車が止まる。とあるホテルの前だった。

 定岡さんは、さっきコンビニで買ったものを俺に持たせ、二十五階に行けと言った。


「橘がいるはずだから」


 星空を突き刺すようにそびえ立つホテルは、そんなに高級そうにも見えなかった。

 のっぺりした壁に小さい窓ばかりが並んでいる。いわゆるビジネスホテルというやつかもしれないと思った。

 俺は、フロントに軽く頭を下げながら、正面のエレベーターへ向かった。

 そのフロントの反対にはレストランがある。夜も遅いのに、まだ客がいた。

 まさかこんな展開になるとは思ってもみなかった。俺を襲った犯人を捕まえてもらったら、晴れて自由の身。もちろん、その犯人は神崎なんかじゃない。もっとチンケでつまんないやつ。橘さんの知り合いでもないし、同級生でもない。

 だけど現実は違った。俺なんかは到底しまいこめそうもない真実が、そこにはある。

 前に進んではいるんだけど、頭は迷っていた。このまま橘さんと会って、まともに話ができるか不安だった。

 エレベーターが閉まる前、ホテルの自動ドア越しに、携帯を耳に当てている定岡さんが見えた。

 急激に、体が上へと持っていかれる。

 二十五階は最上階だった。

 整理しきれなかった定岡さんの言葉が断片的によみがえってきた。

 ──橘は、東京で再会した同級生、神崎が、暴力団の人間とは知らずに会っていた。神崎は、普通のサラリーマンと橘に言っていたからだ。しかし、ある週刊誌が、だれかのたれ込みによって、橘の周辺を嗅ぎまわり始めた。やがて、警視庁の上層部にも、橘が暴力団の人間と関わっていると知られ、スキャンダルを恐れた組織から追い出されるようにして、地方に飛ばされた。

 そのとばっちりが俺にも来たんだと、定岡さんは言い終わったあと、珍しく笑っていた。

 ……自慢じゃないけど、俺は東京へ行ったことがない。

 それでも、テレビを見たり、人の話に聞いたりして、相当なところなんだと思っていた。

 昼と夜、 表と裏で、その様相はまったく変わり、少しでも弱い人間は裏の闇に飲まれてしまう。

 そんなシビアな世界で、懐かしい同級生に会えたら、ものすごく嬉しくなると思う。

 向こうも、東京でちゃんと仕事を持っていた。この大都会で、同じく頑張っているんだとわかったら、仲良くなって当たり前じゃないか。

 でも、神崎は嘘をついていた。橘さんを裏切ったんだ。

 そのとき、あの人はどういう気持ちだったろう。橘さんのことだから、神崎の立場も汲み取って、仕方ないと笑ったのだろうか。

 だとしたら悲しすぎる。なんだか腹も立つ。あの人を裏切った神崎にも、それを許した橘さんにも。

 エレベーターが着いた。なんの準備もできていないまま、扉は開く。

 二十五階としか定岡さんは言ってなかったから、橘さんが待っているものと思っていたけれど、だれもいなかった。閑散とした廊下が左右に伸びているだけだった。


「佑」


 右の廊下へと踏み出したとき、そんな明るい声が後ろから歩いてきた。

 振り返ると、やはり満面の笑みの橘さんがいる。

 ノーネクタイの白いワイシャツに、細いグレーの縦じまのパンツ。ポケットに入れていた左手を伸ばし、橘さんは近づいてきた。


「神崎を捕まえたよ」


 と、したり顔で言う。

 けど、俺はどんな顔をしていいかわからず、口をへの字に曲げて視線を落とした。


「そうか。神崎と言っても話が通じないよね。ええと、きみを襲った──」

「神崎のことなら知ってる」


 俺は押さえきれず、ちょっと怒って、そして涙声で言った。


「定岡さんから聞いたんだね」

「そうだよ。だから……」


 俺は顔を振り上げた。


「言うのが遅くなって、ほんとごめん。でも、とりあえず捕まえたから──」

「橘さん」

「佑ちゃん、許してくれるよねー」


 次の言葉は出てこなかった。

 なぜなら、かつての友だちをその手で逮捕したとは思えないくらい、橘さんが目尻を下げて言ったから。しかも、手の平をすり合わせておどけている。

 最初、ムリに振る舞っているのかと思った。けど、この手を嬉々として引いていく姿は、大きな仕事をなし終えた満足感で溢れている。

 なにがなんだか、またわからなくなってきた。さっきまでいろいろマジで考えていたことが、急におとぎ話になったかのようなギャップを感じた。

 ホテルの一室へ入っても、橘さんはあっけらかんと言葉を続けた。


「きのう、佑と電話をしていたとき、もう署の出入り口にいたんだよね。それから、すぐ現場に急行して、マンション付近にいたやつらと神崎をタイホしたわけ。まあ、神崎にエントランスに入られた時点で、お前ら見張り失格だろって感じだけど」

「……なんで」

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