四
そんな人がここにいるはずもないから、やっぱりあの男は警察の人間と思わざるを得ない。
ひょっとしたら橘さんの同僚かもしれない。上司かもしれない。後輩かもしれない。
俺は音を立てないよう、ドアを開いた。声はしない。人の気配も感じられない。
とにかく、いま耳にしたことを晴海さんに知らせたくて、刑事課のドアを叩いた。
しかし、橘さんの班のデスクにはだれもいない。会議室も覗いたけれど、俺がいたときとおんなじだった。
仕方なく、階下へと降りる。
一階についたとき、階段のほうから婦警さんの声が飛んできた。ショルダーバッグをかけ直しながら、俺はちょっとさかのぼった。
その婦警さんによると、晴海さんは急用で、すでに警察署を出たらしい。その言伝てを頼まれたと話した。
「あと、橘さんは、きょうはもう署に帰らないということです。すみませんと謝っておいてくださいともおっしゃっていかれました」
その婦警さんも忙しいみたいで、こっちの返事は聞かず、ただ会釈をして去っていった。
俺は憮然と立ち尽くした。
ほったらかしの挙句、結局はこうなるんだ。待たされ損のムカつき儲けだ。これじゃあ、病院のたらい回しと変わらない。俺は事件の被害者だぞ!
きょうこそは、橘さんに会えると思っていたのに。
だから、気の抜け方も大きかった。俺は、フラフラとおぼつかない足取りで、警察署の出入口へ向かった。
あんなにおおげさにしていた護衛もいまはつかない。いなくなったとたんに急に恋しくなるなんて、どこのマジ恋バナシだよ。
警察署の出入り口で唇を尖らせていた俺は、だれかに肩を叩かれ、びくっとなった。のそりと顔を向ければ、見慣れない男が笑顔で立っていた。
橘さんとはまるで対岸にいるような感じの人。髪型から、メガネのスタイルからスーツまで、生真面目を絵に描いたような刑事さんだった。
「真中さんですよね? お宅までお送りするように晴海さんに頼まれていたので……」
俺は目をぱちくりさせてから、その人をガン見した。
どこかで会っている気もする。
記憶を探っていたら、背中をぐいと押され、警察署を出された。さりげなく名刺を渡される。
「警視庁から来た本島(ほんじま)といいます」
「……けいしちょう? もしかして……東京の」
「ええ」
受け取った名刺を見つめ、俺は肩書きのところを口に出して読んだ。
「組織犯罪対策第四課……って?」
「いわゆるマルボウってやつです」
「マルボー?」
「暴力団絡みの事案を扱うところですよ」
俺はまだ目をしばたたいて、本島さんという人を見上げた。
東京のオマワリさんが、こんな田舎に、なんのためにいるのか。それがとても不可解だった。
あの山岸真由子さんの顔が浮かぶ。会議室へ呼びに来た人が、そういえば本島さんだった気がした。
つまり、あの山岸さんは警視庁の警部さんということ。
てっきり橘さんの上司かと思っていたけれど、どうやら違うみたいだ。
「あの。うち近いんで、一人で帰れますよ」
東京の刑事さんにわざわざ送ってもらうのも、なんだか気が引ける。……なんてことはさすがに言わなかったけど、俺は手を出して、お構いなくを示した。
「そんなわけにはいきませんよ。晴海さんに頼まれた責任がありますから」
本島さんはそう微笑むと、俺の背中にまた手をやって、橘さんのマンションへと歩き出した。
眠りを知らない街の音が、背後へすぼまっていく。
本島さんがあまりに自然にそこへと歩くから、ちょっと変な感じもした。
だけど、本島さんの上司だろう山岸さんが橘さんの知り合いなら、マンションのことも、俺が抱えている事情も耳にしていたっておかしくない。
ただ、この背中にずっとある馴れ馴れしい手は、いますぐどうにかしてほしかった。
「……で? そのケイシチョウのマルボーさんが、なぜこんなところにいるんスか」
俺は、本島さんの手をかわすように、さりげなく横に並んだ。
本島さんはあごに手を当て、不思議そうにこっちを見下ろした。
「橘からなにも聞いてないんですか?」
「……は?」
「僕は、例の事件でこっちに出向してきたんですよ」
本島さんは、その例の事件を俺が知ってて当たり前みたいな言い方をした。
とりあえず、曖昧に頷いておく。
といっても、マルボーさんが関わる事件に、俺は心当たりがない。それよりもなによりも、橘さんからはどんな事件のハナシも聞いたことがない。
だから、俺は頷いたあと首を横に曲げた。
「神崎の事件です」
俺の仕草を読むかのように、本島さんはそうつけ加えた。
──神崎の事件。
どこかで聞いた名前だと思ってすぐ、俺は短く声を上げた。そして、次の本島さんの言葉で、足がぴたりと止まった。
「真中さんを襲った神崎を追って、僕はこっちに来たんですよ」
「……あの、ちょっと待ってください」
俺の記憶が確かなら、神崎は放火犯で、目下警察から逃げている最中だ。
マルボーの本島さんが追っているということは、暴力団の人間なんだろう。そこまでは理解できる。
でも、その神崎と、俺を襲ったあの男が結びつかない。いや、ちょっとぐらいは疑ったけど、まさか──。
「橘から本当になにも聞いてないんですか」
ほとほと呆れたというように本島さんは言った。
だけど、実際そうなんだ。橘さんは、本当になにも話してくれていない。
「そのぶんだと、真中さん。神崎と橘が中学の同級生で、東京で再会を果たした仲だというのも知らないんでしょうね?」
そのあとも本島さんはなにか言っていたけど、俺には聞こえなかった。
きのう見た、なにか言いたげな神崎の顔がよぎっていったから。
そんな俺の背に、またもや手が触れ、思わず肩がはね上がった。顔を振り向けると、本島さんは橘さんのマンションを仰いでいて、それからゆっくりと俺に視線を移した。
「まあ、その辺りの詳しいことは、橘のマンションに行ってからで」
と、囁くように言う声に、どこからともなく飛んできた怒声が被さる。
定岡さんの姿が目に入った。
「本島!」
俺がびっくりしている間に、定岡さんが突っ込んできた。本島さんの肩を思いきり掴んでいる。ものすごく険しい目つきをして、俺たちのあいだに入ってきた。
「まんなか。そこの車に乗ってろ」
すさまじい形相の定岡さんがどこかをあごでしゃくる。
電信柱へ鼻先をつけるようにして、シルバーの乗用車が停まっていた。
俺は二の足を踏んでいたけど、急かす定岡さんについには怒鳴られ、すごすごと後部座席へ収まった。
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