第十三話 襲撃

「孟徳っ。囲まれたわよ!」

「分かっておる!」

 燃え盛る魏都許昌の城内で親友二人が叫んでいる。

「報告! 夏候淵将軍が捕まりました」

 兵卒が告げた。これで何回目だろう。既に公明、子建らが捕えられたと知らされていた。

文聘ぶんぺい、船は?」

「準備できております」

 よし、と孟徳は元譲、文遠を呼んだ。

「急ぎ玄徳の元へ向かえ!」

 親友はそれ以上は何も言わなかった。

「文遠っ、行くぞ!」

 二将は馬に飛び乗るや敵陣を突破していった。

 見届けた孟徳は残りの諸将に告げた。

「これより呉に向かう! 気取られるな!」













 城から程近い原っぱで、趙香は安徳から剣の使い方を教わっていた。趙香から武術の、特に剣術の稽古をつけてくれと請われてからと言うもの、二人はこうして時間を作ってはここで基本的な稽古をつけていることが多い。

 城の広場では兄に見つかってガタガタ言われるからと、原っぱで稽古する理由はここにある。

「───とまぁ、剣の基本的な扱い方は以上になりますかね。応用編はこれまでにして、教えた基本をしっかり固めてからにしましょう」

「あ、ありがとう・・・・・・ございます」

 趙香は顔を赤くしなが安徳に礼を述べた。

「私でよければいつでも教えて差し上げますよ」

 ふふっと笑って安徳は言った。つられて趙香も笑んだ。

 そんな和やかな光景を、少し離れた茂みの中から嫉妬や羨望の眼差しで見ている者達がいた。

「いいなぁ~、趙香の奴。あーんな優しく指導してもらっちゃってさ」

 これなん彼らの護衛将隊の面々である。

 彼らの後をこっそりと尾行して、一部始終を見ていて、自分達の時とあまりにも待遇が違うのに思わずこれまでにたまりにたまった不満が噴出する。

「つか、何で趙香達には〝無償〟で俺達は対価を求められなきゃならないんだよ!」

 張耳が小さく叫ぶ。同調した者達がそうだそうだと強く頷く。

「毎回毎回何かしでかすと脅すしさ」

「ホントさ、あの人悪魔だよ鬼だよ鬼畜だよ」

「そうだよな全くだよな。何あの人を人と思わぬ所業の数々。何だって俺達だけいっつもいっつもあんな地獄みたいな・・・・・・ことを・・・・・・・・・」

 興奮していた彼らは声の音量を抑えることをすっかり忘れていたらしい。最後に発言した黄満は、茂みの後ろからものスゴイ邪悪でどす黒で凶悪なオーラを感じた。護衛将隊の連中の顔は恐怖に引きつっていたのは言うまでもない。

 彼らは踏まぬと固く固く誓った地雷を自ら踏んでしまったのだ。眼で「このバカ野郎!」と決定打を叩き込んだ高満を一斉に睨みつけた。

「いけませんねぇ。覗きなどしていて」

 ねっとり、優しい声の中にある憤怒の感情。

 安徳は悪魔の笑顔を浮かべてそこにいた。心なしかこめかみの辺りに青筋が浮かんでいるように見える。将隊の連中は恐怖から身体を震わしている。

「さぁて。早く立ち去らないと、趙香さんに皆さんの×××を・・・・・・・・・」

 実に意味深な発言。

「に、逃げろー!」

 連中は全力で逃げ出した。












 龍一と義輝という名の彼の友人や四聖らという名人達に散々しごかれた龍二は、白朱の居城から呂布の案内のもと帰ってくるなり、安徳から趙香の槍の指導を頼まれた。

 部屋に戻るとそこにいた趙香から改めて指導を頼まれた。初めは「えっ?」という表情だったが、彼女の話を最後まで聞いて、彼自身納得した上で了承すると趙香の喜びは頂点に達した。

「んじゃ、早速やりますか」

 と善は急げと言わんばかりに提案する龍二を、趙香は何を思ったか、手で制止させるとドアの方へ一人歩き出した。

「・・・・・・・・・?」

 いつもとまるで違う彼女の行動に首を傾げていると、突然、趙香はドア右横の壁に向かって強烈な回し蹴りを繰り出した。直後、呻き声と鈍く嫌な音と共に趙雲が倒れこんできだ。

「!?」

 壁に隠れていて───カモフラージュ用のモノはきっと安徳が提供したのだろうが───悶絶している趙雲あにに向かって妹はドスを効かせた声で吐き捨てた。

「兄さん? 今度このようなクソふざけやがった真似事をしやがりましたら、ドタマかち割りまわよ」

(怖っ! 趙香怖っ!!)

 あのおしとやかな趙香がこんな、言葉は悪いが汚い発言をするとは・・・・・・・・・。

 龍二の中で趙香に対する何かが大きく変わったのを感じた。

 趙香は龍二の方を向くと

「さぁ趙蓮様、行きましょう」

 笑顔で言うのだが、つい今しがたの光景のことが抜けきれていない龍二は実に情けない返事で彼女についていった。

「あ、はい・・・・・・・・・」













 城郭のとある場所で、劉超は一人椅子に座りお茶を飲みながらのんべんだらりとナマケモノばりにくつろいでいた。

「いい日だなぁ~」

 こんなことを言いながらひなたぼっこをしている。実に絵になる光景なのだが、そこに、鬼のような剣幕で迫ってくる一団が近づいていることに彼は気づいていなかった。護衛将隊の連中である。

 その中の一人、劉封は劉超が座っていた座子の足を後ろから思いっ切り蹴り飛ばした。

 椅子はすっ飛んで行き、そこに座っていた劉超はドシンと尻餅をついた。

「あたた・・・・・・何しやが───ん? どうしたお前ら? なんか、すんげぇ怒ってっけど」

 事情が飲み込めない劉超がそんな言葉を口にすると、怒髪天を突く勢いの黄満が詰め寄る。

「総隊長! アンタ何自分の仕事放棄してあんな人を推薦したんスか!!」

「お、おい、ちょっと待てお前ら。話が見えない───」

 そんなのお構いなしに関平が追撃をかける。

「アンタが劉安さんなんかを指名してくれちまったから、俺達は毎日死にそうな思いしてんだよ!」

 それで何となくだが劉超は事情を飲み込んだのだが、何故彼らがこうもあの少年を批判するのか分からない。面倒見の良い奴と思ったからこそ〝面倒事〟を彼に投げてやったわけなのだが。

「? そんなにツライ内容だったのか?」

 劉超に見当違いな発言に、劉封達は一様に眼を吊り上げて襲い掛かろうとしたが、たまたま一緒だった曹妃らが彼らを宥めながら押さえつけ、その隙にすかさず事情を知っている星彩が耳打ちした。

「・・・・・・あー、それは大変だったなぁ・・・・・・うん、ホントに」

 事態を把握した気まずいのだが、しかしあくまでも彼は他人事のように言う。

「総隊長、アンタって人は~!」

「ちったぁ反省しやがれこの野郎!」

 あわや暴動に発展しそうだった時に、偶然達子と明美が通りかかった。

「どうしたの、アンタ達?」

 護衛将隊は二人のもとに行くや、口々に劉超に対する悪口を言い出した。

 彼らから解放された劉超の顔が途端険しいものに変わった。近くにいた星彩はそれに気づいた。ただ何でそんな顔をするのかまでは分からなかった。

「ちょ、ま、まあ落ち着いてよ皆」

「あっちでゆっくり聞いてあげるから、ね?」

 そう言って城門のある場所に設けてある見張り用の控室に行こうとしたその時───

「おい貴様ら。そこから一歩でも踏み出してみろ。即座にその首たたっ斬るぞ」

 劉超が殺気を出しながら抜刀し近づいてくるではないか。一同が騒然とする。

「総隊長、何やってんスか!?」

「そ、そうよ。引っ込めてよ、それ」

「ちょ、どうしたのよアンタ!? 仲間が分からなくなったの」

 その場にいた者達は彼の態度に狼狽した。わけが分からない。

「あん? 仲間が分からなくなった? 刀引っ込めろ? ふざけてんのかテメェら。〝偽者〟の貴様らに引っ込める刀はねぇし仲間を語られる筋合いはねぇな」

「偽者ってアンタ・・・・・・・・・」

「ちょ、どうしちゃったんですか総隊長! 達子さん達は立派な我々の仲間でしょう!?」

 次々に非難の言葉を浴びせる将隊の者達に、劉超は心底呆れ果てたようなため息をつき、厳しく言い放った。

「お前らの眼は節穴か? そいつらをよく見てみろ」

 疑うつもりはないのだが、総隊長の言うことでもあるので皆離れて二人をじっと見回した。別段、変わったところはない。

「別に変わったところはないっすよ?」

 陳明が言った。二人は当然怒る。

「ちょっといい加減にしてよっ!」

「アンタ達もコイツに何か言ってよっ!」

 何も見抜けなかった部下達にやれやれと言わんばかりに首を軽く左右に振り

「貴様ら、本当に司馬尚妃と徐明林か?」

と尋ねた。

「アンタまだ疑ってるの?」

 二人は怒りを通り越えて呆れ返っていた。

 そんな返答を聞いた劉超は嘲るが如く大笑いしだした。皆彼を訛しがる。

「そうか。それじゃ試しに聞いてやるが、貴様らは何で董の字が入った服を着ているんだ?」

 指摘され、はっとした劉封が二人を見る。二人の袖の方に小さく「董」と書かれていたのを見付けた。二人の顔は「しまった」と言う表情をしている。

「それに、本物の二人は右利きだから右腰に剣を佩かないし、貴様らの三流変装を見破れねぇそこのバカ共をアンタ呼ばわりしねぇんだよこのドサンピン共が」

 劉封が二人を捕まえようとするが壁に吹っ飛ばされた。彼のぶつかった箇所に放射状のヒビが入り窪んだ。

 残りの者達も捕縛を試みるが同じく吹っ飛ばされて壁に背中を打ちつけてしまった。

 将隊の連中が騙されたことへの怒りから戦おうとするのを彼は手を出すなと命じた。

「お前らはそこにじっとしてな。邪魔だ」

 反抗する連中を抑えるように

「おい高蘭、そいつらが手ぇださねぇようにしっかり見張っとけよ」

と、いつからいたのかそこに立っていた副総隊長にそう告げて行ってしまった。

「高蘭、テメ、今までどこに!」

 劉封らは悪魔に自分達を売りやがった副長に一気に詰め寄った。

 だが高蘭はそれを華麗に無視してこう言った。

「よく眼に焼き付けておきなさい。そうすれば、あの人が貴方がたを止めた理由も、あの人が何故総隊長に任命された理由が分かりますよ。フフフ・・・・・・・・・」














「ほう、テメェが相手か。だが、テメェ一人で俺達二人の相手が務まるかな?」

「お前らって心底呆れ果てて笑いもツッコむする気もおきねぇくらいのバカ共だな。貴様らのような雑魚ごとき、俺一人で十分ってことだ」

 闖入者達は激怒した。誰だって面と向かって雑魚だバカよばわりされたら怒らずにはいられないだろう

「貴様! 今すぐ血祭りに上げてやる!」

 闖入者らが一斉に襲いかったが劉超は尚も彼らを侮辱することを忘れない。

「二人で一人しか殺れんのか? 世の中にゃ、弱っちぃ暗殺者もいたもんだな」

 二人の斬撃を牙龍で簡単に受け止めた。すかさず離れ、今度は息のあった連携攻撃を繰出した。その攻撃はかなりの高等技を含んでいて、端から見ていても相当な実力の持ち主であることが分かる。それを、劉超は子供と遊ぶように簡単に防いでいる。まるで、全ての攻撃が見えているかのように。

「蚊でも止まってんのか?」と言うくらいの余裕がありそうだ。

「す、すげぇ」

 関平が驚嘆の声をあげ、他の者は呆然としている。総隊長劉超は彼らの苛烈極まる猛攻を受けているにも関わらず、息一つ上がっていなければ汗一つすらかいていない。

「な、何なんだこいつはっ!」

 闖入者達はこの男の尋常でない実力に驚愕している。

 しかも、この男、まだ一度も攻撃していない。

「おい、こんなの聞いてないぞっ」

「焦るな。あれやるぞ」

 焦った二人は、劉超からさっと離れると一人が印を結び呪文のようなものを唱え始めた。その直後、彼の上空に無数の矢が現れた。

 結構な数である。

「───へぇー・・・・・・・・・」

「そ、総隊長!」

 陳明が叫んだ。このままでは確実に死ぬ。

「シネェェェ!」

 暗殺者が手を振ると無数の矢が彼を眼がけて迫ってきた。しかしその劉超は動く気配が全く見られない。

 その時、横から見ていた誰かが「あっ」と叫んだ。無数の矢の後ろにもう一人の暗殺者が剣を抜いて迫っていた。

「ははは! これでは逃れられまい」

 劉超は微動だにしない。将隊達は口々に劉超に逃げるよう叫びかけるが、全く聞いていない。

(笑ってる!?)

 劉封は劉超の口角が上がっていたのを見て何故と思った。絶体絶命の危機に瀕しているのに、余裕でいる理由が理解できない。

「───六式之三 業焔ごうえん神速型かむはやのかた

 銀光一閃。彼の薙ぎ払った光速のごときやいばは、迫り来る全ての矢尻ごと後ろにいた暗殺者を真っ二つに斬り裂き、刀に纏っていた紅蓮の炎により全てが灰塵に帰した。

「ば・・・・・・、ばか、な・・・・・・・・・」

 暗殺者の意識はそこで闇に沈んだ。

「ククク・・・・・・生憎、俺に矢玉とかそういう類は効かないもんでな」

 不敵に劉超が笑う。「百年後に出直して来な・・・・・・あっ、もう死んでるか」

 高蘭以外の誰もが、今己の眼に映った出来事を理解できなかった。何が起ったのだ? 何があったのだ?

 ほんの一瞬、まさにコマ送りのごとき早さで決着がついた。それだけが、彼らが唯一認識できたものだった。

「うわぁぁぁぁ!!」

 生き残った暗殺者が、恐怖に支配され、我を忘れて無茶苦茶な攻撃を始めた。呪文によるもの、飛び道具、ありとあらゆる、混乱した脳で考えうる可能な限りの攻撃を彼に敢行した。

 彼はそれを全ていなし防ぐと、暗殺者との間合いを一気に詰め、その細首を刎ねた。

「ちっ。肩慣らしにもならん」

 劉超は不満な顔をして吐き捨てると、牙龍の刃についた血を懐の懐紙で拭い去るとそれを鞘に収めた。懐紙は果てた暗殺者に投げ捨てた。

「何なんだ・・・・・・あの人は・・・・・・・・・」

 朽ちた屍を指差しながら、劉超はいつもの口調で命令した。

「おい、そこで呆けた馬鹿共。今から城内にいる闖入者共を探してこい」

「えっ、いや、そう言われても我々には・・・・・・・・・」

「お前らも見ていたと思うが、どうやら奴らは俺達に化けているようだ。狙いは恐らく戦力削減だろう。

 見分け? そんなの簡単さ。アイツら三下は俺達に完全に化けきれていない。何でもいい、些細な所が違ったら問答無用でしょっぴいてこい。質問その他一切受け付けん」

 言われるままに彼らは不安を残しながらも己の記憶と勘を頼りに偽者捜しに出かけた。

「おーい高蘭。アイツを呼んできてくんねぇか?」

 何か閃いた劉超はただ一人残った副総隊長にそう言った。高蘭は彼が何がしたいのかすぐに理解した。

「では、すぐに」

 彼が行った後、劉超は斬り殺した暗殺者の死骸をじっと見て回った。無意識のうちに顎を人差し指と親指で挟んでいた。

「───こいつは、そろそろ本腰入れんとマズイかな」










 結局、この成都には二十人弱の暗殺者が潜んでいたようで、劉封らは何とか全員を取っ捕まえることができた。

「時間かかったな」

 とだけ劉超は彼らに言った。

「こいつらを一体どうするんですか?」

 彼らを代表して張耳が訊くのだが、劉超はただただ微笑するだけで答えようとしなかった。

 やがて高蘭に伴われて安徳がやって来た。どうやら寝ていたらしく、しきりに瞼を擦っていて欠伸をかいていた。

「全く、人がいい気持で寝ていたのに・・・・・・・・・」

 安眠を邪魔されたらしく、安徳はえらく不機嫌に劉超に文句をたれる。

「すまんすまん。実はちょっと頼みがあってな・・・・・・・・・」

 これこれしかじかと耳元で劉超が囁くと、安徳の顔が段々と喜色を帯びてきた。

 それを見た劉封は、彼がこれから一体何をしようとしているのか悟った。

「何だ、そんなことですか。喜んで・・・・・・んフフ」

 悪魔の微笑み。その顔を見た瞬間、彼らも全て悟った。その横では捕えられた暗殺者達がこれから精神的地獄が訪れようとしているのも知らずに喚き散らしている。

「取引しませんか?」

 そんな彼らに安徳はいきなりこう持ちかけた。命を助ける代わりにこちらの言うことを聞いてもらう、なんてことを当然暗殺者達が聞くわけがない。「殺せ!」とおっかけ合唱のように連呼する。

「ふん、今更テメェらの話なぞ聞く気はない!」

 喚き散らす者達に対して安徳はあくまで冷静な態度で接する。

「貴方がたの命は我々が必ず保証します。ですから、貴方がたは我々に貴方がたの知っている情報とちょっとした探索をやってもらいたいのです。嫌とは言わせませんよ。安いものでしょう? 自分の命と秤にかけたらどっちがいいのでしょうね?」

 段々と、顔に黒い何かが渦巻きはじめているように見えてきた。

 そう思うと、自然と顔の前で両の手の平を合わせていた。彼らの末路が眼に見えてそうせざるを得なかった。

「ほざけ! そんなことで俺達がなびくとでも・・・・・・おいそこのお前ら! 何哀れむような顔してこっち見て拝んでんだゴラっ!」

 劉封らの行動に気づいた一人が吠える。まさか「これから精神的地獄が訪れようとしているアンタらの末路を哀れんで合掌していた」なんて口が裂けても言えなかった。

「仕方ないですね。実はですね・・・・・・・・・」

 安徳が暗殺者達に、何かを小さく、彼らに聞こえるように囁き始めた。十八番の脅迫が始まったのがすぐに分かった。

 さっきの威勢はどこえやら。時間が経つにつれて。暗殺者達の顔からみるみる血の気が失せていった。

───どうせ脅迫ネタの提供者は・・・・・・・・・

 チラリとバレないようにその者を見遣る。

「お前・・・・・・そ、それをどこで・・・・・・・・・?」

 誰かが顔を青くしながら弱々しく尋ねたが、彼は平然と「たまたま好意的な方から聞きましてね」と不気味に笑んだ。

「(ですよねー)」

 そんなことを平気でする野郎はここにはたった一人しかいない。特に、〝経験済み〟の陳明はその時のことを思い出し憎悪の眼差しをソイツに剥けていた。その高蘭は、不気味に、死神の如く笑っていた。

「さて・・・・・・どうします? 私はどちらでもよいのですがねぇ」

 嫌みったらしく言い放つ安徳であったが、彼らの選択肢は最早一つしか残っていなかった。

「喜んで引き受けさせていただきます!」

 捕らえられた者全員が頭を垂れ口を揃えてそう言った。

 話は決まった。以後、彼らは蜀の───安徳の為に尽すことになる。

 安徳の十八番は、敵味方問わず恐れられることになった。

 更に、史上最凶の二人が手を組むと、生きている者にとって一生消えることのない、それこそトラウマとなりかねない最悪な出来事として記憶に深く深くえぐり込むように刻まれることを改めて実感した劉封らであった。











 その日の夜、妙に寝つけなかった泰平はゆっくり上体を起こした。耳には、外の風に揺れる木の葉が別の葉と擦れる音以外何も聞こえない。

 風の強い、漆黒の闇が支配する空間が、窓の外には広がっていた。

(嫌な予感がする)

 胸騒ぎがする。

 自分がこう思う時、大抵それはよく当たる。これまでにそう思って外したことが滅多になかった。一種の特殊能力と称してもいいだろう。

 泰平は起き上がり、ロウソクに火をつけると真っ直ぐ机に向かった。

 机には四枚の札が置いてあった。いずれも陰陽術で使用するもので、彼はその中の一枚、『封』と書かれている札を取ると口で小さく呪を唱え、己の身体に貼った。

 札は彼の体内に消えた。

 泰平は残りの札を取り、先程とは別の呪を唱えると、一枚は家宝である玄上に、もう一枚を机の裏に貼った。

 それを彼は机の下に隠した。

 それから少し離れ、部屋全体に呪を巡らせた。

 その後、泰平は得意の陰陽術で剣を作り部屋を出た。

 深夜であるので、廊下には誰もいなければ明かり一つ灯っていない。明かりは、泰平が持ち出したロウソク一本のみである。

「誰かいる・・・・・・・・・?」

 人の気配が微かだ感じられた。しかし、それはどこにいるかまでは分からなかった。ひとまず、城内を見回ることにした。

 暗闇の城内は、不気味としか言いようがなかった。こんな所だったら、泰平が専門とするアチラさんが我慢できずにひょっこりその姿を現したり、誰かが潜んでいたとしても何ら不思議はない。

 足音が壁に反響して妖しく響く。暗闇が余計に恐怖を助長させるようだ。

 一回りしたが、特に変わったことやものはなかった。杞憂であったか。

 泰平は安堵の息をもらす。だが、それが後の彼の運命を決めてしまった。

「・・・・・・! しまっ───」

 後ろに殺気を感じた。気付いて振り向いた時には既に遅く、鳩尾に強烈な一撃を喰らってしまった。

(不覚・・・・・・・・・)

 前のめりに倒れ、そのまま気絶してしまった。その際、かけていた眼鏡が吹っ飛んだ。

 腹の肥えた襲撃者はほくそ笑んでいた。












 龍二は達子と共に部屋にいた。達子は例によってあの服を着ている。

「そんなに嫌なら断りゃいいのによ・・・・・・・・・」

 龍二が愚痴をこぼす。達子はしゅんとした顔で俯いた。

「だって・・・・・・断りにくかったんだもん・・・・・・・・・」

「あのなぁ・・・・・・・・・」

 龍二にとってこの時の達子ほど、対応に困ることはなかった。こんな女の子らしい彼女など、今まで見たことなかったのだから。

「それよりさっきっから騒がしいな」

 確かにさきほどから廊下が騒がしい。「姜維が・・・・・・・・・」とか「龐統が・・・・・・・・・」といった声が時折壁から漏れて聞こえてくる。

 そんな時、安徳が入ってきた。が、何故か沈痛な面持ちである。

「なあ安徳。一体何があったんだ?」

「・・・・・・泰平が・・・・・・消えました」

 小さく、はっきりと、俯きながらも告げた。えっ、と思わず龍二が聞き返す。

 安徳は彼らにあるものを見せた。それは泰平がいつもかけていた眼鏡であった。

「まさか───」

 龍二ははっとした。安徳は黙って頷いた。

「達子。ちょっとここにいてくれ」

 そう言い残して、二人は走り去ってしまった。

「あっ、ちょっと・・・・・・・・・」

 一人残された達子は、この恥ずかしい格好を他人に見られないようにする為に取り敢えずドアの鍵をかけた。


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