第77話 出来ないなら引き受けるな!

 ある病院の駐車場でのことだ。


 私は用事を済ませクルマの許へ戻ろうとしていた。ゲートに近付くと心配そうな表情の病院の受付係が立っていて、その目前では一台のセダンが異常な音を立ててピクピクと動いている。いや、動こうとしているのが見えた。何事か、と感じたが、取り敢えずゲートを抜け自分のクルマへ向かう。その時、受付さんは叫んだ。ホントに「叫んだ」と表現するのが正しい。


「七紙野さん! お願いします!」

「なっ、なんでしょう?」

「このクルマ、動かして貰えませんか?」

「はぁ?」

「持ち主の許可は取ってあります」


 要約すると、そのクルマの駐車場所が問題で他のクルマが出られなくなったので移動させたいらしい。更に何らかの事情があって所有者は今、現場に来られないので「勝手に動かしてくれ」ということでキーを預かったそうだ。ところが来てみるとマニュアルトランスミッション、MTだったので受付の人は運転できず、その場に居合わせた「出来る」と言った方に頼んだのだが全く動かず、どうにもならない状況に陥った。


 しかし、ここで考えて頂きたい。「出来る」と述べ今、運転席に座っている方は当然マニュアル車の免許を所持しているはずである。それならたとえ普段、運転しているクルマがオートマティックであっても運転の方法くらいは理解しているはずだ。動かせないわけがない。おかしい。もしかして、この人はAT限定免許しか持っていないのではないか? そして想像だけで動かせると思っているのではないか? それなら私有地内でとはいえ拙いぞ。


 私は疑念を抱いたのだが放置するわけにもいかないので引き受けることにした。問題の方が降車しつつ独り言のように語る。


「おかしいなぁ、壊れてるのかなぁ」


 そんなわけはない。オーナーはここまで乗ってきたのだから。壊れているなら、今、ここで、あなたが壊したのだろう。心で呟きつつ私はドライバーズシートに着いた。クラッチを切りシフトレバーを一速に入れる。スロットルを微妙に煽りながらクラッチをデリケートにミートする。思った通りだ。全く問題なくクルマはスムーズに発進した。


 指定された場所へクルマを移動させた私は一応、クルマに異常がないことを確認しキーを抜き取り受付さんに手渡した。


「ありがとうございました! 助かりました」

「いえいえ」


 先ほどの運転者は未だ不満なようだ。


「なんで動くのかなぁ」


 受付さんが、なだめるように返す。


「何かコツがあるんじゃないですか」


 コツなど無い。そもそもAT限定ではない免許を取得する際には厳しい技能試験が課される。それを突破したなら、エンジンから車輪まで、どのように力が伝わるのかを理解し、運転方法も分かっているはずだ。忘れたとは言わせない。


「出来ないなら引き受けるな!」


 声にはしていない。何でもそうだが、クルマの運転など出来ないなら引き受けるな! 危険、極まりない。不用意なクラッチミートで突進するかも知れないし、ギヤやクラッチは扱いようによっては簡単に破損する。


 マジである。出来ないことを出来ると言ってはならない、絶対。


 話が関連するので書いておこう。私がある家族を乗せて送っていった時のこと。小学生のこどもが突然、感嘆の声を挙げた。


「凄い、体がバラバラに動いてる!」


 お母さんが相槌を打つ。


「凄いでしょ」


 私の運転を見て会話しているのだ。MT車の運転では右手はハンドル、右足はアクセルとブレーキ、左手はハンドルとシフトレバー、左足はクラッチを操作する。それぞれは独立して微妙な調整を伴うコントロールが施さる。減速とシフトダウンが同時に行われる場合には右足つま先でブレーキを踏みつつ踵でアクセルを吹かし、左足でクラッチを切り、その間にシフトレバーを動かすヒールアンドトゥが瞬時にこなされる。そこへウインカーレバーやワイパーレバー、ハザードスイッチ、ヘッドライトスイッチ、エアコン、オーディオの扱いも加わり、ドリンクを片手にしているのだから魔法のように映ったのだろう。


 彼女からは複雑に見えている「運転」中、私は笑って話しかけた。


「確か花子ちゃんはピアノの練習していたよね?」

「うん」

「ピアノは右手と左手、別々のキーを叩くでしょ、タイミングも、ペダルも踏むでしょ」

「うん」

「それ、意識したことある?」

「ない、そうじゃないと弾けないもん」

「そう、運転も同じだよ、自然に勝手に体が動くんだよ」

「そっかー」


 時代は変わったんだ、と、実感した時間だった。その昔はみんな、これを運転していたんだよ、ふふふ。


 というわけで、MT車の運転には慣れ、経験が必要なので、運転したことがない方は頼まれても気軽に引き受けてはならない。以上。





「花子」さんは仮名です。

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