二
次の日の朝、座卓での食事中に、ふと気づいたことがあった。
「そういえば、橘さん。ここ最近、家に帰ってないじゃん?」
たしか、うちの合い鍵を渡したのが一週間前。橘さんはそれ以来、俺の家で寝泊まりをしている。
「ああ……だねー」
「だから、そろそろ帰って、空気の入れ替えだけでもしといたほうがいいよ。じゃないとカビが生える」
橘さんは、空にしたどんぶりを持って、ご飯のおかわりをしに台所へ行った。そこから声を飛ばす。
「でも、しばらく忙しいんだよね」
「じゃあ、俺が掃除しに行ったげる」
元の位置にあぐらをかいた橘さんは、ご飯を口に運びながら言う。
「悪いよ」
「ぜんぜん。きょう、バイト休みだし。ヒマだから」
「一人じゃ大変でしょ」
「そんなことないよ。フローリングと水回りだけにするから」
「それでも大変だよ」
「……」
お茶碗と箸を置き、俺は橘さんを見据えた。
「なに。そんなに俺に来てもらいたくない理由でもあんの?」
「え?」
「やけに遠慮してるじゃん。橘さんらしくなく」
橘さんはお新香へ箸を伸ばし、一枚をつまんだ。
いかにも朝の食事風景らしい、小気味よい音がした。
「違うよ。俺はね、きみ一人であそこを掃除するのは、本気で大変だろうと思って」
「あ、なにげにうちは広いですから自慢してる? すみませんね、どうせうちは狭いですよ」
「ゆ~」
「そして、態度もデカいだれかさんが入り浸るから、また狭い狭い」
いじけたように下唇を突き出した橘さんは、大げさな音を立ててみそ汁をすすった。
アラサー世代のいい大人がこの態度。ほんと憎めない、かわいい人。
「てことで、マンションのカギ、置いてってよ」
俺は、ごちそうさまと手を合わせ、食器を持ち上げた。
「だったらさ、ついでに弁当でも作って持ってきてくれないかな」
流し台に立ち、スポンジを取ろうとしたけど、手を引っ込めた。
橘さんがまた味噌汁をすすった。
「弁当? ……持ってきてって、どこに」
「もちろん、俺んとこ。あ、ごちそうさま」
「まさか警察署に? やだよ。よく考えてみな。俺がそんなの持ってくの、おかしいだろ?」
「大丈夫だよ。受付窓口には俺から言っとくし、きょうは内勤がほとんどで、ずっと署にいるから」
そうは言われても、やっぱり気が引ける。
流しに食器を置いた橘さんをじっと見上げた。
「ていうか、なんで俺の弁当? いままでそんなこと言ったことなかったじゃん」
「いや、まあ。それは、ほれ。あれだよ、あれ」
橘さんが人差し指を振る。
「みんなが店屋物の昼食の中で、手作り弁当をおもむろに出す。それを見つけただれかが言うんだ。おお、橘。きょうは弁当か。珍しいな」
そのセリフはブー課長さんのものらしい。橘さんが鼻を指で押し上げているから。
それからニヒルに笑って、眉を下げる。髪を掻き上げた。
「はい、まあ。僕はいいって言ったんですけど、持っていけってうるさくて」
「……」
「うちのかわいいヨメが」
なにが、かわいい「ヨメ」だ。勝手にやってろ。
俺はカランをひねって、後ろの橘さんに構わず洗い物を始めた。
「いわゆる、愛妻弁当ってやつですか。すみません、課長。見せつけちゃったみたいで……って、佑。ちゃんと聞いてる?」
「聞いてない」
泡だらけの手を動かしながら、俺は振り返った。
「と、に、か、く。そんな不純な動機じゃあ、ますます持ってく気が失せる」
「なんだかんだ聞いてるじゃない」
「なにぃ?」
「ごめんごめん。もーう。そんなに目を三角にしないでよ。せっかくの顔が台無しになるから」
と言って、橘さんは突然、目を細めた。どっちかというと、いやらしい感じに伸びていく。
「ゆーうちゃん」
「な、なんだよ」
「そんな手じゃあ、なんにもできないねえ」
俺の後ろにぴったりとくっついた橘さんは、シャツの中にいきなり手を突っ込んできた。
ヤらしい手つきをわざとさせて、肌の上を進んでいく。そして、一点をつまんだ。
「はっ、あっ、なにすんだよ!」
この泡だらけの手で、どう抵抗しようか考えているうちに、痛いくらいにそこをこねられた。
肩がはじけ、上体がのめっていく。その背中に覆い被さるようにして、橘さんが体重をかけてきた。
「朝から敏感だね……。悪い子だ」
「いやだ。やめろって、重いっ」
胸を執拗にいじっていた手が、ついに下へと向かう。スエットのゴムを越えた。
「もう、マジで……っ!」
「あら~、いやだわ奥さま。お宅のムスコさん、早起きな上にお元気で」
「くそ……っ」
俺はカッと目を見開き、泡なんて気にせず、右手を振り上げた。橘さんのわき腹めがけて肘鉄を食らわす。
「きゅうそねこをかむ!」
「ぐえっ」
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