2 力を失うということ

 パッタン、パッタン。継続的に響く機織りの音。

「う……」

 セインリエスはぼんやりと目を覚ます。最初に目に入ったのは見知らぬ天井、そして窓に掛けられた質素なカーテン。首を巡らせば簡素な家具の並んだ部屋であることが分かった。そして自分の怪我した身体が治療されていることに気づき、首をかしげる。そのまま身を起こそうとし、瞬間走った激痛に、思わず苦悶の声を上げる。すると。

「わぁ、目が覚めたんですかー?」

 機織りの音が止み、女の子の素っ頓狂な声がした。軽快な足音が近づいてきて、そっと部屋の扉が開いた。

「すっごい怪我してたんです、まだ動いちゃだめですよー?」

 扉から一人の少女が顔をのぞかせた。暗い部屋の中では顔の詳細は分からない。彼女が自分の治療をしたのだろうか、セインリエスはそう思ったが。

「……余計なことをしてくれたな」

 口から出たのは冷たい言葉。

 驚く少女に彼は言う。

「見捨ててくれても良かったのだぞ、私は死んでも良かったのだ。生きたまま地上で恥をさらすくらいなら……」

「地上で恥をさらすって、どこかの武人さんなんです?」

 きょとんと少女は首をかしげている。

「でもそんなこと言われたって……。あの。一度倒れているのを見つけちゃったから、治るまでは面倒見させていただきますよ! 死にたい? 生きちゃいけない理由なんて、どこにあるんです? 恥ずかしいから死にたいとか、そんなことのために大切な命を捨てちゃうんです?」

「……武人じゃない。そもそも何も知らないお前に言われたくはないよ」

 セインリエスの態度は素っ気ない。

 なら、と少女は嬉しそうに言った。

「色々教えてください! そうしたら私にもあなたの気持ちが分かるかもです!」

「教える気はない。放っておいてくれ」

「……そうですか」

 彼女はしゅんとうなだれた。

 でも、と彼女はセインリエスの方を見る。

「名前くらい教えてくれたっていいですよね? 私はティア、機織りの娘です! あなたは? 白い髪の美人さん!」

「……セイン」

 名乗ると、ティアと名乗った娘は大きく頷いた。

「セインさん! これからしばらく、よろしくお願いします!」

 あ、そうだ、ご飯の準備してきますね、と言って、彼女は扉を閉めた。

 セインリエスは暗闇の中、ほうっと大きな息をつく。力を失ったのは本当か試してみようと、なるべく体に負担がかからないようにして慣れた仕草で霧の力を展開、


 できなかった。


 いつも通り、空気中の水蒸気から霧を生み出そうとしたのに。霧の神様である彼にはそんなこと、容易くできるはずなのに。


 できなかった。


 天界から追放された日に感じた虚無感と倦怠感は、力を奪われたことによるのか、と彼は思う。

 これまで、力が彼のすべてだった。力が彼の存在証明だった。強い力で他の神々を黙らせること。それだけを楽しみに日々を生きていた彼にとって、その力の消失は自分自身の消失と同意義だった。

 ああ、と彼は絶望する。

 自分自身を失って、今後どうやって生きればいいというのか。

 こんな生き地獄に放り込まれるくらいならば、誰も助けに来なければ良かったとありもしない未来を思い浮かべる。

 このまま死んでしまえればいいのに、と彼は思ったが、神に自殺は許されない。神としての力を奪われたってそれは同じ。

「……くそっ」

 呟き、壁を殴った。感じたのは鈍い痛み。痛みとはこういうものなのだと、自分がこれまで誰かに与え続けてきたのはこういうものなのだとぼんやりとは理解したが、それがそうやって傷つけてきた誰かへの謝罪や後悔になることはない。

 そうやって起き上がれぬ身体で、虚無感に苛まれ死にたいと思っていたら。

 軽快な足音。再び、扉が開いた。

「セインさーん、起きてますかー? ご飯、持ってきたんです! 食べられますかー?」

 声と一緒に、少女が入ってくる。その手にはお盆らしきもの。

「暗いとご飯食べにくいかもなので、カーテン開けちゃいますねー!」

 明るく楽しげに、彼女はくるくると動き出す。セインリエスは鬱陶しげな顔をしたが、彼女は気づかず明るく話し掛けてくる。開けられたカーテンから光が差し込んだ。窓の立て付けが悪いのか、微妙に開いた隙間から冷たい初春の風が吹いてくる。

 これまで風を寒いと思ったことはなかったのに、その寒さに思わず震えたら。

 心配げに、少女がセインリエスの顔を覗き込んできた。

「あ、寒かったですー? 済みません、家が貧乏なので、色々がたついているんです」

 申し訳なさそうに謝る少女に、大丈夫だとセインリエスは返す。

 ご飯食べられますか、と彼女が訊ねたので、ああ、と頷きゆっくりと身を起こす。全身に激痛が走った。怪我なんてほとんど経験がなかったからその痛みは尋常ではなく、呻き声をあげてベッドに倒れた。

「あらあら……。無理したっていいことないですよー? 痛いなら痛いって、素直に言っちゃえばいいのです!」

「…………」

 死んだ瞳でセインリエスは少女を見た。すると彼女は慈愛に満ちた表情を浮かべた。

「辛いことがあったんですね、嫌なことがあったんですね。でも大丈夫、ここにはそんなものないのです! 安心していいのですよー!」

 それはこれまで掛けられたことのなかった優しい言葉、見たことのなかった明るい笑顔。

 天界にいた時の彼は嫌われ者で、そんな言葉、そんな笑顔を向けられたことなんて一度もなかった。

 だから彼は、思ってしまった。そんな彼女に対して、好感情を。

 その感情を、何というのか彼は知らない。けれど拒絶ばかりして自分の心を守り、誰一人として愛せなかった彼はこの日、確かに変わったのだ。

 セインリエスは、生まれて初めての言葉を口にする。

「……ありがとう」

 微笑めば、少女は満面の笑みを浮かべた。

「セインさん、そんな顔も出来るのですね! 私、あなたの笑った顔が好きですよー? セインさん、そんなに美人さんなんですからもっと笑った方がきっと、素敵になれると思いますっ!」

「…………」

 気が付けば、セインリエスは眠っていた。

 誰とも対立しなくて良い、誰とも戦わなくて良い。そんな温かな世界は、初めての世界は、彼の心に平穏を与えた。


  ◇

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