オーバードライブ
一
目が覚めると、橘さんの姿はなくなっていた。
時刻は八時半。
ホテルの部屋のトイレを出て、テーブルに目をやると、メモが残されていた。
そのメモには、俺が帰るまでおとなしく待っててね、なんて書いてある。
俺は、冷蔵庫からミネラルウォーターを出すと、カーテンを開けた。ゆうべ橘さんが言った通り、向こうのほうに海がある。春の陽光が水面に反射していてまぶしかった。
ぼんやりと思い出してきた。何時かはわからないけど、携帯が鳴ったんだ。それから橘さんは、慌ただしく部屋を出ていった。
ふと神崎のことを思い出した。なんとなく、橘さんにまだ聞けてないことがある気がして、水平線を見つめながら考えた。
そのとき、この部屋のドアをだれかがノックした。もしかして、橘さんが気をきかせてルームサービスでも取っといてくれたのかと、俺は半信半疑でドアを開けた。
「おはようございます」
と、ドアから覗いた顔に見覚えがあった。きのう名刺をもらった、警視庁の本島さんだ。
だが、ここは美山のホテル。俺の地元から、車で約一時間というところ。
マルボーの本島さんがここになんの用があるのか、俺は首を傾げたけど、橘さんつながりでなにかしら用事があるのかもしれないと、すぐに笑みを作った。
「橘さん、いまここにはいないんです。朝早く出かけちゃったらしくて」
「ああ、べつにかまいません。ここに来たのは真中さんに用があったからなので」
本島さんがじっと見下ろしている。
俺はその視線で、バスローブのままだったことに気づいて、「こんな格好ですみません」と謝った。
「ええと……入ります?」
「はい。失礼します」
向こうはビシッとスーツを着て、かっちり眼鏡をかけている。
それに引き換え、こっちはいまだバスローブ姿で、髪はしっちゃかめっちゃかだ。
俺は、部屋の奥へ進む本島さんを見上げ、早く用事をすませてさっさと帰ってくれないかなと、すごく自分勝手なことを思ってしまった。
「……用ってなんですか? 神崎のことなら、橘さんにいろいろ聞きましたけど」
「いえ、そのことじゃないんです。ただ、あなたに言い忘れたことがあって──」
どことなく、本島さんの雰囲気が変わった気がした。眼鏡を外して、それをおもむろに内ポケットにしまう。
そこへ、テーブルに置いといた俺の携帯電話が鳴った。
その音が、気づかせてくれた。
橘さんに言い忘れていたこと。きのう、警察署で聞いた──。
「出ないんですか?」
本島さんに言われて、我に返った。
すぐに携帯を取ろうとしたが、俺は掴めなかった。本島さんが脇から奪っていったからだ。
どうしてそんなことをするのか、俺はわけがわからないまま、携帯に出る姿を呆然と見つめた。
「橘? ああ、僕だよ。真中さん? そんなに心配しなくてもいい。まだ、ちゃんとここにいる」
ちらっと俺に目をやって、本島さんはにやっと笑った。
この人と、それほど会話を交わしたわけじゃないからはっきりとは言えないけど、なにかがおかしい。
「だけど、早く来ないと、どうなるか責任持てないよ。だって、僕はもうおしまいなんだから」
──もう、おしまい。
きのうの甲高い声と、いまの本島さんの言葉が重なる。
「まさか」
「きのうの電話をやっぱり聞いていたんだね」
畳んだ携帯をベッドに放り投げ、本島さんはスーツの上着に手を突っ込んだ。
事情を呑み込めてなくても、剣呑な空気はひしひしと感じる。
後ずさる俺の肩口に、スーツの中から出てきた拳銃があたる。オモチャであることを願いながら、俺は首を横に振った。
本島さんが警察署で電話をしていたのも、その声も聞いたけど、内容は知らない。なんで「もうおしまい」なのかも。
これに橘さんがどう関わってくるのかも知らない。
「俺はなにも知らない」
「知らない? 橘とここで一晩すごしたのに?」
「とにかく、神崎のこと以外は、俺はなにも知らないんだ!」
銃口が、俺の肩を少し押す。
どうしてこうなっているのか、だれかに説明してほしかった。
本島さんに訊こうとしても、うまく言葉が出ない。
「きみ、橘の『これ』なんだろう?」
小指だけを伸ばし、これというのを示す。
「あいつはゲイらしいからね……」
軽蔑の意も見えるせせら笑い。嘗めるように俺を見て、本島さんは信じられないことを口にした。
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