浜辺があって、まあ海水浴くらいはできるみたいだ。逆側の西の道はここからでも見える通り、進むと道が二手に分かれる。北側の道の先にはかつての住人が暮らしていた集落があるのだが今は廃墟になっていて危険だし、一応立入禁止になっている。オーナーから全権を任されている私の顔を立てて、まあ今回は危険な行為はしないでもらえると嬉しいね。さて、もう一方の南側の道を進むと、左手側には常に海が見える。だがここは護岸整備がされていて浜はない。せいぜい海を見るくらいしかできないな。しばらくすると今回私達が寝泊まりする平屋の貸別荘がある。これは大昔、ここが有人島だった時に小学校だった元廃校だ。それを貸別荘にリノベーションしているわけだな。そこを過ぎると島の最西端に行き着く。二〇〇段ほどの階段を上る高台に蛇禮須だれす神社という神社がある。ここはもう廃神社で、社自体はもう破損して現存していない。この神社に繋がる道は途中で北側から走る道と合流する。これはさっきの集落から続いている道だ。つまり神社側からも集落に行けるようになっていたわけだな。集落へは船着場の先と神社の前の二箇所からしか行けない造りになっていて二本の道の間は林になっていて侵入できない」

 増鏡は事細かに島の構造を説明した。これには実は理由がある。社会人ミス研シャドウマンの活動の一つに創作小説がある。彼らは来年には機関誌を創刊する予定で、第一回目のテーマは孤島のミステリなのだ。つまりこのオフ会は、暗に会員の創作の舞台提供の意味を兼ねているともいえる。

「つまり、。ミステリ風に言うならば、道や施設以外の場所に身を隠すことは、というわけだな。しかも北側の道は途中で集落の廃墟に繋がるから進行禁止ってことね」

 増鏡はそう簡潔にまとめる。

「こりゃあ、孤島ミステリには丁度いい場所だね。特に廃神社なんて面白いじゃないか」

 ランベルトは目を輝かせている。オカルトマニアの血が疼くのだろう。

「要は、ここには浜辺くらいしかないってことだろう。こんなところに別荘を作るなんて、その阿良木ってオーナーも相当変わり者だな」とレッドラム。彼にとってはその浜辺も関心の外だろう。既に彼がこの二泊三日の旅で読書と創作に耽るであろうことは想像に易い。

「ところで、そのオーナーなのだが……」

 増鏡は珍しく言い淀んだ。顎髭をいじりながら、ポケットから携帯電話を取り出す。ここは既に圏外のはずだが、それでも彼はメールか何かを確認したようだった。

「どうしたの?」とルルイエが首を傾げて言う。

「いや、実は昨日からオーナーであり、今のこの島の持ち主である阿良木さんと連絡が取れないんだ。彼は『哲学のプロムナード』というブログも運営してるんだが、そっちの方も随分前に更新が止まっちゃって、さっぱり動向が判らなくて。まあそもそもかなり前に好きにしていいと言われていて、この会には何も影響はないのだが、少し心配でね」

「大丈夫なの? もう島来ちゃったけれど」

 火凛は心配そうに尋ねる。増鏡はそこまで深刻なことにはなっていないと考えているようで、「携帯を見てないんだろうよ」とあっさりとこの話を切り上げた。

「じゃあそろそろ行きますか」

 らきむぼんは島での滞在に少しばかり気を昂ぶらせていた。

 ふと海の方を向いてみると、もう影山の船は水脈も残さず、すっかり姿を消していた。



三 笛を吹いたもの


「島民大量失踪事件?」

 早くも無人島であることに慣れたのか、ランベルト鯖は大声でそう言った。

 シャドウマンの一行は、先ほどの増鏡の島内案内の通り、集落跡地への道を避けて貸別荘のある海岸沿いの道を歩いていた。一日天気の良かった今日は、太陽が海を綺羅びやかに照りつけていた。濃いブルーの海面は所々銀色に反射して、宝石箱を思わせる。

 増鏡がこの島、愛鞍布島が無人島になった経緯を語ったのは、海岸沿いを歩く道すがらのことであった。

「島民が一〇〇人くらい一気に消えたっていうアレですか」

 らきむぼんはその事件を知っていた。もうかなり昔のこと、それこそ、この島の学校がまだ運営されるほどには島民が住まっていた頃の話だろう。おそらく二十年、それ以上前か。

「そう、たった一夜にして島民が消えたっていうんだ。しかもね、みんな大体私達くらいの年代、二〇歳から四〇歳くらいまでの年齢の島民だったらしい。それを契機にして、この島からは島民が去っていったんだ。元々数百人の人口だったみたいだから、もう島の運営が成り立たなくなったんだね」

 増鏡は観光ガイドのように淀みなく語る。この島に滞在すると決まってから、色々と調べたようであった。こういうところはこの増鏡という男の精神性をよく表しているとらきむぼんは思う。基本的に何かを企画して楽しませるのが好きなのだ。

「結局、解決してないんですよね、それ。島民はどこに行っちゃったんでしょう」

 らきむぼんがそう言うと、横を歩いていたルルイエも話に入る。

「まるでハーメルンの笛吹き男だね」

 ハーメルンの笛吹き男とはこのような話だ。

 ハーメルンの町に色とりどりの布で作った衣装を着た笛吹き男が現れ、報酬をくれるなら大量発生した鼠を退治してみせると持ちかける。ハーメルンの町民は男に報酬を約束した。男が笛を吹くと鼠は男の元に次々と集まってくる。男はそのまま川に歩いて行き、鼠を全て溺死させた。しかし町民は約束を反故にし、報酬を払わなかった。

 これに怒った笛吹き男は、笛を吹き鳴らしながら通りを歩き、町の一三〇人もの子供を誘い出し、町の外れの山腹にあるほら穴の中に入っていく。そして穴は岩で塞がれ、誰もそこからは戻ってこなかった。

「ハーメルンの話はどうやら実話らしいよ」とらきむぼんは言った。

「ほんとに?」

 実際はどんな事件があったのか、或いは事件ではなかったのか。真相は定かではないが、この話の歴史はあまりに古く、様々な要素が追加されて今の形になっている。

「この島の事件は国家の陰謀だよ、きっと」

 ランベルトがここで真面目な顔をして言う。

「いやいや、まさか」とらきむぼん。

「いやね、そう笑うけど、冷静に考えてみなよ。ハーメルンの話と違ってここは島なんだから。島から一〇〇人以上人がいなくなって、誰も気付かないのも変だ。それに遺体も一つも上がってないんだよ、その事件。そうなると集団自殺の線もないでしょう。当時一〇〇人を移動させられるほど船も行き来しなかったらしいし。某国の拉致だってこの規模では行わないだろうしさあ。そしたらもうね。国が痕跡を消したとしか思えないでしょ」

 巨体を揺らしながら早口でそう言うランベルトを笑う一行だったが、しかし一方で、そう筋道立てて説明されると説得力がないわけではない。現実的には痕跡がないのではなく、痕跡は消されたのだと考えた方がまだ可能性はあるかもしれない。だとしたら、ハーメルンの笛吹き男だって、何か大きな力が働いたのかもしれない。

「らきくん、もしかして信じた?」

 気付くと、横からルルイエが顔を覗き込んでいた。

「まあ、どうだろうね。やっぱり真相は判らない」

「案外さ、怪物が食べちゃったのかも」

「国家の陰謀の方がまだマシだな」

 そんな話をしていると、視線の先に平屋の大きな建築物が顔を出した。

「ここが別荘ね。海が近くて気持ちがいい」

 火凛は満足した様子で別荘と海とを交互に眺めている。船着場からは二十分ほどの距離だが、別荘からは海しか見えない。海岸沿いの道が緩やかにカーブしているのだ。だからここからの景色は何にも邪魔されない美しいものだった。

 光を吸収する黒い塗装でシックにデザインされたその建物は住宅としては大きく、そして当時小学校として使われていたという経緯を鑑みればやや小さいとも言える。別荘としてリノベーションされた際に近代的なデザインに変わってはいるが、構造や建築自体の古めかしさは十分に感じられた。左手には海が広がり、護岸を挟み小さな広場――校庭だった部分だろう――があり、広場側に玄関口が向いている。その玄関を入ると直角に右に折れる形で廊下が続く。廊下の海側に面して六室の客室――これは教室などの部屋を改装したものだ――が並列し、陸側は廊下からは見渡すことができないが、裏庭となっている。廊下は突き当たると更に左に折れ、その先に食堂が広がっていた。

「さて、部屋割を決めようか」

 玄関の鍵を開けながら、増鏡は言う。

「私は代表だし、念の為に出入り口に近い方がいいだろう。この別荘は基本的には今回玄関口しか開放していないから、私は一番手前の部屋だ。あとは自由にして構わない」

 言いながら増鏡はルームキーを六つ取り出した。この別荘はリノベーション時に教室を二分して造られたという。元々三つの教室があったのだがそれを二部屋ずつに分離し、各々の部屋に鍵をつけて小部屋にした。そうやって六つの客室ができたらしい。

 誰が決めるでもなく、半ばランダムに部屋は決まっていった。らきむぼんは一番奥の部屋を割り当てられた。隣室はレッドラム、その隣が火凛、その隣がルルイエ、その隣がランベルト鯖、そして一番手前が増鏡の部屋だ。

「部屋も決まったことだし、自由時間にしようか。私は食料を確認して、各部屋がちゃんと使えるか点検するよ。それから、晩餐の準備も。一人で十分だから、みんなは散策するなり休憩するなり、自由にしていいぞ」

 増鏡は料理が趣味で、こういった場ではいつも料理人役を努めているらしいと聞いたことがあった。料理のできないらきむぼんは素直に敬服するばかりだ。

「それじゃあお言葉に甘えるとして、どうだろう、みんなで例の神社に参拝しに行かないかい?」とランベルトが提案する。

「いいけれど、廃神社じゃ参拝も何もないじゃない」

「まあね、実は僕が行きたいだけなんだけれど」

 そういってランベルトははにかむ。どうもこの島の神社に興味があるらしい。

「らきくんは行く?」ルルイエが尋ねてきた。

「僕も少し興味があるな」


別荘見取図

https://bit.ly/2QvAtk7


 ランベルトほどではないが、少し興味があった。愛鞍布島という島の名前もそうだが、神社の名前も少し変わっている。蛇禮須神社――聞いたことのない名前のはずなのに、妙に馴染みがあった。

「ラムさんはどうです?」らきむぼんは少し後ろで退屈そうにしていたレッドラムに声をかけてみた。こういったものについてくるのか疑問はあったのだが。

「俺も行こう」

「あら、意外ね。ラムはこういうの興味ないかと思ったけれど」

 火凛が目を丸くする。らきむぼんと同じ想像をしていたようだ。

「悪いかよ。確かに興味はそうあるわけじゃあないね。ただお前達は忘れているかもしれないが、この旅は創作のネタでもあるんだ。隅々まで知っておいた方がいいだろ?」

 なるほど、流石は筋金入りのミステリフリーク、創作のこともしっかり覚えていたようだ。レッドラムの作る創作ミステリは仲間内でも評価が高い。

「じゃあ、荷物置いたら早速行きましょうか」

 いよいよ旅らしくなってきたな、と誰もが実感し始めていた。



四 古代の支配者


 別荘を出て西にしばらくすると、林を切り開くように真っ直ぐな階段が姿を表す。石造りのきざはしは、やや歪でありながらも、処々苔生して神秘的に映る。らきむぼんは自然に囲まれたそれを眺めて、相反する人工的な意匠を感じ取った。それはアンビバレンスなようであり、妙に調和の取れた感情のようにも思えた。

「マヤのピラミッドに似てるねえ」

 横で同じように階段を見上げていたランベルトはそう言った。

「麻耶?」ルルイエが首を傾げる。

 らきむぼんはすぐに訂正する。

「そりゃ、雄嵩だ。ランベルトさんの言ったのはマヤ文明……でしょ?」

「そうそう。ユカタン半島のチチェン・イツァ」

「麻耶文明の雄嵩半島?」

 ルルイエが混乱したように目を見開く。らきむぼんは訂正を諦めて、さながらダイダラボッチになったかのように小さなチチェン・イツァに足をかけた。

 苔で滑る足元に注意を払いながら階段を上がっていくと、らきむぼんの横をするりと抜けて、レッドラムが軽い足取りで階段を上っていく。

「早いですね、ラムさん」

「お前らが遅いんだよ」

「気をつけないと転びますよ、ほら、こんなに苔が繁殖し……ウワァッ!!」

 言いながら、らきむぼんは踏み出した右足を踏み外し、一瞬宙に浮いた。

「おい!!」

「らきくん!?」

「危ない!」

 ドシャン、と石と砂利とが擦れあったかのような音がして、らきむぼんは転倒した。幸い、下まで転げ落ちることはなかったが、右腕の肘の辺りがジンと痛んだ。

「いって……」

「バカ、大丈夫か?」レッドラムが少し心配そうに言う。

「あー、大丈夫です、なんとか踏み留まりました」

「らきくん、血出てるよ!」

 ルルイエに言われて傷を見てみると、擦り傷から薄く血が滲んでいた。

「私、絆創膏持ってるから、ちょっと座って」

 階段に腰を下ろすと、ルルイエが大きめの絆創膏で傷を塞いだ。

「別荘に戻ったら消毒ね」

「悪いな」

「気をつけてね、大事な身体なんだから」

「え?」

 大事な身体?

「それってどういう……」

「ちょっと、なにかしらこれ」

 上から降ってきた突然の声に、らきむぼんの声はかき消されてしまった。少し上段に進んでいた火凛が何かを見つけた様子だった。一行が火凛のもとに集まると、何やら千切れた縄のようなものが階段脇の林の中に落ちていた。

「しめ縄だね、これは」とランベルトは言った。確かにそのようにも見える。

「社に掛かっていたのかしら」と火凛。

「どうだろう、廃社になったのは随分と前みたいだしほんとうにしめ縄かどうか」

「不気味な感じね。社を守っていた結界がこんなに無造作に朽ちていくんだと思うとさ」

「しめ縄は確かに結界だけれど、必ずしも邪から守るものとは限らないけれどね」

 ランベルトはそう言ってニヤリと笑った。いかにもオカルト好きのランベルトらしい発想だとらきむぼんは思う。

「出雲大社の事を言ってます?」

「なんだ、らきは知ってるのか、つまんないなぁ」

「まあ、僕もその手の話は結構好きなんで。でも説明してくださいよ」

 言いながら、一行は自然とまた階段を上り始めた。

「出雲大社ってのは、厳密にはイズモノオオヤシロと言うのだがね、これの始まりは実は神代まで遡るんだ。古事記で『国譲り』と呼ばれるエピソードだね。簡単に言えば、高天原から追放された、天照大神の弟の素戔嗚命の子孫であるところの大国主命が、天照大神の陣営に国を譲る物語だ。大国主命は地上で出雲を中心に国を造り繁栄させていたが、そこに天照大神の高天原陣営がやってきて、紆余曲折あって大国主命は大社の建造を約束に国を譲るわけだね。その後に天孫降臨の章で瓊瓊杵尊が国を治めるわけだ。この子孫が天皇ってことになる。もちろんこれは神話の話だけれども、最近になって実際に起きたことなのではないかと言われているんだ。つまり、これは高天原の陣営が後の大和王権、大国主命の陣営が出雲にあった出雲王朝を表しているってことだ。出雲の王朝は実在が怪しまれていたのだけど、最近銅剣が大量に見つかったりしていてね。つまり国譲りの神話は、大和王権の侵略の物語で、その正当性を補強するために神話の形で残っているという説なんだな」

 一頻り喋って、ランベルトは息切れしてしまった。何しろ、息継ぎもそこそこに喋りながら、階段を上り続けているのだから当然だ。

「待って待って。それで? しめ縄はいつ出てくんのよ」

 火凛は階下を見下ろして容赦なく言った。膝に手を当てて身体を震わすランベルトはまるで女王の命を受けて恐れおののく下僕のようで滑稽だった。もっとも、進んでこういった道化のポジションについているのがランベルトなのであったが。

「いやだからね、大和王権側からしたら出雲の王朝は滅ぼした敵国なんだから怖いでしょ。怨念がさ。もちろん血を流さずに穏便に支配権が移った可能性もあるけれど、いずれにしても恨まれたはずだからね。だから大国主命と出雲の民の怨念を封印したんだよ。出雲大社に。

「逆に? 左右逆にってこと? 出雲大社ってそうなの?」

「まあ諸説ある内の一つの説だけれどね。今でも出雲大社は内側に向けて縄を張っているよ。だからさ、ここの神社だって判らないさ。外から守っていたのか、それとも内側に何かを封じていたのか……ね」

 ランベルトはそう神妙に言うと、激しく咳き込んだ。



五 海に潜む魔


 今日の海は、不気味だ。

 らきむぼんは水平線を眺めていた。凪いでいる。まるで何者かが獲物を狙う狩人のようにじっと身を潜めているようだ。

 蛇禮須神社はもはや殆ど形を遺していなかった。小さな社と、苔に覆われた錆色の鳥居が、神の不在を明示していた。草木に覆い尽くされた広場の先は所々破損した木製の柵で囲われ、その先が断崖絶壁であることを教えてくれる。柵に近付くと、遙か先まで続く碧い海が望める。

「神様はどこに行ったと思う?」

 らきむぼんはすぐ横に立つルルイエに問うた。彼女はその答を知らないだろう。それでも彼には誰かに問わずにはいられなかった。

「たぶん、海の底だよ」

「海の底?」

「それとも宙の彼方?」

「さあ、どうだろう」

 日本の神話では、世界の境界は曖昧だ。高天原も葦原中津国も黄泉も簡単に行き来できる。海には常世国という理想郷があるらしい。それはニライカナイとも言う。

 理想郷とはなんだろう。死なないことか、老いないことか、何があれば理想的で、何がないことが理想的なのだろう。海には、きっと何もかもがあって、何もない。

「ねえ」ルルイエがこちらを見つめる。「このあと浜辺に行かない?」

 ルルイエは微笑を湛えていた。その唇が艶かしく潤み、その瞳は空を映してどこかがらんどうに見えた。そこに惹き込まれるように、らきむぼんは意識の酩酊を自覚した。

「僕は――――――……」

 何と答えたか、らきむぼんは自分でも思い出せなかった。

「おーーーい、お二人さん、海に何か見えるのかい?」

 広場からランベルトの声がした。ハッとして、らきむぼんは視線を海に逸らした。

「いいえ、何も」ルルイエが振り返って言う。

「そっちには何かありましたか、ランベルトさん」

 らきむぼんは、振り返ると同時に、ランベルトの元に駆け寄った。何故だか、酷く動揺している自分が怖くなっていた。

「こっちには何もないね」とランベルトは残念そうに言う。

「普通の神社ね」火凛がそれに続いた。

「廃墟になっていることを除けば、な」と、最後に呆れ顔のレッドラムが補足する。

「じゃあ……そろそろ帰りますか」

「収穫なし、ね」

 火凛が困り顔でそう言い捨てると、一行は帰路に就いた。

「ところで知ってるか?」

 廃神社が期待外れの風体だったことで流石に退屈になったのか、下りの階段の中途で奇妙な話をし出したのは意外にもレッドラムだった。

「島民失踪事件は夜に起きたらしいが、当時は夏で、夜と言ってもまだ明るかったらしい」

「ふうん、それで?」火凛がつまらなそうに返事をする。

「つまり、夜と言ってもせいぜい今から数時間後くらいの時刻だったわけだ。となると、その時間は各家庭で夕食の準備が始まっていたんだが、その失踪事件の日もそれは同じだった。家人が誰もいなくなった民家もあったらしいが、夕食の準備はそのままだったらしい」

「それがどうかしたの?」

「つまり、急に消えたんだよ。これから飯でも食おうっていうその時の準備そのままに」

 レッドラムがそう語った時、らきむぼんはゾクリと身を震わせた。彼にはそれが、あまりに恐ろしく聞こえたのだ。

「ラムさん、それって……」

「そうだ、メアリー・セレスト号にそっくりだろ」

 メアリー・セレスト号は、一八七二年にポルトガル沖で発見された難破船だ。発見時、船内には乗っていたはずの乗組員が誰もいなかった。食卓には手つかずの食事やまだ温かいコーヒーが残されており、火にかけたままの鍋があったとも言う。

「ま、つい先ほどまで乗組員がそこにいたかのような痕跡があった、っていうのは後の都市伝説なわけだが、事件自体は事実で不可解な部分も多い」

 レッドラムは面白がっているのかくだらないと思っているのか判断のできない無表情で、淡々と語った。それを茶化すようにランベルトが反応した。

「へ~~ラム君もそういう話好きなの?」

「愛鞍布島といえば失踪事件だからな、ちょっとは調べたさ。お陰でくだらない噂まで知ってしまったよ。……たとえば、このあたりの水域では、巨大な未確認生物が目撃されることが多い、なんて与太話もな」

「蛸の怪物とか、半魚人とかだろ?」

「ちっ、知ってんのかよ。あんたに話させればよかったぜ」

「まあたまにはオカルトもいいでしょ」

 ランベルトはオカルト仲間ができたかのように嬉しそうに言う。一方、レッドラムはというと相変わらずの呆れ顔で、お手上げと言った様子だった。

「やだ怖い。私、蛸って苦手なのよ」

 火凛がそう言って傍らのルルイエの腕にしがみつく。

「火凛ちゃん、怖いの? 大丈夫よ、私が守ってあげる」

 ルルイエはそれに応えるように火凛に抱きついた。

「優しいのね、ルルイエ」

 そう言う火凛の嬉しそうな表情。それに対する、抱きつくルルイエの表情が無性に気になったが、らきむぼんの位置からは遂に見えなかった。



六 夏霧の呼び声


 この島の唯一の浜辺は、船着場から十分ほど東に向かうと現れる。狭い島の中の猫の額ほどの面積しかないビーチだが、傾き始めた太陽の朱色の光が砂の一粒ずつを幻想的に照らし上げ、そこに降りようとする二人の影を切り絵のように映し出していた。

「波打ち際で座ろう」ルルイエが甘えた声で誘う。

「服が汚れちゃうよ」そう言いながらも、らきむぼんは彼女の少し後ろをただついて行った。一歩ずつ、踏みしめる砂の音が、まるで小人になって弦楽器の上を歩行しているようだった。次第に、二人は寄せる波に触れられるほどに近付いた。

 波は穏やかに明滅を繰り返した。小さな飛沫を上げて、粒子の一つずつが収束と拡散を繰り返す。らきむぼんは、時々こう思うことがあった。人間は分子のようだ、と。

「ねえ、らきくんは、今日が人類最後の日だったら、どう思う?」

 ルルイエは服の汚れなど構うことなく砂浜に腰を下ろした。

「別に。僕はいつも通り過ごすよ。世界中がいつも通りには動いてないだろうけれど」

 少しカッコつけて、らきむぼんはそう言った。そして彼女の右隣に同じように座る。

「私はささやかに祝福をする」

「何に?」

 落陽に目を奪われる。水平線は少しだけ陰っていた。

 いつの間にか遠くから霧が立つ。夏の薄霧だ。

「人類の最後の灯火に」

 彼女のゆっくりとした声が、艶めかしい。

「なんだそれ」とらきむぼんは笑った。

「ねえ」

 耳朶を打つその甘い声があまりに近く、思わずらきむぼんは彼女の方へと顔を向けた。

 次の言葉は紡がれなかった。

 脳髄に形容できない衝撃が走ったような気がした。

 身体の左側に彼女の微熱を感じる。続いて、唇に熱を感じた。

 太陽が夏霧に沈みゆく。彼にはもうそれを眺める余裕はなく、眺めようという気もなかった。酩酊する。目の眩むような快楽の中で、彼はどこかから視線を感じたような気がした。

 しかし、彼にはそんなことはどうでも良くなっていた。

 目の前の熱と重さに、彼はただ身を任せた。



七 夜霧に紛れて


 この夜、夜霧の中で殺人が行われた。



八 最後の晩餐


 晩餐会が開始されたのは、予定していたよりも少し遅くからであった。

 食堂に最初に入室したのは、隣接したキッチンで調理をし終えた増鏡で、その後にはランベルト鯖、レッドラムが続いた。そして、定刻をやや過ぎてルルイエが食堂に入る。

「ごめんなさい、ちょっと遅れちゃった」

 ルルイエはシャワーを浴びてきたのか、やや熱を帯びたような血色の良い顔色をしていた。服装は昼の格好よりもラフなデニムとTシャツだった。

 その少し後に火凛が小走りで入室した。

「ごめんね、遅刻しました」

 急いでいたからか、呼吸を正すように間を空けて、小さく頭を下げた。

「ルルちゃんはともかく、火凛ちゃんは遅刻なんて珍しいね~」

 ランベルトが茶化すように言う。

 二人は謝ったが、実はシャドウマンの面々にとってはそこまで定刻は重要ではなかった。サークルとしての活動は始まったばかりだが、みんなで集まることは何度も経験しており、謂わば気の知れた仲である。多少の遅れは誰も気にしない。

「ところで、らきは?」と、増鏡が不思議そうに言う。

「そういえば、見ないな」とレッドラムが続けた。

 らきむぼんはこういった集まりには早く着くイメージだった。もっとも、彼がマメだからというよりは、心配性だからというところが大きいのだが。

「らきくんは体調が悪いから部屋で寝るってさ」

 ルルイエが二人の疑問に答えると、火凛が心配そうに言う。

「そういえば少し顔色悪かったかもね、大丈夫かしら」

「うん、まあ明日には元気になってるんじゃない?」

「だといいけれど……」

 自然とみんなの視線が食堂の扉に向けられる。らきむぼんの部屋は、丁度食堂の先だった。

「まあ、そういうことなら、今日はとりあえずらきは欠席ということで、晩餐としようか」

 ざわつく面々をまとめるように、増鏡はパンと手を叩く。

「あとで起きてきたら、飯食わせてやんないとな」


 *


「だからさ、村人はきっと軍の人体実験に使われたんだよ」

「待て待てこのオカルトオタク、それはどこの軍だよ」

「人体実験なんだからそりゃ米国でしょ」

「どういう論理だよ」

「そういや、その失踪事件の時は霧が立ち込めていたって新聞記事で見たな」

「流石よく知ってるね増鏡さんは」

「霧といえば、さっき外は霧が凄かったんだよ」

「今は晴れているみたいね」

「そういやちょっと涼しかったしな」

「霧かー、怪しいね。だってさ、バミューダトライアングルも失踪した旅客機も、突然消える事件はみんな霧の中じゃない?」

「それも米軍か?」

「イスラエルかもしれない」

「『ミスト』って映画あったよね」

「原作の『霧』はスティーブン・キングでは一番好きだ」

「初めて意見が一致したな」

「原作は短編なんだっけか」

「キングは短編の方が良い」

「でも『IT』は長編の方が良いだろ」

「自然現象が精神を蝕んでカタストロフィに繋がっていく感じはいいよね」

「麻耶雄嵩の『螢』なんかもそうね」

「一種のホラーだなあれは。もしかしたら、本当にホラーを踏まえていたのかもしれないけどな。海外風のシリアルキラー的な事件とか」

「あら、でも最近は日本でも起こるでしょ」

「成熟した文化の最果てにあるんだよ、ああいうのは」

「ジェイソンなんかの方がマシだね。モンスターの方がいい。殺人なんて、人がするもんじゃない」

「ジェイソンってチェーンソーのあれ?」

「ジェイソンは作中でチェーンソーを使ったことはないけどね。あれはレザーフェイスとの混同だ。まあルルちゃん世代はもうどっちも知らないか」

「おいおい、ミス研だろここはさっきからホラーのことばっかりだな」

「麻耶はミステリでしょう」

「麻耶は麻耶だね、ミステリと言うより麻耶じゃんか、麻耶み麻耶み」

「まあホラーもいいじゃない、綾辻先生の『殺人鬼』なんてスプラッタそのものよ」

「まあ最近の大ヒット作にもパニックホラーの舞台設定を使ったものもあったしな」

「浜辺美波かわいい」

「どうした急に」

「なんか言わないといけない気がした」


 *


 夜も更け、晩餐会はお開きとなった。

 らきむぼんがいないこともあって、本番は明日という空気感があり、ミステリ談義よりもホラー談義が多い会になってしまったが、それでもサークルとして改めて語らうのはメンバーにとっては楽しかった。彼らは時間を忘れて語らい合った。

 そうやって全員が部屋に戻り、眠りに就く。

 事件が起きたのは翌日の朝だった。



九 空白を閉じ込めた密室


 コーヒーを飲む時、増鏡は必ず温めたミルクを使うようにしていた。ミルクが冷えていると、コーヒーの温度が下がってしまう。コーヒー豆にこだわるよりも、そういった些細な手間の方がよほど味に影響する。それが彼の持論だった。

 食堂には大きな窓が北側と東側に向かって設置されている。朝の柔らかな光がキッチンまで届き、心地よい温かみを感じさせていた。朝日を感じて飲む一杯のコーヒーが形容し難い多幸感を誘った。

 午前八時、彼にとっては遅い朝だったが、シャドウマンのメンバーはまだ誰も食堂に来ていない。食堂に集まって朝食、という話すら覚えていないのではないかと少し不安になったが、人数分の朝食を作っておくことにした。

 バターの香りと、ふんわりとフライパンの片側にまとまっていく卵の香りが朝を感じさせる。この香りを「朝」の香りとして誰もが認識しているのは、いつからのことなのだろうか。今度朝食のオムレツの歴史を調べてみよう、彼はそう思った。そして別のフライパンで踊るベーコンの香りも立ち上り、増鏡は目を閉じる。

 ああ、いい朝だ。

 朝食を作り終えると、朝の静けさが霧散するように、仄かに客室の方から音の波が寄せた。食堂の扉が開かれる。

「おはよーございます。早いね―、会長」

「おはよう、ルルイエ」

 ルルイエは今日も快活だ。彼女に少し遅れて火凛、レッドラム、ランベルト鯖もやってきた。

「みんな、昨日は良く眠れたかい」

「よく眠れたわ。元々教室だったと言うわりには、しっかり客室然としていて快適ね」

 火凛は少し眠そうに言う。

「僕もばっちりばっちり、よく食べたからね」

「お前は食べ過ぎなんだよ、結局らきの分も食ったろ」

 昨日から漫才のように掛け合いをしているランベルトとレッドラムだったが、指摘するとレッドラムが黙ってしまいそうだったので、増鏡はそのままにしておくことにした。

「らきといえば、あいつ、まだ寝てるのか。ちょっと流石に心配だな。私が様子を見に行こう」

 そう言って増鏡が身を乗り出すと、ルルイエがそれを制した。

「私見てくるよ、待ってて」

 彼女が食堂を出ていく。二分ほど経って、戻ってきた彼女の表情は少し曇っていた。

「どうだった?」

「それが……、何も返事がなくって。鍵も掛かってて、別にそれは変な話じゃないんだけれど、流石に全く返事がないのは……」

「確かに。まあよく寝ているだけという可能性もあるが、体調も崩していたわけだし、らきには悪いが、マスターキーで部屋を開けさせてもらおう。寝ているだけだったとしても、何か食べさせるか飲ませるかした方が良いだろう」

 善は急げ、と言わんばかりに増鏡はベルトに繋がった鍵束からマスターキーを取り出す。この鍵は常に増鏡が持っており、身に着けている。

 結局、まだ誰も朝食に手をつけていなかったこともあり、全員がぞろぞろと増鏡についていくことになった。食堂を出て真っ直ぐに進み、突き当たりを右折すると、左手にすぐらきむぼんの部屋が見えた。

「らき、起きているか? 返事をしてくれ」増鏡が、大きな声で呼びかける。

 返事はなかった。物音もしたようには思えない。

「悪いが、開けるぞ」

 シリンダーに鍵が差し込まれ、カチャリと音がした。

 扉を開けると、ごく普通の客室が広がっている。客室は全面的に改修されており、元の教室の名残は一切ないのだが、教室にあるものになるべく似せたデザインの調度品が揃えられている。ここで寝泊まりする人は誰もが幼い頃の学校生活を想起するだろう。

 しかし、そんなことよりも明らかな異常がそこには在った。

「いない、な」

「らきくんがいない」

 誰もが理解していた。鍵の掛かった客室かららきむぼんは忽然と姿を消したのだ。

「別におかしくはないだろう」

 レッドラムは冷静に指摘する。

 確かに、別段特殊なことは起きていない。だが、違和感は否めない状況だった。

「なんだお前ら、心配し過ぎだ。ミステリじゃあるまいし。鍵が掛かっている。マスターキーは増鏡が持っていた。部屋から消えたのは死人でもなければ殺人者でもない、部屋の持ち主本人だ、当然ルームキーも持っている。論理的に考えれば答は一つだろ。鍵を掛けて部屋から出たんだ」

 レッドラムは少し苛ついた様子で言った。彼の言うことは正しい。まさしく正論なのだが、彼以外は何か妙な予感を覚えていた。

「でも、体調不良だったじゃない」火凛が反論する。

「それに、食堂にも来なかった」とランベルト。

「治ったんだろう。それに食堂に集まるという話は晩餐会で会長が言ったことだ。らきが知らないのは当然だろう。確かに、この別荘で集まるところと言えば食堂か、誰かの部屋だろうけれど、別に外に出たっておかしくはない」

 増鏡は火凛やランベルトのように違和感を覚えはいたが、レッドラムの話を聞いてなお違和感が増大したような気がしていた。

「みんな、すまないがここは私の判断に従ってほしい。まあ会長命令ってやつだ。一応だが、島内と別荘内を探そう。なに、そう心配するな、レッドラムの言っていることには筋が通っている。朝の運動みたいなもんだ」

 言いながら、繕う自分の動揺が外から見て明らかなものだと自覚があった。彼にはレッドラムの言葉が引っかかっていた。集まると言ったら食堂、と彼自身が言ったではないか。レッドラムの話は正論だ、なのに違和感があるとすれば、それは何故食堂に来なかったかということだけだ。その点では全員の意見が一致しているはずだろう。らきむぼんという人間は心配性で、誰にも言わずに外に出掛けてしまうようには思えなかったのだ。

「火凛は神社、ルルイエは船着場、ラムは浜辺を頼む。私とランベルトは別荘をもう一度確認しよう」

 不安を押しやるように、わざと笑顔を見せた。しかしそれはあまりにぎこちないものだっただろう。



十 猫の入った部屋


「それじゃ、またあとで」

 不安そうな声でルルイエが言った。すぐ後ろにレッドラムがつく。彼らは途中までは同じ道である。

「じゃあ、私達はまずは別荘周りを確認しよう、別荘内にいる可能性は低いからな。中は最後に見て回る」

 そう声を掛けて、増鏡はランベルとともに別荘の裏手へ向かう。

「私は早く終わったら合流するわ」

 最後に火凛が神社の方向へ出立した。

 二日目の朝は、昨日と違い、やや強い風が吹きつけていた。天候が変わるかもしれない、と増鏡は直感した。

「らきはどこへ行ったんだろう」

 ランベルトは明らかに何か悪い想像をしている風であった。

「もし見つからなかったら、立ち入り禁止区画にも行ってみなければいけないかもな」

 別荘は鈎状の形をしている。海の方向を向いた玄関から左に回り込むと裏庭に出る。裏庭はある種の閉鎖的な空間で、窓がなく廊下から裏庭が見渡せないように、逆に裏庭から廊下を覗くこともできない。日陰になっている裏庭を横切ると正面には食堂と客室エリアを繋ぐ廊下の壁に突き当たる。そして左手に食堂とキッチンが接続している。食堂の形は客室に面した廊下と並行になるような長方形で、鈎の部分に当たる。

 裏庭は基本的にはただの広場であり何があるわけでもない。見渡しがよく、らきむぼんがそこにいないことは間違いなかった。

 そのまま二人は食堂を回り込み客室の並ぶ別荘の海側に至った。客室には窓があるが、どの部屋もカーテンが閉まっている。あっという間に彼らは玄関まで戻ってきてしまった。

「いないねー……」

「…………」

 別荘の中は非常に可能性が低い。何しろ、彼らは先ほどまでこの中におり、最奥の食堂からやってきたからだ。つまり、もしらきむぼんが別荘内にいたのだとしたら、隠れていたか、或いは二人が裏庭に回り込んだタイミングで、たった今外から戻ってきたかである。

 二人は玄関から別荘内に戻り、慎重に先ほどとは逆の順路を辿る。

 増鏡は、もしかしたららきむぼんは自分が客室の扉を開けた瞬間に「いなくなった」のではないか、と非現実的な妄想に駆られた。量子力学の法則では、物質の状態は観測者が観測するまで収束しないという。有名なシュレーディンガーの猫の実験だ。らきむぼんは、増鏡が部屋を開けるその時まで「いる」と「いない」が重ね合わさった状態だった。それが鍵を開け、扉を開けたことで、波動関数が収束して「いなくなった」のだ。或いは、こんな場合もあるかもしれない。ルルイエがらきむぼんを呼びに行った時、声をかけることで波動関数が収束した。この段階でらきむぼんは「いない」に収束したから返事ができなかったのだ。

「……はっ、バカバカしい」

 増鏡は自分の妄想に思わず悪態をついた。

「会長、そろそろ突き当たりだよ」

 ランベルトがそう言ったその時、二人にとって予想していなかったことが起きた。

「シッ、静かに」二人は息を呑んだ。

 扉がゆっくりと開いた。一番奥の客室――らきむぼんの部屋だ。そしてそこから何者かが姿を表す。その姿は――――

「あれ、どうしたんですか、怖い顔して」

 二人のよく知る、らきむぼんだった。

 二人は大きく息を吐きだし、ランベルトに至ってはその場に崩れ落ちた。

「なんだ、無事だったか。安心したよ」

「全く……急にいなくなったもんだから、みんなで探してたんだよ」

「それはすみません! 朝起きて気分も良くなっていたのでつい散歩に出てしまって」

 らきむぼんは申しわけ無さそうに頭を下げた。どうやらレッドラムの言った通りだったようだ。こうやって嫌な予感が杞憂に終わると、右往左往していたメンバーの行動が急に滑稽に思えてきた。

「増鏡!!」

 すっかり気を抜いていると、玄関の方からレッドラムの叫ぶ声が聞こえ、増鏡はビクリと肩を震わす。そちらを向いてみると、先に合流したのか、外回り組の火凛、ルルイエ、レッドラムが揃ってこちらに走ってきていた。

 そうか、彼らはまだらきむぼんが見つかったことを知らないのだ。増鏡やランベルトはらきむぼんの部屋の前で、扉を開けた状態でらきむぼんと会話していたため、玄関方向からは扉が視界を遮ってらきむぼんの姿が見えないのである。

「増鏡! 大変だ! 浜辺で……浜辺で……」

 レッドラムがここまで取り乱すのは初めて見た。何か、別の重大な事件が起きているようだった。

「どうした、落ち着け」

「らきが……らきむぼんが浜辺で殺されている!!」

 増鏡は目を丸くした。ランベルトも同じ表情でレッドラムを見ている。

「殺されているって……らきはここに」

 扉が音を立てて閉まっていく。そして、らきむぼんは怪訝な顔で言う。

「僕が? 殺されている?」

 外から戻った三人が悲鳴を上げた。状況が掴めないまま時が止まる。

「おい!」

 増鏡はぐらりと崩れるように倒れかけた火凛を抱き留めた。

 どうやら、波動関数は収束しなかったらしい。



十一 再葬


 既に再び殺人は行われた。



十二 消える痕跡


 意外にも、状況に最も対応できず、恐慌状態になったのはレッドラムと火凛だった。 レッドラムが叫ぶようにあったことを話すのだが、最初は脈略がなく、解ったことは断片的だった。補うようにルルイエが冷静に状況を語り出すと、今度は意識を失っていた火凛が目を覚まし、また話し合いが乱れた。そんなことをやっている間に一時間近くが経ち、ようやく全員がまともに考え、話せる状態になったのだった。

 しかし、話を聞けば聞くほど、それは増鏡にとって信じ難いものだった。彼やランベルトはまだ理性で混乱を抑えている。ルルイエと、当の本人であるらきむぼんは落ち着いたもので、遅い朝食を摂り出した。最初は「おいおい、こんな時に」と思ったが、よくよく考えれば、今やるべきはおそらく落ち着くことだ。その意味で二人の行動は正しい。

「状況を整理する。いいか?」

 増鏡は会長として――いや、もはやそれどころではないのだが――少なくとも年長者としてこの場をまとめるつもりだった。いま最も信頼できる「語り手」になり得るのは自分しかいない、そう思っていた。だから増鏡はなるべく公平かつ客観的に物事を見て、判断しようとしている。

「まず、私達は裏庭を調べたがらきは見つからず、結局別荘内の調査に移った。その間、火凛は神社に向かい階段を上った。しかし頂上にもらきはいない。本人の前で申しわけないがその……」

「自殺の痕跡もなかった」と言いづらそうな増鏡を見て、らきむぼん本人が言う。

「そう、そういった形跡もなく、火凛は道を引き返した。一方で、ルルイエとラムは島の東側に向かった。ルルイエは船着場で残り、ラムはそのまま浜辺に向かった。そこで、のを見つけた」

「そうだ」レッドラムは力無く言う。

「僕はここにいるわけだけれど」それに対してらきむぼんは不思議そうに返した。

「そうだ、そうなんだ。もうわけが解らない。とにかく、俺は確認したんだ、あれは確かにらきの死体だった。……いや、やはりお前達も確認してくれ。俺は俺が信じられない」

 やはり、どんな状況であろうと死体があるなら確認すべきだろう。らきむぼんが二人いるということが異常ではあるが、常識的に考えれば、それは他人の死体の見間違えだ。

「それで、ラムは来た道を引き返した。そしてルルイエと一緒に浜辺に戻って再度確認した」

「そう、でもね、私もラムさんの言っていること、合ってると思うよ。あの死体は間違いなくらきくんだよ、私はらきくんなら絶対間違えない」

 その根拠がどこから出てくるのかは謎であったが、少なくともこれで同じ証言が二つということになる。

「それから、ラムとルルイエは緊急事態と判断して別荘に戻った。それで別荘の前で火凛と合流した」

「私は、神社から戻って、まだ二人が裏庭にいると思ったからまずそっちに回ったの。それで自分の目でももう一度ざっと調べてみて、玄関に戻った。そこでラムとルルイエに会った」

 これで、一応全員の行動は噛み合ったことになる。

「よし、解った。まずはその死体を見に行く。見たくないだろうが、すまん、全員でだ。そのまま浜辺で待機する」

「待機? なんで?」ルルイエが尋ねる。

「さっき警察に電話しようとしたんだ。そうしたら、電話が故障していた。修理もできそうにない。携帯は圏外だし。いいか、私達は今、本格ミステリの古き良き舞台――クローズドサークル下にあるんだ。だが、一日に一度、正午に影山さんが様子を見に来てくれることになっている。その船で警察を呼んでもらう」

 おそらく、これが最善手だ。異常なのは未確定ならきむぼんの「」のみ。少なくとも今は確実に起きている殺人に対応しなければならない。

「ん……待て」増鏡は自分の考えに違和感を覚えた。

「おいラム、お前、さっきからなんでその死体が殺されたって思っているんだ?」

「ああ、頭に傷があったんだ、だからおそらく浜辺にいたらきを誰かが……」

 レッドラムはようやく冷静に見たものを思い出し始めていた。混乱していたから深くは聞いていなかったが、どうやら最低限のことは確認していたようだ。

「足跡は」ランベルトが呟くように言った。

「足跡? …………まずい!」

「どうした!?」

「雨だ! さっき戻る時、空模様が怪しかったんだ! 天候が変わる! 足跡が消えてしまう!」

「くそ、行くぞ! 直ぐに出発だ!」

 全員が別荘を飛び出した頃には、すっかり曇天に変わった空から、少しずつ雨が落ち始めていた。



十三 海の手


 浜辺では確かに一人の男が倒れている。増鏡はらきむぼんと共に死体を確認した。これ以上に確かな身元確認もあるまい。

 それはらきむぼん曰く、間違いなく、寸分違わず、だという。

「足跡は消えてしまったな」

 増鏡は残念そうに言う。もう現場保存は殆ど意味を成さない。現在、どんよりと曇りきった空からは、粒は小さいが鋭く強い雨が降りつけている。浜辺の痕跡は何一つ残っていなかった。

「死体はどうしますか?」とらきむぼんは言った。現実感はないが、自分が増えたことは、自分が最も自覚できる。そういうことなのだろう。彼はあまりに冷静だった。

「保存すべきなんだろうが、この雨じゃ却って逆効果かもしれない」

「写真だけ撮って、移動させますか」

「ああ、別荘までは厳しいが、船着場の小屋ならなんとかなりそうだ」

 増鏡とらきむぼんがそれぞれ自分の携帯で写真を撮り、らきむぼんは自分の死体を背負った。右肘に傷がある。生きているらきむぼんと死んでいるらきむぼん、どちらの右腕にも同じ傷跡があるのが、不気味だった。


 *


 船着場の壊れかけの小屋にどうにか辿り着くと、六人はずぶ濡れになった身体を少しでも乾かすように、着ていた衣服を絞り上げた。雨は少し弱まっていたが、以前降り続いている。海は次第に高くなり、強く畝り始めていた。

「あ、あれ、船じゃないかしら」

 火凛が背伸びをしながら遠くの影を指差した。

「影山さんの船ですね」

 らきむぼんが応えた。目を凝らすと、確かに行きの船と同じ船が近付いている。

「この雨じゃ来られないかと思ったが、どうやら来てくれたようだ。定刻よりずっと早いけれど、きっと電話をしてくれたんだ。電話線が切られていて、私達が電話に出ないから、早めに出てくれたのだろう」

「なんだって?」レッドラムは困惑したように返した。

 彼の言葉を聞いた時、増鏡は自分が口を滑らせてしまったことに気付いた。

「電話線が切られていて、と言ったか?」

「すまない、あの時は混乱を避けたかったんだ。電話は故障ではない。電話線が刃物によって切断されていたんだ」

「……やはり、それは、そういうことなんだな」

「ああ、言いたくはないが、死んでいる方のらきを殺した人物が、おそらく私達の中にいる。そしてそいつは、クローズドサークルを作り上げるために連絡手段を絶った。だが心配するな、影山さんが様子を見に来ることはたまたま喋っていなかった。これは犯人の誤算だ」

「おい!」

「待て、気持ちは解るが怒らないでくれ。今は疑い合ってもしょうがな――」

「違う! 船を見ろ!」

 レッドラムの言葉で全員の視線が遠くに揺れる一隻の船に注がれた。それは何か、海から出で立つ巨大な柱のようなものに貫かれていた。

「何よアレ!!」

「判らない! まずい! 沈むぞ!」

 柱のようなものは、ぐにゃりと捻じれ船を木っ端微塵に粉砕した……ように見えた。それは一瞬のことで誰の目にもはっきりとした状況は掴めなかった。まるで巨大な生物の触手が船を絡め取り、海へと引きずり込んだようにも見えた。

 その絶望的な光景を見て、増鏡は初めて叫んだ。

 その時は、もうリーダーの体裁など忘れてしまっていた。



十四 増殖の介在するロジック


 ミステリ研究会というものは時に残酷に「生の事件をデータとして記号化」する側面がある。それは彼らにとってのライフワークであり、そう、こういった場合にはある意味で警察よりもずっとロジカルに、公正に真実を追い求める性とも言えるかもしれない。

 結局の所、別荘に戻ったシャドウマンのメンバー達は、服を着替えた後も、誰一人客室に籠もることはなかった。全員が自然と食堂に集まり、落ち着きを取り戻した。そこには、があった、ともいえる。

「一つ提案しても良いかな」

 最初に口を開いたのは、ランベルトであった。

「僕は、この事件を分析するにあたって、まず分けて考えなきゃいけない事柄があると思う」

「現実的な現象と、本来あり得ない超常現象と、だね」

 増鏡はランベルトの提案に乗る。そう、もういつ助けが来るかは判らないのだ。だからこそ、ここで正しく行動しなくてはならない。

「僕が言うとオカルトオタクの戯言みたいになっちゃうからさ、ここは誰か頼むよ」

 ランベルトはおどけて言う。こういった道化を演じるキャラクターが、今日ばかりは何よりも助かる。それに応じるようにらきむぼんが口を開く。

「現実的な現象は、殺人事件が起きたこと、そしてここがクローズドサークルになったこと。本来あり得ないのは、僕が増えてしまったことと…………影山さんの船が呑み込まれたことだ」

「ねえ、まず超常的な現象から考えない? 気がおかしくなりそうだわ」

 火凛は肩を抱きながら、このおぞましい状況に震えていた。

「らき、お前に増えた自覚はあるのか? なんというか、パソコンのデータみたいなもんで、たとえばお前というファイルが別の名前で保存されたんだとしたらさ」

 レッドラムは、慎重に言葉を紡ぐ。基本的にレッドラムは現実主義者だ。だからこそあそこまで取り乱した。だが、そんな彼も超常を現実に落とし込まなければならない状況に置かれている。

「それが、僕にはその自覚がないんですよ。その記憶もない。だから、僕にとってはかなり不思議な感覚で……。むしろ、怖いんです。もしかしたら、たった今、船着場で死んでいるらきむぼんが、本当のらきむぼんなんじゃないかって」

「いや、そんなことは――」

 あり得ない、とは言えなかった。その根拠はどこにもない。だがそれはもっと複雑な状況を指し示しているのではないか。

「じゃあ、みんなは、あの影山さんの船の件はどう思ってる?」

 今度はルルイエが問うた。これにはランベルトが答える。

「正直、巨大な海洋生物と言われれば、そう見えなくもなかった。蛸みたいな……」

「この殺人事件と関係していると思う?」

「それは……」

 超常現象に対して、あまりに情報不足だった。いや、そもそもこの超常現象を理解し、思考に組み込むことなんてできるのだろうか。増鏡は一つの提言をする。

「こうしよう、現状考えても答の出ないことは考えないこととする。具体的には二つの方向性についてだ。らきは何故増えたか、どうやって増えたのか、など増殖のメカニズムについて。それから、影山さんの船が沈没した理由について」

「了解。では次に現実的な現象について。まずらきむぼんを殺したのは誰か」

 らきむぼんはファシリテーターのように議題を進める。自身の死について議論を振るのはどういう気持ちなのか。

「みんな言いたくないだろうから、会長の私が代表して言う。犯人は会員の中にいる可能性が高い。理由は幾つかある。まず、この島には元より人がいない。そして電話線が切られたことだ」

「ねえ、でも犯人が島に潜んでいたら? それにもし船を沈めたみたいな怪物がいたら? 電話線だって、その怪物が私達を逃さないために切ったのかも」

「火凛、悪いがその議論は決して答が出ない。従って、今回は意図的に措く」

 火凛は不満そうに「分かりました」と返す。しかし、増鏡も彼女の意見が幾らかの信憑性を持っていたことは否定できないでいた。

「らき、最後に会ったのは誰だ?」レッドラムはらきむぼんに問う。

「ルルイエですね」

「ええ、私です。一緒に浜辺に行って……」

 ルルイエは動揺した様子もなく断言した。

「浜辺って……それは」ランベルトが代わりに動揺する。

「でも、僕はルルイエと浜辺に行った記憶がありますよ。彼女と別荘まで戻って、体調不良を伝えた記憶があります」

「そりゃそうかもしれないが、でも判らないだろ。なんつうか、複雑だが、もしその前に増殖したとしたら。ルルイエがらきを殺して、別のらきと別荘に戻ることもできた」

「殺した相手と別荘に戻りますかね」

「それは……いや、すまん。お前の言う通りだ」

「いや、でもラムさんの指摘は方向性としては間違ってないと思います。いっそのこと、機械的に全員を疑ってみませんか?」

 らきむぼんはそう提案する。増鏡も同じことを考えていたが、それは見逃した何かがあった場合、間違った真相が機械的に創られる危険性も孕んでいる。しかし、状況的にそうせざるを得ないのも確かか。

「そうしよう、まずらきはどうだろう? らきがらきを殺すことは可能か」

「他の人と違って僕の場合は殺しても困りません。自分は自分で相手は偽者なわけですから。それに相対したら気味が悪くて何をするか判らない。だが他の人は違います。他の人は即座に相手が偽者と判らない上に、現実的に増殖が起きないと仮定しているはずなので、そこには殺意があったことになります。まあ、元より、僕はルルイエと浜辺にいたのでアリバイがありますが」

「概ね正しいだろう。しかし、今話しているお前が偽者で、偽者の自覚があり、本物に成り代わろうとしていたとしたら、アリバイは崩れるし動機もある」

「いえ、それもないでしょう。簡単な話です。その仮定における僕は相手が偽者だったと主張して堂々と殺害を公表すればいい。先ほど言った通り、僕が僕の偽者を殺すことは比較的受け入れやすい道理を持っているので」

「なるほど……」

 らきむぼんの疑いについてはこれ以上に誰も突っ込まなかった。単純に、論理が非常に堅牢だったからだ。元々、誰も疑いたくないという心理があるのも作用している。

「次に私、増鏡についてだが、私には堅牢なアリバイはない。島に来て以降は、各部屋のチェックを行ってあとはキッチンにいたからだ。だが、裏を返せば、私はお前達の行動について殆ど予測できない状態にあった。その状況で別荘を離れらきを殺害することはあまりにリスクがある。目撃される蓋然性が高過ぎるはずだ」

 増鏡はメンバーを見渡す。そしてこう続けた。

「じゃあ、火凛、お前はみんなと一緒に神社から戻った後どうしてた?」

「私は色んな場所に散歩してたわ。だから、アリバイはないってことになるかしら」

「具体的にはどこに散歩をしに?」

「神社は行ったばかりだったし、ちょっと遠いから浜辺の方にも行ってない。海岸沿いで立ち止まっていた時間も長かったから、ずっと移動していたわけではないけれど」

「途中で誰かと会ったかい?」

「いえ……誰とも」

「分かった。次に、ランベルトは?」

「僕も散歩だよ……」

「散歩って、どこを」

「それは……忘れた」

「なあ、ここに来て嘘はやめてくれ。私はお前を疑いたくない。正直に言ってくれ。お前が散歩していたのだとしたら、火凛と会わなかったのはおかしい」

「…………ごめんよ会長。僕は、立入禁止区域の中にいたんだ。どうしても気になって。ごめん」

「なるほど、つまりアリバイはないってことか……ルール違反だが、もはやそれも咎めてもしょうがあるまい」

「ごめん……なあついでだから聞きたいんだけれど、らきは一体どこにいたんだ?」

「さっきも言いましたが僕はルルイエと一緒でしたよ」

「そうじゃないよ、今朝の失踪騒ぎの時さ。だってそうだろ? 今アリバイの話をして気付いたけれど、あの時、別荘から全方向に分かれて捜索したんだ。誰とも会わないのは変じゃない?」

 言われてみれば、それは正論だった。結局、らきむぼんはどこで何をしていたのか。

「僕も一緒ですよランベルトさん、誰とも会わない場所は一つしかない。僕もついふらっと入り込んでしまったんです。立入禁止区域へ向かう道に。僕の場合は立入禁止の看板に気付いて引き返しましたけれど」

 なるほど、筋は通っている。しかし何の用事があったのか。ふらっと迷い込むにしてもあの道へ侵入するためには、そもそも行き先が神社であることが前提だ。それとも本当に寝起きで何も考えず風にでも当たっていたのかもしれない。

「それより、残りは二人ですね。ルルイエはもう僕と同じですが」

「うん、私はらきくんと浜辺で話していたから、らきくんが犯人じゃないなら私も違うよ。まあ、私はらきくんが何人もいたら嬉しいけどなあ」

 この掴み所のない発言が、演技なのかどうかも区別がつかない。ルルイエに関してはらきむぼんの件と併せて保留とすべきか。

「最後は俺か。悪い、俺が足跡のことをすっかり忘れていたから犯人も判らなくなってしまった。その上、役に立つことは何も言えない。俺はずっと自室で創作をしていた。原稿は見せることができるが、意味はないだろう。つまり、俺にもアリバイはない」



十五 殖える屍の理


 それに気付いたのは増鏡だった。搬入路としてキッチンに設置してある扉――この扉は昨日からずっと閉じられており、鍵は増鏡が身に着けている――を開けて雨の様子を見ようとした彼は、裏庭の食堂の建物の陰にのを見つけたのだ。

「確認してきたよ」

 そう言って携帯に写った死体を見せてきたのはランベルトだった。撮影時刻は二十五分ほど前。続けてらきむぼんも同じように写真を見せる。

「僕も確認しました。死体はまだ船着場にあります」

「ありがとう二人とも。なるほど、ってことはってわけか」

「もういや……」火凛が泣き声を上げる。

 状況はシンプルだった。らきむぼんの死体が一体増えてしまった。ただそれだけだ。

 だが起きたことのシンプルさに反して、状況は複雑そのものだった。

「見ろ、傷跡が違う。頭の傷が逆側だ。あの死体が増殖したわけじゃないんだ。このらきはもっと前に増殖した個体が殺害されたんだよ」レッドラムは、酷い顔色をしながらも、足跡の件を気にしてか、積極的に検分を始めた。

「そういえばもう一体の死体と服が同じじゃないかい?」とランベルト。

「服も増えるみたいですね。僕は着替えたんですよ、昨日の夜に。この服は僕の部屋にもう一着あります」

「同じ時期に増えた死体ってことなのか」増鏡は呟く。

「さあ、なんともですね。服をこれしか知らないのかも」

「そもそも知るって概念があるのかだな」

「僕が偽者なら、少なくとも知能はあるということですが」

 ブラックジョークのようなことを言いながららきむぼんはらきむぼんの死体をひっくり返した。自分の体だからかあまり遠慮がない。その時、この死体にも右肘の傷が見えた。

「もう戻ろう」

 力なくレッドラムが言った。満身創痍の一行は、陰鬱な表情で食堂へと戻った。まるで葬列のように。



十六 探偵


 無言の時間がどれほどに経過しただろう。シャドウマンのメンバー達は次々に起きる怪事件に疲労困憊していた。それでも食堂に一同が集まり続けているのは、最早ミステリマニアの矜持でもなければ、解決への義務感でもない。ただそれは大きな虚無感と、虚ろな思考からなる惰性に過ぎない。まもなく日の入りとなる。一同は、ただ時間が過ぎることを願った。そして、誰かが異常に気付き、救済してくれることを祈った。

 だからこそ、彼の登場はある者にとってはまるで救済であり、ある者にとっては新たな恐怖であり、そしてある者にとっては単純な驚嘆であった。

 ダンッ! と扉に何かを打ちつけるような音がした。食堂の扉の先、客室へと繋がる廊下に誰かがいる。彼らがそう認識するのに僅かに間があったのは、それを誰も想定していなかったからだろう。

「私が行く」増鏡は無表情にそう言いながら、扉に近付く。それはもう義務感ではない、好奇心が勝っていたとも言えた。

 扉を開くと、そこには男が倒れていた。

「……!! 影山さん!?」

 それは、海の底へと沈んだかと思われた影山だった。


 *


 彼は目を覚ました時、まるで悟りを開いた僧のように穏やかな表情で言った。

「そうか……君達が僕を助けてくれたんだね」

 影山は増鏡に差し出されたスープを啜ると、食堂にいるメンバーを一人ずつ眺めた。

「君達は、アレを見たか」

「アレ……? 影山さんの船を襲ったアレですか?」増鏡は静かに聞き返す。

「いや、そうじゃない。それもそうだが、もっと君達にとって火急の問題だ」

「増えた死体のことですか?」

「増えた死体? なるほどそうか、だから君達はまだここで生きているのか」

「どういう意味です?」

「僕にミス研の、シャドウマンのメンバーを紹介してくれたのは君だったね、らきむぼん君」

 増鏡の質問を遮るように、影山はらきむぼんと目を合わせる。

「その時の僕は死んだかもしれない」らきむぼんはそう言って苦笑した。

「まだ、時間はあるかい?」

「日の入りが合図です。それまでは、まだ少しあります」

 増鏡には、らきむぼんと影山の会話の意味が解らなかった。一体、彼らは何を話しているというのか。

「そうか…………。なあ増鏡君」

「は、はい」

「君達がここに上陸してから、今までのことを全て話してくれ。どんな細かいことも漏らさずに教えてくれ。そうしたら、僕は君達の【探偵】になろう」 





読者への挑戦状


 ここで物語を中断し、読者諸君に一つの余興を提案したい。

 この物語は、もう諸君の知る通り「異形なる力」が作用しているといえる。

 諸君がもし作中の登場人物達のようにミステリの信奉者ならば、近年の作品が異形の力の影響下でも成立していることを知っているだろう。

 そこでこの異形なる物語に偶然にも起きた一つの「人間による人間らしい殺人」事件についても、謎解きが可能かもしれないと私は考える。

 諸君は異形な存在の企む計画には一切触れる必要はない。

 作中の何が異形の思惑で何が人間の思惑か、惑い惑わされながら、ただ「らきむぼんは誰に殺害されたか」だけを考え、楽しんで貰いたい。



 おっと、一つ言い忘れていた。

 作中の人物は携帯電話もネットも使えないが、読者諸君は彼らと同じ環境で推理する必要はない。ミステリフリークならば、花が登場したら花言葉を調べる者もいるだろう。

 この物語に、花は一輪も咲いていない。だが、五月頃にでもなれば散歩道にも桔梗が咲くだろうか。

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