第38話 その後、早乙女君と長瀬世貴子さんは付き合い始めた。

 その後、早乙女君と長瀬世貴子さんは付き合い始めた。


 道場に通い、猛者たちを次々と薙ぎ倒す彼女は、二階堂の人間の血を久々に湧き立たせてくれた。


 そんな彼女の様子が気になるのか…

 早乙女君までもが甲斐甲斐しく道場に通った。

 彼の場合、長瀬さんの様子が気になって仕方ないだけだったようだが…


 …海が。

 海が、意外と彼に懐いている事に…俺は少しばかり嫉妬していたのかもしれない。


 その証拠に…

 坊ちゃんや彼が所属するバンド、SHE'S-HE'Sが実力を認められて渡米した時、少なからずともホッとしてしまった。



 SHE'S-HE'Sが渡米して、数ヶ月が過ぎた頃。



「…環さん、ちょっといいですか?」


 神妙な面持ちで、声を掛けられた。


「何かな。」


「……」


 長瀬さんは道着姿のまま、さりげなく周りを見渡して。


「…誰にも聞かれたくないので…出来れば外で…」


 と、俺を見上げた。



 すぐに、海の事だと思った。


「じゃあ、まずは着替えて。」


「…分かりました。」



 その後、門の外で待っていると、私服に着替えた長瀬さんが出て来て。


「…すみません、突然…」


 俺に軽く頭を下げた。


「公園を回って帰ろうか。」


「はい…」



 二人並んで公園に向かう。

 長瀬さんは常に何か言いたそうにするものの、まだ言葉は出て来ていない。


「遠距離恋愛はどうだい?」


 少しだけ視線を長瀬さんに向けて問いかけると。


「え…あ、手紙と電話があるので…あまり遠距離って感じないというか…」


 少し歯切れの悪い返事。


「でも、会えないと不安が膨らむのでは?」


 その言葉に長瀬さんは足を止めた。

 三歩ほど進んで振り返ると。


「…環さんは…どうやって乗り越えたんですか?」


 長瀬さんは、自分の足元を見たまま…震える声で言った。


「…何を?」


「…その…」


「……」


「…海君の…事です。」


「海の事?」


「………はい。」


 小さく頷いた長瀬さんは、両手を握りしめていて。

 ああ…ダメじゃないか、早乙女君。と、ここにいない彼にダメ出しをしたい気分になった。




「環さんは…何もかもご存知の上で、織ちゃんと結婚されたんですよね…?」


「ああ。」


 二人で公園のベンチに座った。

 思えばここは…織と早乙女君がよく語らっていた場所でもある。


「あたし…話を聞いて納得したつもりだったんですけど…」


「それでも気になるんだね?」


「……はい……」


 今、彼の想い人は長瀬さんであって…織ではないのは分かる。

 だが、『昔の恋人』というのは、密かに驚異的存在であるのも確か。

 ましてや、二人の間には…子供もいる。

 しかも…友人としてではあっても、顔を合わせているわけで…

 色んな事が、受け止められなくて当然だ。



「俺は…織の護衛をしていた身でね。」


 ゆっくり話し始めると、それまでうつむいていた長瀬さんが顔を上げた。


「本当なら、結婚なんてあり得なかった。」


「……」


「だから、少々の事には目を瞑らなくてはならない…」


「…それは…」


「…って、そんな事は微塵も思わなかったよ。」


「っ…」


 笑顔で言うと、長瀬さんは少し目を見開いて驚いて。


「あ…あたし…ごめんなさい…」


 両手で頬を押さえた。


「あはは。ごめんごめん。意地悪だったな。」


「…いえ…」


「…とにかく、海が可愛くて仕方なかったんだ。」


「……」


 海が生まれたあの日を思い出す。


 俺の手を握りしめる織。

 元気な産声を上げた海。

 あの日…俺には大事な存在が増えた。



「確かに、早乙女君には嫉妬をした時期もあったけどね。それでも…かけがえのない存在以上のものなんて要らないから。」


「……」


「君にとっては、この現実を受け止めて納得するには時間がかかるのかもしれないけど、だからって早乙女君を嫌いになる?」


 俺の問いかけに、長瀬さんはふるふると首を横に振る。


「…あたし…自信がないんだと思うんです…」


「どうして?」


「…彼の渡米前、色々話して…生まれて初めて自分を好きだって思えるようになったはずなのに…離れてみると、なんて言うか…夢から覚めた…ううん…魔法がとけた…って言うか…」


 …長瀬さんは…

 見た目は実年齢より若く…と言うか、幼く見える。

 早乙女君より年上だが、彼が大人びているせいか…並んでいると随分年下に思える。

 だが、整った顔をしてるし…何より、猛者たちを相手にするようなツワモノにも見えない。

 そのギャップのせいか、本部には長瀬さんのファンが大勢いる。


 ブランクのあった柔道も、うちでの鍛錬で勘を取り戻した。

 来月にはオリンピックの強化合宿にも参加する。


 そんな長瀬さんのメンタルを…完全に支配してる男。

 早乙女君。

 君は罪な男だね…



「…えっ…?」


 頭を撫でると、長瀬さんは驚いたように肩を震わせた。


「世貴子。」


「!?」


 名前を呼ぶと、さらに驚いて俺を見上げる。


「俺は君の柔道家としての実力を高く評価してる。」


 笑みの無い顔でそう告げると、長瀬…世貴子は、少し怯えたような目で俺を見た。


「そこで、提案だ。」


「…提案…?」


「今は、その迷いは忘れて、オリンピックで優勝する事だけを考えるんだ。」


「……」


「もっと自信を持て。そして…過去が気になって仕方ないなら、そんなに信用出来ない男の事は忘れろ。」


「!!」


 酷な事を言っているのは分かるが、今の世貴子に必要なのは優しさじゃない。

 目の前にいる女性は…アスリートだ。


「し…信用出来ないわけじゃ…」


「そうか?信用出来ないから納得いかないんじゃないか?」


「……」


「織との事は過去の事。だが、君は今後も二階堂に来て海や織に会う。そのたびに知らない過去の出来事をどこかで想像して嫉妬する。」


「…やめてください。」


「向こうで頑張ってる彼は、きっと音楽と君の事しか考えていない。」


「……」


「実際、ここ数ヶ月の彼の頑張りは…君の存在のおかげだろうしな。」


「……」



 飴と鞭を交互に出すかのように言葉を放つ。

 そのたびに、世貴子は眉をしかめたり…瞳を揺らしたり。



「…海君は…彼の事…」


「いつか言おうと思う。」


「…言うんですか…」


「その時は、君も覚悟して欲しい。」


「……」


「君も、海の母親だと。」


「っ…」


 世貴子が驚いて顔を上げる。


「あ…あたしは…っ…」


「早乙女君が父親なら、その妻になる君が母親と言われてもおかしくはない。海には二組の両親がいる。幸せな事だ。」


 俺が自信を持ってそう言うと、最初は途方に暮れたような顔をしていた世貴子も、空がオレンジ色に染まり始める頃には…表情を和らげた。



「…あたし、織ちゃんにライバル意識持ってて…」


「ああ。織も持ってる。」


「え?」


「全然世貴子に勝てないってボヤいてた。」


「………ふふっ。」


 それから世貴子は…オリンピックで優勝したら、引退を決意していると言った。

 それを聞いた俺は、それなら引退後は二階堂の道場で働いてくれと提案した。



 世貴子とはそこで別れたが、笑顔で手を振ってくれたあたり…ガチガチな気持ちは解いてくれたと思う。



 そして翌日。

 道場で海の相手をする世貴子を見かけた。



「よきこ、ちゅよい!!」


「ふふっ。もう一回する?」


「しゅる!!」


 どれだけ世貴子に立ち向かっていたのか、頬を赤くした海。

 そんな海を、優しい目で見る世貴子。



「世貴子さんに見惚れてる?」


 気が付くと、隣に織がいた。


「いつの間に…」


「そんなに夢中になってたなんて…」


「ヤキモチか?」


「うん。」


「……」


「あたし、これでも結構ヒヤヒヤしてるのよ?寝技とか…なんて言うか…」


 唇を尖らせる織の頭を抱き寄せて額にキスをする。


「なっ…たっ…環っ…」


「可愛いな、織。」


「もっ…何それっ…」


「俺には織しか見えてないよ。」


「っ……」


 頬に手を当てて見つめると、織は赤くなって目を泳がせた。


「もう…ずるいよ…」


 そう言いながら口元を緩める織をそっと抱き寄せると。


「みーちゃった。」


 そう言いながら、道場の中で海を目隠しして、俺達を見てる世貴子が笑った。




 中途半端な関係より、引き込んでしまえばいい。

 そうすれば…世貴子の不安は取り除けるはず。



 まだ二階堂の本質は明かせないが…

 いずれは打ち明ける日が来るだろう。



 彼女が、世界一になる日が来れば…。



 そして、その日はそう遠くないはずだ。

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