奈落
澄田ゆきこ
*
最近、俺の家に見知らぬ少女があがりこみ始めた。
ガラス片がちらばったむき出しのコンクリートがあるばかりの、ごく殺風景な部屋だ。少女はその上に古い長座布団を敷いて、こともあろうに男を連れ込んでは、日銭を稼いでいるようだ。事の最中、彼女は声をあげることも身じろぎすることもなく、ただ渡された万札を握りしめていた。男たちの顔ぶれは、同じこともあれば、違うこともあった。
少女の体は痛ましいほど細く、そして幼かった。黒いワンピースからのびる素足は、床にちらばったガラス片や小石のせいで、いつも傷だらけだった。
「なあ」
ある日、俺は意を決して少女に声をかけた。彼女は怪訝そうにこちらを振り向く。痩せた顔のなかで目ばかりが大きい。
なんだ、見えているんじゃないか。どこか拍子抜けしながら、俺は続ける。
「俺の家でそういうことするの、やめてくれないかなぁ」
「どうして?」
はじめて聞いた少女の声は、想像よりもずっと大人びていて、そして冷たかった。
「いや、だって……そもそもここ俺の家だし……それに、よくないよ、こういうの。君のためにも」
「なんで?」
咎めるような眼差しに、思わず押し黙ってしまう。
「生きてくためにしてるのよ、あたし。別に嫌だなんて思ってない。ねえ、もしあなたが言うようにあたしがこれをやめたら、あたしはどう生きていけばいいの? まだ子供で働くあてもないの。あなたが面倒を見てくれるの?」
少女は堰を切ったように言葉を吐き出した。「うんざりよ。わかったわ、出ていけばいいんでしょ」と荷物をまとめだした彼女を、反射的に「待って」と呼び止めてしまったが、続く言葉は浮かばない。
「……ごめん、俺が悪かった」
「そう」
彼女の声はガラス片のように鋭利でまっすぐだ。
「勝手に使ったのはあたしも悪かったわ。まだ部屋の主がいるとは思わなかったの」
ため息混じりに言って、少女は長座布団を敷きなおす。その上に腰掛け、表情の読み取れない顔のまま、彼女は「ねえ」と身を乗り出した。
「あなたは……その姿は首吊り? どうしてこんなところに縛られているの?」
どうしてだろう。考えては見たものの、特に答えは見当たらない。思い残したことも恨みも、自分には何も残っていなかったはずだ。
俺は「さあ」と小首をかしげた。
「どうして死のうと思ったの?」
間髪をいれずに彼女が尋ねた。
「……病気だったんだ。治らないことはわかってた。頼れる人もいないし、だったら動けるうちに死んだほうがいいと思った」
「……そう。だからそんなにひどい姿なのね。……わかるわよ、お母さんもあなたと同じ病気だったから」
少女は痛ましげに目を伏せた。初めて見る表情らしい表情だった。
細い二の腕をさすりながら、少女の唇はまた言葉を吐き出し始める。
「怖い病気よね。体がどんどん動かなくなって、顔も体もどんどん醜くなって。あたしの知っているお母さんじゃなくなるみたいだった。……怖かった。だから逃げたの、あたし。最低でしょ?」
「そんなことないよ」
少女は怯えたような目をして、小さく顔をあげる。
「俺だって逃げたんだ」
自分でも呆れそうなほど、自嘲的な言い方だった。
それから少女と途切れ途切れに会話をした。彼女は俺が思っていたよりも饒舌で、表情豊かだった。ぞっとするほど大人びているかと思えば、曖昧な笑顔にはまだ子供らしいあどけなさも残っていた。
彼女はその後も、たびたび俺のもとへやってきては、とりとめのない話を続けた。「どうしてここに来ようと思ったの」と尋ねると、彼女は例のあどけない笑みを見せ、「高いところが好きなの」と照れ臭そうに答えた。
ひとりで退屈していた俺も、いつの間にか、少女の来訪を待ちわびるようになったいた。
彼女が男を連れ込んでくることは、日を追うごとに少なくなっていた。
「あなたが好き」
ある日の夜。長座布団に寝転んだまま、少女は俺を見上げて言った。
夜まで彼女が居座っているのは初めてのことだった。静謐な空気の中、冷ややかな月光が彼女の四肢を仄白く照らし出していた。
「悪趣味だな」
俺は苦笑することしかできなかった。「死んでるんだよ?」と返しても、彼女はひどく大人びた顔で「いいの」と言うばかりだった。
「私、死んでもいい」
とろりとした声だった。眠たいのだろうか。
彼女の手のひらの中から、細い注射器とアンプルが零れ落ちた。腕には無数の痣と注射痕。
「ねえ、死んだらあなたとずっと一緒にいられる?」
すがるような目をしている。俺が言い淀んでいると、少女は静かに立ち上がり、瓦礫だらけのコンクリートにためらいなく素足を踏み出す。
窓枠の上に立った彼女は、そっと壁に手を添える。砂を含んだ風。ワンピースの裾が膨らんで、揺れた。
「待っ、」
どしゃん、と音がした。
奈落 澄田ゆきこ @lakesnow
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