山の暮らし
思えば俺たちは恵まれ過ぎている。
逃げ出した山で家と畑のある暮らしなど本来叶うべきものじゃない。俺がここを逃走先に決めた時、魔女の屋敷がまともに利用できる事には期待していなかった。せいぜい過去にでも人がいたなら清潔な水が手に入るだけでも有り難いという想定だった。
むしろ、魔女の屋敷は築年数を思えば耐久性に難がある可能性の方が高いと思っていた。
持ってきたロープとシートでハンモックを作るか、シュラフを用いて眠り、夜風は厚手のブルーシートを外壁にする計画だった。食料だって真央にはしばらく缶詰めを渡すにしても俺は虫、蛇、野草を積極的に取り入れつつ持参の種を軸に栽培を始めるしかないと思っていて、それも希望的な見積もりだ。
人間は野生で生きれるように進化していない。
俺たちは強い日差しを受けて継続した行動が出来ないが、日射病を避ける程度の行動時間で長期的な自給自足の安定は現実的ではないし、替えの靴がなくなり裸足になれば歩ける距離も僅かだ。そもそも足裏のこんなに薄い皮では数回石を踏めば出血する。当然傷は行動力を奪うし、回復を待つ余力はない。その上、出血というのは病の危険を高めることであり、一度病になればここには薬も無く、診断の出来る手段もない。
考えるほどに危険な賭けだった。
今の状況はまだ不便ではあるが、あり得ないほどの幸運によって得られた環境と言える。
「……恵まれたものだ」
「どうしたの?」
「あぁ……なんでもないよ」
「そう? そっか」
「あぁ、そうなんだ」
わざわざ不安にさせる事も無い。
俺ははぐらかし、真央は詮索せずに穏やかに微笑んだ。細めた瞳に緩んだ口元、優しい表情だった。彼女に翼が生えてから一度も見られなかったその顔を見られただけでもここに来て良かったと思える。
この数日で生活基盤は完成した。
井戸は整備され、畑にも種が植えられた。またこの数日は日が赤く染まる頃から草むらに寝転がり色々な事を話した。俺たちの共通の思い出であるとりとめのない子どもの頃を懐かしむ話は多かったが、幼く、ただ近所だったあの頃では出来なかった話もあった。そして、時には俺たちが互いに知らない魔物化後の話もあった。
「すごい。え? でも小学生の時はそんなに成績良くなかったよね?」
「伸びたんだよ。身長も成績もね」
真央の知る頃の俺は背が低い頃の俺だ。
勉強はそれほど得意ではなく、運動も苦手だったけど今は文武共に隙はない。
学業にまでそれだけの実力が備わったのはやはり中学の陰険な教師のせいだろう。
魔物への偏見が強く俺に風当たりも厳しかった。毎日難し問題を出題されたが、途中からはエスカレートして東大模試の様な問題や孅い(かよわい)や竜髭菜(アスパラガス)など漢字クイズ番組の締めを飾りそうな難関漢字シリーズまで出題されるのだから対抗する側は嫌でも賢くなるというものだが、原因が魔物化の関係というのは言いたくない。
「真央が惚れるくらい格好良くなりたかったんだよ」
「!! ……急にそういうこと言うのずるいよ……」
「あ…………そうかな?」
理由を誤魔化そうとして、いつも思っていた事が口をついただけだった。
だが、こう頬を赤らめて照れるとこっちも恥ずかしくなる。
「私もね。実は色々勉強したんだよ」
「……そうなんだ」
まだ頬に赤みの残る彼女は空を見上げて言った。
正直、意外だった。彼女の心の強さは良く知っている。その上で、俺は彼女の魔物化後の話を避けていた。
「ねぇ、私の夢覚えてる?」
「医者?」
「うん……資格はないけど、救急法とか、病気の見分け方とか凄く勉強したよ。それに、いつもあなたに逃げられた落とし穴の研究も沢山したよ」
「それはすごいな……落とし穴は、しなくても良かったけど」
本当にすごいと思った。
救急法とか落とし穴じゃなくて、あの状況でも前に進んだ彼女の心をだ。
「……だからね……」
「!!」
彼女の手が俺の手に重なった。
昔を懐かしんだせいか、あの頃の俺の様に一瞬慌てたが、それを悟られまいと引きそうになった手をそこに残し、真央の顔を見た。頬はまだ赤く、それは赤から黒く変わり始めた空でも分かるほどで、瞳は潤み、俺だけを映していた。柔らかい唇がゆっくりと動き、
「だから、大丈夫だよ。そんなに気を使わないで」
「……そっか」
彼女は、俺が考えていたよりもずっと強い心を持っていた。
「……あぁ、じゃあ……もう一つ、気を使わなくてもいい……かな?」
「え? あっ……」
「いいかな? しばらくこうしていたい」
「……うん」
伸ばした腕に収まる距離にある彼女の顔も見えない様な完全な暗闇の中、彼女の柔らかい体に触れ、その体温が伝わると吹きつける夜風も苦にならなかった。灯りさえ無い山の中だったが、幸福感だけは強く感じていた。
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