第33話 「どういう事だよ。」

「どういう事だよ。」


 アメリカへの異動が確定した日の夜。

 本部から帰ると、部屋の前で万里と沙耶が待っていた。


「…何が。」


 二人の間を縫って部屋に入ると。


「おまえが向こうに行きたくて受けたなら文句は言わない。」


「でも相談ぐらいしてくれたって…」


 万里と沙耶はそれぞれ、そんな事を言った。



 …相談なんて…したところで反対されるに決まってる。

 俺がどう隠し切ろうとしても、きっと二人は俺の真意を見抜いてしまう。

 そして…行くな。と強く引き留められる。



 そばに居られるなら。

 お嬢さんが幸せになられるのであれば、相手が誰であろうと…

 そう思えていたはずなのに。


 お嬢さんの気持ちが…少なからずとも俺に向いていると分かった今。

 …受け止める事も出来ないのに、そばに居るなんて無理だ。



 無言のままでいる俺を残して、二人は溜息と共にその場を去った。


 …申し訳ない気持ちはある。

 だが…

 俺がアメリカに行く事は、二階堂を変えるためにも役立つはずだ。



 ほぼ片付けた部屋の中。

 明日提出する書類だけ書き上げてしまおうと机に向かった所で…


「…いいか?」


 声がかかった。


 振り向くと、開いたままのドアの外に坊ちゃん。


「…気配がしませんでしたよ。訓練されたのですね。」


 立ち上がって笑いながら言うと。


「おまえが何かに気を取られてただけだろ。」


 坊ちゃんは少し面白くなさそうに首を傾げて部屋に入られた。



「なんで?」


 ドアを後ろ手で閉めた坊ちゃんは、いつになく真顔。


 俺はその目をじっと見つめて…


「…自分の力を試したいと思っています。」


 静かに答えた。


「……」


 坊ちゃんは少しだけ何か言いたそうに口を開きかけたが…


「……そっか。」


 うつむいて、少しだけ口元を緩ませた。


 長い前髪がパサリと頬にかかって、それをゆっくりとかきあげる。

 その愁いを帯びた表情は…お嬢さんにそっくりだと思った。



 初めて坊ちゃんを見た時、なんて美形なんだ。と、みんな湧いた。

 当然、双子であるお嬢さんもそうだが…

 坊ちゃんには、華があった。


 屈託のない笑顔。

 誰にも同じように声を掛けて、いつの間にかこちらも笑顔にしてくれる。

 頭が良くて、面倒見も良くて、一度関わると最後まで付き合う。

 見た目に反して熱い所は…俺達の気持ちを二階堂から少し離してくれる事が度々あった。



「…考えて、決めたんだよな。」


「…はい。」


「……」


 うつむき加減で前髪をかきあげたまま。

 坊ちゃんは、視線を自分と俺の足元を行ったり来たりさせながら。


「そっか…そうだよな…」


 小さくつぶやいて…


「分かった。」


 顔を上げられた。


「しっかりやれよ~?」


 バシッと腕を叩かれる。


「…はい。頑張ります。」



 出逢った頃は学生服姿だった坊ちゃんも。

 今は…殺意を抱いたであろう早乙女千寿と同じバンドで、夢を追われている。


 坊ちゃんの夢は、お嬢さんの夢。

 それはまた…早乙女千寿の夢を後押しする事でもある。



「ありがとうございました。」


 深々と頭を下げると、『はっ?』と小さな声と共に。


「それはこっちのセリフだっつーの。ざっす。」


 坊ちゃんも…俺と同じぐらい頭を下げられた。






 坊ちゃんが部屋を出て行った後、書類を書こうとペンを手にしたが…

 色々な事を思い出して、それはなかなか進まなかった。

 それでも何とか書き終えて、最後の荷物をキャリーケースに詰めた所で…


『環。』


 部屋の外から…お嬢さんの声。


 ゆっくりドアを開けると。


「少し、いい?」


 瞳を揺らしながら…見上げられた。


「…はい。」



 お嬢さんを部屋に入れて、お湯を沸かす。

 一昨日から止まない雨が、その存在を主張するかのように窓を叩く。



「よく降りますね。」


 急須にお湯を注ぎながらそう言うと。


「何か、ヘンだね。」


 お嬢さんが、らしくない明るい声で言われた。


「え?」


「何もなくなって…まるで、もう帰って来ないみたい。」


「……」



 帰って来る気は…ない。

 遠い場所で、ここにいる皆の幸せを願いながら、二階堂に尽力する。

 それが…これからの俺の人生だ。



「すみません、お茶しかなくて。」


「…ありがと。」


「……」


「…どうして、行くの?」


 不意打ちのように問われて、合わせなかった視線を合わせてしまう。


「アメリカなんて、どうして?」


「ずっと、お声をかけていただいていたので。」


「今までは断わってたんでしょ?」


「ええ。でも、自分の力を試すにはちょうどいいと思って。」


「ここじゃ、だめ?」


「そういうわけではないです。」


「それとも…あたしが変なこと言ったから?」


「変なこと?」


「あたしのこと、好きか…なんて。」


「…関係ありませんよ。それに、言ったでしょう。お嬢さんのことは、みんな大好きですって。」


「それじゃ答えになってないよ。」


「……」


 …お嬢さんの言葉を耳には入れても、気持ちに落とさないよう努める。


「みんなの気持ちじゃなくて、環の気持ちを聞いてるの。」


「私は…」


 俺は明日アメリカに発つ。

 俺の気持ちなんて…


「…みんなと同じように、お嬢さんのことを大切に想ってます。」


「…向こうに行っても…誰かの護衛…するの?」


 お嬢さんの声が徐々に細くなって。

 それが…バリアを張っているつもりの俺の気持ちを…


「それは行ってみないとわかりません。」


「…イヤ。」


「え?」


「あたし以外の人の護衛なんて…しないで…」


「お嬢さん…」


 お嬢さんの頬を涙が滑り落ちる。


 なぜ…

 なぜ俺のために涙なんて…



 涙を拭ってさしあげたい。

 そう思うものの、俺にはそんな資格もない。

 一生お守りします。と、名乗り出る勇気もない俺に…

 そんな…



「…お嬢さん…?」


 不意に…お嬢さんがブラウスのボタンを外し始めて。


「な…何してるんですか。」


 俺はその腕を掴む。


 な…

 なんて事を…!!


「お願い、一度だけでいいの。」


「自分が何をしてるか、わかってるんですか?」


「わかってる。わかってる…あたし…」


 潤んだ瞳で見つめられて、俺は…そこから目を逸らせなくなった。


 だが…


「環が…」


「やめてください。」


「どうして?あたしは、環が…」


「とりかえしがつかなくなります。」


「そんなの、つかなくってもいい。あたしは…」


「やめて下さい。どうか、このままお部屋にお戻り下さい。」


 ダメだ。

 このままでは…俺は中途半端に応えてしまう。

 明日にはいなくなるのに。


 お嬢さんの腕を掴んだまま、ドアを開けようとすると。


「環が好き。」


「……」


 その言葉が…俺の動きを止めた。


 …お嬢さんが…俺を…



「お願い…一度だけでいいの…」


 お嬢さんは俺が開けかけたドアをゆっくり閉めると、背中に抱き着いた。


「何を…何を言ってるんですか…」


「…そしたら…もう、言わないから。環の事…忘れるから…」


「…私は、頭や姐さんを裏切れません。」


 …そうだ。

 俺は…頭と姐さんに育ててもらった。

 恩がある。

 裏切れない。


 その思いで、お嬢さんの手を離そうと…



「お願い…あたしの気持ちを…拒まないで…」


「……」


 その涙声に…俺の気持ちが揺らいだ。


 お嬢さんの気持ち…

 お嬢さんの気持ちを拒むなど…



「お願い…環…。あなたが好きなの…」


 繰り返される、ずっとあり得ないと思っていた言葉。

 明日はここからいなくなる俺に…なぜ…


「…お嬢さん…」


 振り向いて、その頬を流れる涙を拭う。


「…環…」


 拭っても涙の浮かぶ瞳で、お嬢さんは俺を見上げる。


「…私は…明日ここからいなくなるのですよ…?」


「…分かってる…それでも…いいから…」


「……」


「あたしの事…好きじゃなくても…いいから…」


 その言葉に、俺の我慢が限界を迎えた。


 好きだ。

 だが…それは口にしてはならない。


 俺は…お嬢さんが『抱いてくれ』と言ったから、抱く…最低な男だ。



「あ…っ…」


 お嬢さんをベッドに横たえて、首筋に吸い付く。


「環…」


 激しく髪の毛をかき混ぜられて…自分でもおかしくなってしまいそうだった。


「…お嬢さん…」


 白い肌に唇を落としながら。


「…織って…呼ん…で…」


 そう、懇願されるお嬢さんの耳元で。


 俺は…



「…お嬢さん…」


 決して…名前は呼ばなかった。


 そして。


「…意地悪…」


 お嬢さんは…泣きながら、俺に…抱かれた。

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