三
短い呻きとともに、背中の重しがようやく遠のいた。橘さんは、わき腹を押さえながら四つん這いになり、苦悶の表情で痛みに耐えていた。
その背を尻にしき、俺は勝利の声を上げた。
「ざまあみろ!」
……と、なんだかんだとあった朝だけども、結局はお弁当を届けることで収まった。
あの人の頭も相当沸いてるけど、俺のもかなりゆだってるみたいだ。
橘さんがどんなふうにデスクワークしているのか、覗き見してみたかったというのもある。こんな機会でもないと、一生お目にかかれそうもない。
早めに昼食をとり、俺はいそいそと家を出た。向こうで一緒に食べるのは、さすがにあれな気もする。
もちろん、一番の目的は、橘さんちのお掃除だ。うちでも使っているワックスシートを持参して、まずは警察署に向かった。
俺の住んでるところは、県内で、人口、面積ともに二番目に位置する町。
ナンバーツーとはいえど、全国的に存在感の薄い県だから、たかが知れている。それでも、警察署の周りはにぎやかで、都会色が強い。背の高いビルやマンションがあったり、高速道と一般道が交差していたりと、車も人もなかなか往来が激しい。
バスを降りたあと、警察署まで、ちょっとした並木道を歩く。すっかり葉桜になってしまった木がそよ風とわさわさ遊んでいる。
「刑事課の橘さんに用があるんですけど」
警察署に入って、受付窓口へ向かうと、あまり警察官ぽくないおじさんが座っていた。
「ああ、はいはい。まんなかゆうさんですね?」
俺の顔を見てにっこりと笑ったおじさんは、どうぞと、通路の奥へ手を伸ばした。
「まんなかじゃなくて、真中です」と、訂正しようと思ったけど、この人にたぶん非はない。橘さんだって本気で言ってるのかギャグなのか、俺はいまだにわからないんだ。
苦笑しながらおじさんに会釈して、階段を上がった。
前に警察署へ来たときは、こうして二階に連れていかれた気がする。
それにしても、どの課も入り口が開きっぱなし。
通りがてら覗くと、お昼時だっていうのに、スーツのみなさんが忙しそうに動き回っていた。
刑事課に着いて、ここも開きっぱなしの入り口から中を見渡す。だが、橘さんの姿はどこにもなかった。
というか、いくつかあるデスクには課長さんはおろか、定岡さんや晴海さんの姿もない。
「あら、真中くんじゃない」
そこへ、久しぶりに聞く声が飛んできた。
松宮さんだ。
松宮さんは、内科と心療内科を開業している医師で、警察の依頼で検案というのもやっているらしい。
薄いグレーのスーツに開襟シャツ。松宮さんの胸元は、相変わらずはちきれんばかりだ。
そこばかりに目がいかないように俺は気を配り、軽く頭を下げた。
「こんにちは」
「久しぶりね。元気だった?」
「はい」
俺の持っている紙袋に、松宮さんが視線を落とした。それから首を伸ばして、刑事課の中を覗いていた。
「もしかして橘くんに用?」
「はい、まあ」
「あら残念ね。課内のあの人のなさは、きっと会議中だからよ」
「会議……」
いつ終わるのかと、松宮さんに訊いてみたけど、首を傾げていた。
待っている時間もないし、俺は、橘さんのデスクへ弁当を置いていくことにした。
「ここよ」
松宮さんに教えてもらったそこは、意外とキレイだった。
ファイリングされた資料らしきものはいっぱいある。でも、パソコン周りはちゃんと片付いていた。
なんとなく、乱雑しているものと勝手に想像していたから、ちょっとウケた。
「……あら。それはなにかしら」
と、パソコンのとなりにあった紙袋を、松宮さんが指さした。
俺が弁当を入れてきたのと同じような、持ち手のあるやつ。表に付箋がついていた。
「佑へ、だって。真中くんあてみたいよ」
「はあ……」
もしかして、弁当のお返しだろうか。
俺は、松宮さんへちらっと目をやってから紙袋を覗いた。弁当はデスクに乗せ、個包装されているそれを一つ取ってみる。
「くさか……せんべい?」
「まあ。また送られてきたのね」
見るからに高級そうな紙のパッケージ。しかも、一枚がデカい。
紙袋の中には、それが結構な量、ごそっと入っていた。
でも、一番気になったのは、松宮さんのいまの言葉。俺は、ぱっと顔を上げた。
「また?」
「よく送られてくるのよ、その『そうか』せんべい。彼のご実家から。私も、このあいだおすそ分けをもらったわ」
「へえ。そうか」
べつに、ダジャレを言うつもりはなかった。思わぬ口のスベリに、松宮さんを見たけど、ぜんぜん気づいてないみたいだった。
ていうか、草加せんべいってどこのものだっけ?
それを考えつつ、違う胸の引っかかりを覚えた。
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