SS.1 在りし日のお兄ちゃん
「こうしておひめさまは、おうじさまとしあわせにくらしました。めでたしめでたし」
絵本をパタンと閉じて静かに枕元に置く。祈りを込めて隣をこそっと見ると、願い虚しくかわいいおめめが私を見つめてた。
「はるちゃ〜ん。そろそろ寝ようか?」
ベッドに入ったのはすでに1時間も前のこと。なかなか寝付いてくれない姪っ子に奥の手の絵本の読み聞かせをしてみたが不発。らんらんと輝く純粋なひとみで見つめられている。
「さぁ〜ちゃ、あのね。おはなし、ききたいの」
あかちゃんのころは寝付きが良かったのになぁ。3歳になったくらいから、はるかは直ぐには寝付かないようになっていた。
お姉ちゃんは半年前から仕事に復帰し、今は在宅で編集作業をしている。
締め切りが近いということもあり、はるかを寝かしつけるのは私の仕事だ。
「え〜ん。はるちゃ〜ん。もうねんねの時間だよ? お話って何を聞きたいの? シンデレラかな? それとも白雪姫?」
はるかの頭を撫でながら聞くと、首をブンブンと横に振った。
「おとうしゃん。はるちゃんのおとうしゃんのおはなし聞きたいの」
「……えっ」
意外な答えに思わず口籠もる。
「あのね、おかあしゃんもね、おとうしゃんのおはなししてくれるんだけどね、のろけばなしっていうのばっかりなんだって。だからね、ちがうおはなしも聞きたいの」
「そっか」
生まれたときから父親を知らないこの子は、写真の中と私たちから聞かされる話でしか父親のことを知らない。
最近ではシングルマザーやシングルファーザーも増えてるようだが、子どもたちはそれが当たり前と思いながらも、心のどこかでさみしさを感じているのだろう。
「うん。はるちゃんのお父さん、私のお兄ちゃんのことお話ししようか」
♢♢♢♢♢
私とお兄ちゃんは3歳違い。
小さい頃、家の中ではずっとお兄ちゃんの側にいて離れなかった。
「あ、桜また僕の布団に入ってる。もうすぐ一年生なんだから1人で寝なよ」
「いやっ! お兄ちゃんと一緒がいいもん!」
引っ込み思案だった私は保育園にはあまり馴染めず、ウチでお兄ちゃんと一緒にいるのが好きだった。
「もう、あきちゃんにバレたらシスコンってバカにされちゃうよ」
「シスコンってお菓子?」
「違うよ。もういいや。寝る前にトイレ行ってよ。隣でおもらしはやめてよ」
「しないもん! 私もうすぐ一年生だもん!」
「だったら1人で寝なよ」
なんだかんだといいながらもお兄ちゃんは私の相手をちゃんとしてくれていた。
「えへへへ〜、お兄ちゃん、あったかいね」
「もうっ、抱きつくなって」
「こっちの方がよく寝れるもん。お兄ちゃんからドクドクって音が聞こえるよ」
お兄ちゃんの体温と心音は私をすごく安心させてくれた。
……いまはどっちも感じることができない。
「当たり前だろ。生きてるんだもん」
「生きてるとドクドクなるんだね!」
当たり前のことを知らなかったあの頃。お兄ちゃんはいろんなことを教えてくれた。
そんなに成績はいい方じゃなかったのにね。
「ドクドクはね、お母さんのお腹の中で聞いてたから安心するんだって」
「ふ〜ん。でもお兄ちゃんと一緒の方がいいよ?」
「ふふ〜ん。それはね、桜がブラコンだからだよ! でもそのことは保育園では言わない方がいいよ。みんなにバカにされちゃうからね」
「ブランコ? 私、ブランコじゃないもん」
お兄ちゃんにギュッと抱きついて寝るのは、お兄ちゃんが小5で秋穂さんにバレるまで続いた。
♢♢♢♢♢
小学校の高学年にもなると私も徐々にお兄ちゃん離れをするようになった。
お兄ちゃんも中学生になり生活のリズムが私と変わってきたのも原因だろう。
「ただいま」
部活で帰りが遅くなる上に、晩ご飯の後は自室で過ごすことが増えたお兄ちゃん。
会話も減り、当然のことながら温もりを感じることも心音を聞くこともなくなった。
「お兄ちゃん、秋穂ちゃん来てるよ」
高校受験を控えた中学3年になったお兄ちゃんの元に、秋穂さんは毎日のように来ていた。
「入ってもらって」
私とは満足に話もしないのに秋穂さんは部屋に呼ぶんだ? ひょっとして付き合ってるのかな?
「自分で行ったら?」
モヤモヤした感情が私を支配し、大好きなはずのお兄ちゃんにも冷たい態度を取ってしまう。
「……だな」
私の脇を擦り抜けて玄関にいくお兄ちゃんに背中を、ただ遠くから見守っていた。
思春期にありがちな素直になれない感情。私の場合は両親ではなくお兄ちゃんに向けられた。
そんな妹をお兄ちゃんもめんどくさく感じたのだろう。同じ空間にいても話すことはなくなった。
でも、そんな関係になってしまっても私たちは兄妹。切っても切れない関係にある。
お兄ちゃんが高校に入学し、秋穂さんと付き合い出したという話をお母さんに聞いた。
「ふーん」
いつかはそうなるだろうと思っていた。
でも、実際に付き合い出したとなると、私とお兄ちゃんの間には大きな溝が生まれることだろう。
私はお兄ちゃんたちにとっては邪魔な存在。
あの事件が起きるまではそう思っていた。
中学1年の夏。
近所の神社では恒例の夏祭りが行われ、私もできたばかりの友人たちと一緒に出かけた。
「私、フランクフルト買ってくる」
友人と離れ1人屋台に向かうと、綺麗な浴衣を着た秋穂さんと鼻の下を伸ばしたお兄ちゃんの姿を見つけた。
「みっともない顔」
買ったばかりのフランクフルトを片手にお兄ちゃんを見ていると「きゃっ」と小さな悲鳴が聞こえてきた。
「あっ」
目の前には白い浴衣姿の女性とガラの悪そうな男性のカップル。
その女性の浴衣に、私の手にあるフランクフルトのケチャップがべったりと付いてしまっていた。
「おいガキ! どこ見て歩いてやがる!」
困惑する女性をよそに隣の男性は烈火の如く怒り出した。
「す、すみません」
あまりの剣幕に委縮してしまい、私はパニックに陥ってしまった。
「すみませんじゃねぇんだよ。せっかくのデートにどうしてくれるんだよこれっ!」
「あっ、あの、クリーニング代を———」
「そういう問題じゃ———」
男性が私の胸ぐらを掴まんと腕を伸ばしてきたので思わず目を瞑る。
しかし、その手はいつまで経っても私に届くことない。
「妹がご迷惑をお掛けしました。これ、クリーニング代です」
聞き慣れた声に目を開けると、男性と私の間に割り込むようにお兄ちゃんが立っていた。
「はぁ? だから金で———」
「おいおいケンカか?」
「誰か警備員呼んだ?」
男性が大きな声を出していたこともあり、知らない間に周りの注目を集めていたみたいだ。
「ちっ、しかたねぇな!」
お兄ちゃんの手からお金を掴みとると、男性は女性の手を引きながら人混みに紛れて行った。
「大丈夫だったか?」
放心状態だった私の顔を、お兄ちゃんが心配そうに覗き込んできた。
昔から変わらない優しいお兄ちゃんの顔だ。
お兄ちゃんの存在に、安心した私の目からは涙が溢れてきた。
「おいおい、泣くなよ。もう大丈夫だから」
この涙は怖かったからじゃない。
お兄ちゃんが変わらずに優しくしてくれたからだ。
♢♢♢♢♢
「その時は秋穂おばさんもいたはずなんだけどね? お兄ちゃんは私のために———、あれ? はるちゃん、ねんねしちゃったの?」
いつの間にか隣からはかわいらしい寝息が聞こえてきていた。
掛け布団をはるかにかけ直してベッドから出ようとするが、後ろに障害物があり身動きが取れない。
「ちょっとお姉ちゃん? いつからいたの?」
音もなくベッドに入り込んできていたお姉ちゃん。私が声をかけると背後からギュッと抱きついてきた。
「ちょっ、ちょっと?」
「はるくんは誰よりも優しいのよ」
いつもは気丈に振る舞うお姉ちゃんだが、お兄ちゃんの話を聞いてさみしくなったのだろう。
声色がいつもよりも弱々しい。
「そうだね、お姉ちゃんには特にね。さてと、お風呂に入ってくるから離してくれる?」
恥ずかしさもありこの場から離脱したい私を、お姉ちゃんは更に強い力で抱きしめる。
「いやです。さみしくなっちゃったから今日は川の字で寝ます。それじゃあ、おやすみ」
「いや、明日も仕事だから! お風呂入らせて!」
「騒がないの、はるかが起きちゃうじゃない」
楽しそうに抱きついてくるお姉ちゃん。
すやすやと眠るはるか。
お兄ちゃん、本当はみんなさみしいんだよ?
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