三
それから一時間くらい待っても、橘さんは一向に姿を現さなかった。
そうこうしているうちに、時刻は九時を回る。
警察署の会議室で、俺はプリプリしながら携帯を閉じた。晴海さんがくれた缶コーヒーを飲み干し、椅子に背をもたせかけた。
ここまで来たら、あの人に会うまでは絶対に帰らないぞ。改めて意気込んだとき、会議室の後ろのドアが開かれ、弾んだ黄色い声が響いた。
「ゆーうちゃん」
俺は素早く振り返った。
紺のスーツに丸バッジのあの人が、軽快にヒールを鳴らしてやってきた。
俺は正面へ向き直り、首をひねってから横を見る。
──この人がなんで俺の名前を知ってるんだ?
「……は?」
「あれ? きみが『まんなかゆう』ちゃんじゃないの?」
やってきたのが橘さんじゃないとわかった時点で、俺の顔は、もはや初めて会う人に向けるものではなかったと思う。
それからさらに眉をひそめる。
お約束みたいになっているツッコミも、いまはめんどくさくて、ただただため息をついた。
「おっかしいなあ。橘が言っていたとおりの感じなのに」
「……やっぱり」
「え?」
「そうです。俺が、そのまんなかゆうさんです」
ほとんどヤケクソだった。
紺のスーツを見上げ、俺はまじまじと彼女を眺めた。
それにしてもこの人、さっき下で会ったときとずいぶん雰囲気が違う。
不思議な感じがして、しばし見つめていたけれど、ぴんと思いついたことがあった。
「もしかして──」
「うん。このあいだはどうもね」
「山岸……真由子さんですか?」
「ピンポーン」
と、あの山岸真由子さんが人指し指を立てたとき、また会議室のドアが開いた。
俺はぱっと目をやって、すぐに首を垂れた。
「警部」と、緊迫した声が飛ぶ。
空気の急変に顔を上げると、一瞬、ドアのところにいる男の人と視線が合わさった。たぶん、山岸さんと一緒に警察署へ入ってきた人だと思う。
「車の用意ができました」
「わかった。すぐに行く」
山岸さんは、鋭さもあった声を一変させ「じゃあね」と残すと、手を振りながら会議室を出ていった。
警察に詳しくなくても、警部と呼ばれる人が偉いってことは知っている。でも、小説とかで読むイメージは、頭の固そうな、しかもおっさんが多い気がする。あんなに若そうできれいな人が警部だなんて、ちょっと信じられなかった。
橘さんより、もしかしたら年齢が上なのかもしれない。橘さんを呼び捨てにしていたし。それに、松宮さんのように、実際の年よりもうんと若く見えるヒトもいる。
……ていうか、山岸さんは、なんでこの会議室に顔を出したんだろう? 俺しかいなかったのに。
まさか、橘さんがべらべら喋ったらしい「まんなかゆう」を見物するためじゃないよな……。
俺は腕を組んで、また首をひねった。うんうん考えているうちに、ふとトイレに行きたくなって、椅子を立ち上がった。
待ちぼうけをだいぶ食らっているし。晴海さんがくれた缶コーヒーの影響もあったみたいだ。
俺はこっそり会議室を出ると、トイレを探した。
廊下は本当に静かだった。前に来たときみたいに、 ドアがオープンになっていることはなくて、人の出入りもまったくなかった。
廊下を折れる。
会議室というプレートがやたら並んでいる。しかし、どこも使われてないみたいで、ひっそりとしていた。
ちょっとした休憩スペースが奥にあった。自販機も何台かある。
晴海さんがくれた缶コーヒーはあそこのものかもしれない。そう思いながら目を移した先に無人の長椅子がある。トイレのマークと、そこにつながる細い通路もあった。
「──ということは、まだ見つからないのか」
手を洗い、ドアを開けた途端、そんな声がした。
押し殺したような、低い男の声だった。ぼそぼそとなにかを話している。
休憩所のほうからするけど、ここからだと姿は確認できない。
相手の声もしない。電話に向かってしゃべっているのかもしれなかった。
俺は、開けたドアを思わず狭め、身を縮めると、聞き耳を立てた。
「あいつを見つけたらすぐに消せ。じゃなきゃ、俺はおしまいだ」
向こうの声が甲高くなった。
──消せ。
いまの語調がはらませた意味を悟り、俺はゆっくりとドアを閉めた。
ここは警察署だ。市民をお守りするのが生きがいだという人たちが集まっているところだ。俺みたいな第三者も紛れてはいるけれど、ここにいる人間の大半が警察官なんだ。
そんな人がだれかを「消せ」だなんて、この耳を疑わずにはいられない。
任侠映画のセリフみたいだった。けど、ヤクザなんて、いわば警察と真逆のセカイの人たちだ。
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