バベルハイツ201号
千石綾子
序 バベルハイツ201号
秋の長雨は続いている。
僕は傘も差さずに濡れながら帰路を急いでいた。どんなに急いだって、どんなに早く走ったって浴びる雨の量は然程変わらないだろう。どの道僕は逃げ切ることなんて出来はしない。分かってはいるけれど、僕は走らずにはいられなかった。
古い古い木造のアパートの屋根が見えてきた。バベルハイツは幼なじみの四條が大家をしている物件で、亡くなった両親から譲り受けたのだそうだ。今僕は大学を休学してこのアパートの住み込み管理人をしている。
今頃あちこちと雨漏りしているんだろうな。僕の体は憂鬱と雨水を吸い込んで、ずしりと重みを増した。
「近江、おい近江!」
僕を呼ぶ声がした。まるで水の中から聞こえるような、声。ざあざあと叩きつけるような雨音が聴覚を溺れさせる。
振り返ると満開の桜の下に、四條はいた。
──ちょっと待て。今は秋だ。
僕は目を凝らす。
桜の大木に見えたのは、大きな銀杏の木だった。すぐ隣の橙色の街灯に照らされて、僕の目を欺いたのだ。
「近江、遅いぞ」
「ごめん」
素直に謝ると、奴は僅かに肩を竦めて歩き出した。紺の傘を分け合う気はさらさらないようだ。
「酒は買ってきたか」
「安いやつなら」
「構わん」
生垣のサザンカの赤が目に染みる程鮮やかだ。縁側に住人の一人が寝ころんでおり、僕たちを見つけて飛び起きる。
「あっ近江、良かった。お腹空いた」
反射的且つ端的に欲求をぶつけてきた。短い髪に白のタンクトップ半ズボンと、昔の少年みたいな格好だが、彼女は20歳過ぎの女子大生だ。
名は
このアパートでは住民の詳細について詮索無用なのだそうだ。住民は全て訳ありで出入りが激しい。いちいちフルネームなど覚える必要はない、と四條は言う。深入りしたくない僕もそれには大賛成だ。だから、上手くいっている。
「じゃあ何か作るよ」
このアパートでの僕の立場は住み込みの管理人。そして住民たちの食事も作る。言わば寮長だ。
「親子丼が良いなー」
何故か今買ってきた食材で作れるものをピンポイントで指定してくる。──まあ、鶏肉以外は常備している材料で作れてしまうのだが。
「他にも親子丼食べる人ー」
僕が叫ぶと、ガラガラと3つの窓が開いてそれぞれの手が伸びる。
「俺はオムライスが良い」
四條。食材はあるから良いけど別の注文って手間のかかるやつだよな……。
バベルハイツはアパートというよりも下宿所っぽい感じだ。トイレや風呂、ダイニングとキッチンも共有なのだ。
僕が親子丼とオムライスを作っている間に聖や窓から手を挙げた連中がダイニングに集まってきていた。
僕は世の中の他の人達よりも物事に驚かない性質だ。それでもまだこの風景には完全に慣れたとは言い難い。テーブルに座っているのは昭和の少年スタイルでざんぎり頭の聖の他に、腕や顔を小さな鱗に覆われた男性と全身緑色に淡く光る女の子、そして体長30cm程のおじさんだ。
バベルハイツは人ではない者達の世界と人間の世界をつなぐ扉のようなものなのだそうだ。そしてこちらへ遊びに来てしまった彼らがハメを外さないように滞在中はここに留置いて監視するのが四條の役目らしい。
「俺はこっちで食う」
居間に座った四條が言う。「馴れ合いが嫌い」が口癖の四條は誰かと食卓を囲むのが好きではないらしい。
「美味しいねぇ。新しい管理人のご飯は美味しいねぇ」
小さいおじさんがテーブルの上に立ち膝でどんぶりの中身をかき込んでいる。その小さい体のどこにそんなに入るんだろうと聞いてみたいがここは我慢。
「余計な詮索はNGだ。」
そう四條が言っていた。
そんな当人はさっさとオムライスを完食してしまったようだ。
「近江、終わったぞ」
そう僕に声をかける。お茶を淹れつつ片づけに来い、という意味だ。以前はこの態度にムッとしたものだが、友人とはいえ僕の雇い主だ。ここで暮らすなら四條の横柄な態度にも耐える必要がある。
「はい、お茶」
既に四條は読書を始めており、食器を片づける僕に見向きもしない。僕はテーブルの上にお茶を置くと、そのまま奴に背を向けてダイニングへ戻ろうとした。
「近江」
短く呼ばれ、その場で振り返る。
「サザンカには構うな」
は?
何のことだ、と僕は首を傾げた。生垣の手入れは住人のおばさんがしているだけで、僕は触ったこともない。まるで意味が分からなかったが、四條にはそれに答える気はないらしい。再び本に目を落とし黙り込んでしまった。
奴がこうなると周りの音は全てシャットアウトされてしまうのだ。
さっき帰ってくるときに見つめていたのが気に入らなかったのだろうか。干渉するなというのはともかく、鑑賞もするなというのはそれこそシャレにもならない。
しかし四條は僕の雇い主だ。
質問も抗議も諦めて、僕は食器洗いに専念することにした。
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