ガラスの腕はよく砕ける

朝霧

第壱話

 古い匂いがする街で、私は久しぶりに私以外の怪物に出会った。

 高校入学を機に故郷を離れ、新都から古都にやってきた3日後のことになる。

 まだ中学生でも高校生でもない身分での春休みの最中で、引越しの片付けが大体終わった頃だった。

 その日その時私は、4月から入学する自分の学校を見に行こうとしたのだ。

 いざ入学式の時になって道を間違えたら困るので、そのための確認だった。

 ついでに観光者気分でこの古都を歩き回ろうとも思っていたが、それは二の次三の次。

 だから、あちらこちらに咲き誇る桜の花に目を取られすぎないように、周囲の特徴を観察しつつてっこてっこと歩いていた。

 その時だった。

 不意に空が翳った。

 雲一つない晴天であったのにおかしいなと上を見上げた私は、そこにあった満天の星空に絶句した。

 そして慌ててポケットの中のスマートフォンを引っ掴んでホームボタンを押す。

 表示された時刻は10時29分、24時制だからもしも私が何かしらのポンコツを発揮して午後10時29分までの記憶を失ったのだとしても22時29分と表記されるはずなのだ。

 もう一度上を見上げた、こんな状況でなければ見惚れていたであろう満天の星空が絶賛健在中だった。

 ひょっとして、私がおかしくなった上にスマートフォンが壊れたのだろうか?

 そう思った時点でもう一つの事実を見つける。

「……圏外」

 画面左上にその文字を見つける、慌てて一度機内モードにして電波を切断して機内モードを解除してみたけど、相変わらず圏外だ。

「ええ……なあにこれ……」

 もう一度星空を見上げて、周囲をキョロキョロと見渡してみた。

 誰もいなかった。

「……あ、あれ……この辺……人通りそこそこ多いはずなのでは……?」

 私が今歩いているのは世界的にも有名な桜並木なのだ。

 シーズンでないのならいざ知らず、こんな桜が満開の時期であるのなら、昼夜関わらず人でごった返しているはずなのだ。

 現に、青空だった時のこの道はそこそこの人で溢れていた。

 夜であっても夜桜を楽しもうとする観光客でごった返すと聞いているし、テレビでもたまにみたことがある。

 だけど、誰もいない。

「……流石にこれ、やばい案件……かな? 古い街だしそういう話はよく聞くし……私も怪物だし……」

 そういう手合いのものはそういうものと惹かれ合う。

 あの魔女はそう言っていたし、実際私は中学二年生の夏休みにそういう手合いのものに遭遇して、何本も腕を砕かれた。

 あれはすごく痛かった、いやまあ本物の腕が砕けるのならいざ知らず、砕かれたのはガラスの腕だったから見た目上の損害もなく、だからこそ何ともなかったのだが。

 ――君はそうやって、ずっとずっと傷と痛みを隠して生きていくんだねえ。

 ――だから誰にもその痛みを理解されずに、傷と痛みを抱え込んだことすら知られずに、誰にも同情されずに誰にも大事にされずに、ボロ雑巾のように生きるしかないんだ。

 ――だけどそれが君の業だ、君はずぅっとそうやって、苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで、誰に救われることなく、救いの手を取ろうともせず生きていくのだろう。

 やけに憐れみ深い魔女の言葉を何故か思い出した。

 あの魔女はやたらと私を可哀想なものとして扱いたがったが、私のどこが可哀想なんだろうか。

「……圏外でなければあの魔女に要相談、ですんだんだけど」

 それならこの『夜』の謎が解明されそうな気がする

 だけど圏外なら仕方ない、自力でこの謎を解くしかない。

 とりあえず人を探そう、いなければなるべく遠くまで歩いてみよう。

 異界に紛れ込んでしまったのならどうしようもないが、何者かが作った結界の中に取り込まれた、あるいは足を踏み入れてしまったのであればその結界から抜け出てしまえば元の場所に帰れるはずだ。

 だからあるかどうかわからない結界の境界を目指しつつ人を探す、というのが現時点での私が行える最善策だった。


「いない、なあ」

 五分近く歩き回ったが、誰にも遭遇しなかった。

 何もない田舎町ならそれでもおかしくはないのだろうけど、観光名所である古都では確実に異常事態だろう。

 その辺のコンビニを確認したけど店員すらいなかったから、確実にここは現実ではないのだろう。

 自分の腕とあの夏休みがなければ多分私は発狂してたと思う。

「――けどまあ、このくらいなら……何もいないし……」

 と、呟いたところで視界に鮮やかな赤が映った。

 人がいた。

 髪が長い、赤色の着物を着た綺麗な女の子だった。

 多分、女の子なのだろう、あれで男だと言われたら多分私は発狂する。

 そう、女の子なのだ、一瞬彼と見間違えかけたけど――あれは、女の子にしか見えない。

 他人の空似、なのだろう。

 というか髪の色も目の色も違う、似ているのは顔だけだ。

 やっと見つけたという感情はすぐに萎んで消えた。

 それでも心臓が痛い、自分で自分の腕を砕いてしまいたい衝動に駆られたが、その感情を抑え込む。

 役立たずな私の腕、生身の腕はどうしようもない役立たずで、ガラスの腕は手遅れだった。

 だけど、今はそんなことはどうでもいいと首を振る。

 そして、その女の子に声をかけようとしたところで私はそれに気付いた。

 女の子の真正面に形容しがたい怪物がいた。

 私の語彙力ではそれを表現することができない、何に似ているとも言い難い奇妙な形をした、一目見ただけで異形であると理解させられるような造形だった。

 その怪物が、無防備に立つ女の子に向かって――今、飛びかかった。

「――っ!!?」

 間に合えと願いつつ私は駆け出しながら二本のガラスの腕を伸ばす。

 そしてギリギリなんとか間に合った。

 私は女の子とその怪物の間に割って入る。

 それでも勢いを止めない、勢いを止められない怪物めがけて右のガラスの腕を、女の子に左のガラスの腕を伸ばす。

「……っ」

 右のガラスの腕で怪物をひとまきにして左に投げる――いや投げようとした。

 当然それは失敗したが、それでも怪物の軌道を変えることにはギリギリ成功し、怪物は私と女の子をそれて私達の左側に、ついでに急な軌道修正に耐え切れなかったのか転倒していた。

 それと同時に左のガラスの腕で女の子をできるだけ遠くに突き飛ばした。

「早く逃げ……っ!」

 叫ぶと同時に右のガラスの腕に限界がきた。

 ピシ、と右のガラスの腕に亀裂が走る。

 その亀裂は非常に細かく、毛細血管のようにピシピシミシミシと広がっていく。

「……あ」

 まって、嘘まってもうちょっともって私の腕。

 それは久しぶりの痛みだった、そしてある程度の覚悟すらできていない状態での不意打ちに近いものだった。

 だから、私は私らしくもなく無様に痛みに呻くことしかできなかった。

 細かい細かい亀裂が広がるごとに激痛が広がった。

 腕が、私の腕に、ゆっくりと細い亀裂が広がる。

 一瞬で砕けてくれればどれだけ良かっただろうかと何度思ったかわからない。

 だけど、そう簡単に私の腕は砕けてくれないのだ。

 亀裂が完全に、指先から根本まで広がって。

 粉々に砕けた。

「ぎゃあ!!」

 みっともない悲鳴をあげていた、無様に身体がびくりびくりと痙攣し、目からボロボロと汁が流れる。

 ガラスの腕はいつもと同じように特大級の激痛を残して砕け散った。

「……いた、いた……くない……!! こんなの……このくら……!」

 痛いと弱音を吐きそうになったが直前で軌道修正に成功する。

 ああ、この程度なんてことはない、いくらでも増殖できる腕の20本や30本、どうってことない。

 まだ無事な左のガラスの腕で転倒した怪物の体を抑え込む。

 ついでに右からもう一本ガラスの腕を生やしてそちらでも抑え込む。

「……にげて、そこのひと……わたしが、おさえこむ、から……!!」

 倒すとは言えなかった、せいぜい数秒の足止めが限界だ。

 いくらでも増やせるとはいえ、限界まで伸ばそうと思えば100メートルくらいは伸ばせるとはいえ、私のガラスの腕は脆い上に非力だ。

 簡単に砕ける使い捨ての腕、自分の生身の腕よりは多少腕力があるが、それでもガラスの腕が持つ腕力は女子中学生が持つ平均的なそれとほとんど変わらない。

「……もって、じゅうびょう、だから……はやく……!!」

 女の子の方に向かって顔を向けて叫んだ――はずだった。

 もうすでにいなかった。

 そのことにホッとしたのはほんの一瞬。

「……なに、やって」

 いつの間にか、女の子が怪物の真ん前に立っていた。

 至近距離だ、手を伸ばせば簡単に触れられるくらいの。

「……ちょ、ま。かんべん……して、おさえ、きれな……っ」

 二本のガラスの腕で怪物をぐるぐる巻きにして抑え込む、怪物は私の腕から逃れようともがく。

 多分もう少しでどっちにも亀裂が入る、この長さのガラスの腕を二本も砕かれたら、最悪即座に失血死でご臨終だ。

 それは別に構わない、だけど、この女の子だけは。

 その時奇妙に軽い音がした。

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