第60話 それぞれの想い


 薫に唇を奪われ、数秒が経過しただろうか。

時間がゆっくりと流れる。数秒の出来事が数分に感じる。


 重なり合った二人の唇。

俺の両頬をホールドしていた薫の両手はなく、俺の上半身を抱きしめている。



 どの位の時間が経過したのだろうか?



 数秒? 数分? まだ薫の唇が俺の唇をふさいでいる。

キスの時は息を止める。これは大人として、男としてのマナーだ。

チューのとき、鼻息が荒かったらかっこがつかない。



……。


…………。


………………。



 い、息を止めるにもそろそろ限界だ。

だがしかし、この至福の時はまだ続けたいと俺の本心が言っている。


 げ、限界を超えろ! 5分位はいけるはずだ!

薫は時折、重なる唇の位置を変えながら軽く呼吸をしている。

ずるい、俺も呼吸したい。でも、髪がふんわりとして、いい匂いが……。


 あ、だんだんきつくなってきた。も、もうだめぽ……。

でも、この時を逃したらダメだ。が、頑張れ俺! ま、まだいけるはず!



 そんな生死をさまよう一歩手前で部屋に同席している二人が気になった。

一体どんな顔をしているのだろうか?

ちらっと横目で、テーブルの向かいに座っている二人を見てみた。



マリアと目が合った。


「わぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


と叫んだのはマリア。まぁ、妥当な反応ですね。



 由紀は大きく目を見開き、少し口が開いている。

放心状態ってやつか? ほぼ無反応。




 マリアの盛大なリアクションにより、薫の唇が俺から離れる。

その瞬間、俺はゆっくりと呼吸を始める。良かった、生きてる!


 薫は俺に抱き着きながら、テーブル向かいの二人に顔を向け、話しかける。

「はぁはぁ……。じゅ、純一事は私が責任を持つ。他の誰にも……、私だけの……」

そう言葉を発した瞬間、糸が切れたように薫は再びベッドに倒れ込んだ。



「じゅ、純一様の純潔がぁぁ! うわぁぁぁん!」

急に立ち上がったマリアはテーブルを乗り越え、俺の目の前まで迫ってきた。




――刹那




 俺の左頬にマリアの渾身の拳(こぶし)が襲い掛かる。

今まで見たことも無いような拳の速さに、流石の俺も反応が遅れてしまう。


 マリア、いつの間に加速できるようになったんだ?


 俺は頭一個分を何とか後ろにずらし、致命傷を避ける。

一瞬でもマリアの拳が視界に入ったので、なんとか反応することができた。

もし、この鉄拳をまともに受けていたら、恐らく部屋の隅まですっ飛ばされていただろう。

マリアの拳は俺の前髪をかすめ、空を切った。


「あ! 危ないじゃないかっ! そんな渾身の一撃、下手したら病院行にっっ!」


 マリアの振りぬかれた拳の勢いは止まらず、そのまま勢いを利用し、体をきれいに一回転させ、左手の裏拳が俺の左頬に突き刺さる。



「へぶしっっっ!!」


 俺は避ける事も出来ず、マリアの一撃をくらってしまった。

そのままベッドに倒れ込み、俺は左頬の痛みを我慢しつつ、マリアを睨む。

「父さんにも殴られたことが無いのに! マリアッ!!」



「純一様の、ばかっっ! 鈍感! わからずや! もっと、もっと周りを見てくださいよ!」


 マリアはその後、半泣き状態で部屋を飛び出していってしまった。



 頬の痛みを我慢しつつ、由紀の方に目を向ける。

暗い表情の由紀は、一言も発せず座ったままだ。

かっこ悪い兄さんで、ごめんな……。


 沈黙。空気が固まったかのような空間。

その間、俺の思考はフル加速している。


 俺は奪われた。薫に、今この場で奪われた。

そして、マリアに渾身の一撃を貰った。


 ムードもなく、気の利いたセリフもなく、ただ単に奪われてしまった。

以前の俺だったら「っしゃぁー! ひゃっほー!」 なリアクションを取るだろう。

もしかしたら、その場で踊り出すかもしれない。


 だが、今の状況で喜んでいいのだろうか?

何か、間違ってはいないか? マリアに綺麗な一撃を貰ったのもいい証拠だ。


 呆けに取られている俺の目の前に、無言で立ち上がった由紀が近づいてくる。



 そのまま、何も言わず、俺を抱きしめる由紀。

顔を俺の胸に押し付け、ギュッと抱きしめてくる。



「兄さん……。兄さんは良いの? 薫さんで良いの? 私ではだめなの?」


 何が良い? 何がダメ? 何を基準に決めるんだ?

俺はついさっきまで、薫の事ばっかり考えていた。

でも、由紀もマリアもそれぞれ何か考えや想いがあるようだ。


 俺は自分の事ばかり考えていた。相手の事はそこまで考えていない。

それではいけない。きっと、もっと深く、相手の事を考えなければいけないんだ。


 ありがとう由紀。俺は少し焦っていたようだ。

マリアの一撃も許そう。俺は懐の大きな男だ。


「由紀……。俺は薫も、由紀も大切に想っている。それは本心だ」


 由紀は俺から少し離れ、左頬をさすってくる。


「兄さん。マリアにたたかれた頬、赤くなってますよ」


「あぁ、綺麗に一撃もらってしまったからな。思った以上に良い一撃だったよ」



 由紀の右手に俺の左手を重ねる。

由紀の手は小さく、華奢だ。まだ幼さの残るその小さな手は、誰かに守ってもらう必要がある。

そう感じ取れる、幼い手だった。


「兄さん、少し目を閉じてもらえますか? 頬の痛みを少し取りますね」


「あぁ、ありがとう。さすがに今回の一撃はちょっと痛かったな」


「絶対に目を開けないでくださいね。絶対ですよ?」



 俺は目を閉じ、由紀にまかせる。



 俺の鼻にせっけんの香りがふわっと匂ってくる。

いい匂いだ、心が安らぐ。下手な香水よりもいい匂いだ。


 頬に何か、ちょっとにゅるっとした何かが当たる。

少し生暖かい。でも、気持ちが良い。痛みがスゥーっと引いていく。


 いったいどんな薬なんだろうか?

まるで生き物のように俺の頬を、まるで舐められているかのようなこの感じ……。



 俺は由紀との約束を破り、こっそりと薄目になる。


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