二
「……じゃあ俺、江梨香さんには感謝しなきゃだね」
「……」
「江梨香さんがここにいたから橘さんと出会えた。なにかお礼しなきゃだ」
「いや、きみはもう充分お礼をしたよ」
「え、いつ?」
「神崎は、ほんとは江梨香を狙って、あそこで待ちぶせしていたんだ」
そこへ俺が出てきて、後ろ姿が似ていたから声をかけた。その結果、ああいうふうに襲われた。
俺は、知らず知らずのうちに、江梨香さんの身代わりになっていたんだ。
それを聞いて、正直、あのときは怖かったけど、いまは俺でよかったと思える。女の子の江梨香さんが襲われるよりは、男の俺のほうが幾分かマシだ。
「でもさ、なんでそれ言ってくれなかったの」
「きみに申し訳なくて」
「この家のことだってそうだよ。俺と住むんでしょ。なんで俺に相談しないで勝手に決めるの」
「気に入らなかった?」
「気に入らないとかじゃなくて、俺だってさ、世話になるだけじゃ嫌なんだよ。こういうの、いくらかかるか知らないけど、そういうことも含めて話してほしいってこと。前にも言ったじゃん。守られてるだけじゃ嫌だって。そりゃあ、俺はなんの役にも立たないかもしれないよ……」
最後は尻すぼみになってしまった。
俺は、橘さんみたいに立派じゃないから、どうしても頼らなきゃならないと思う。
年齢差もあるし、甘えてばっかでもいいのかもしれない。でもそれだと、居心地がよくなりすぎて、自分がだめになる気がしてならないんだ。
……さまざまな差があっても、同じ目線でいたいと思うのは、俺のわがままなのだろうか。
「佑は、あそこじゃあ、肩身の狭い思いをしてただろ。ここなら近所の目を気にしなくていい」
「……え?」
「となりの人とも顔を合わせなくていい」
俺は改めて橘さんと視線を合わせた。
「本島を思い出してたんじゃないの」
「なんで……」
「わかるよ。俺さ、きみが思ってる以上にきみを見てる。気にしてる。だから、あえて言わなかったってのもある」
「反対はしないよ」
「でも、遠慮はするだろ。ここは、スーパーは近くにあるけど、警察署からは遠くなるし、俺のことを考えて遠慮するんじゃないの」
たしかにそれはあるかもしれない。
遠慮はすると思うと、俺は素直に頷いた。
「俺はとにかく、きみに笑顔でいてもらいたい。それが俺の活力になるんだ。きみも俺に言ってくれたように、なによりのクスリなんだよ。だから、ここのこと本気で考えてほしいし、俺がこっちのセカイに引っ張ったんだから、きみの暮らしやすいようにしたい」
「橘さん……」
俺はゆっくりとそばに寄り、橘さんに抱きつこうとして、一旦辺りを見回した。人気のないことを確認し、ぎゅっと、その大きな体を抱きしめる。
「わかった。本気で考える。だから、帰ったらもうちょっと詳しく聞かせて」
橘さんが俺の背を撫でた。それから、力強く抱き返してくれる。
しばらく抱き合ったままでいたけど、肝心なことを思い出して、俺は勢いよく顔を上げた。
「あれ、警視庁のことは?」
「ん?」
「警視庁への転勤の話。出てるんだろ。いいの、蹴っちゃって」
「それね、俺にじゃないのよ」
「え?」
「定岡さんになんだ」
そのあと橘さんが説明してくれたのは、山岸さんが「進める」と言っていたのは、定岡さんを東京へ呼び戻すことだった。
定岡さん自身はなんの問題も起こしていないから、異動はしなくてもよかった。橘さんもある程度立ち直ってきたから、今回の話になったそうだ。
「定岡さんさ、ほんとは山岸さんていうんだ。山岸寛治さん」
「ヤマギシカンジ? なんかで見たよ、その名前」
「うちで? なら、ファックスか。山岸さんにもアパート情報頼んでたからね。いいとこありませんかって」
「あ、そうなんだ……って、山岸さん?」
「うん。あの山岸さんね。定岡さんの奥さん」
一呼吸置いて、俺は大声を上げた。
「しかも婿養子」
「だから、ほんとは山岸さんか」
「そうそう。新婚なのに、定岡さんが俺のほうを優先しちゃったから、山岸さんにも申し訳ないと思ってたんだ」
定岡さんは後輩思いで、人情に厚い人だと、いまさらながらよくわかった。
かなり口が悪くて怖いし、ヤクザ紛いな見た目だけど、心根は優しく思いやりもある。「これぞ警察官」て人なんだ。
「でも橘さん、警視庁から戻ってきていいよって言われたら、やっぱ行くよね」
「あー。それね、百パーないから。心配しなくていいよ」
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