桜の記憶

「……こんな早くに来る必要、絶対なかっただろ?」


 呻きながら睨むと、桜はいつものようにきょとんとした表情になる。


「……何で?」


「いや、何でって……」


 どこから話せば理解させられるのか真面目に悩みそうになり、すぐに諦める。


 代わりに大きくため息を吐いて俺は左腕を擦った。


 既に三ヵ所ほど、蚊に刺されてしまった。


「まぁ、うん。こうなるのを予測できなかった俺も馬鹿なんだけどな」


「そっか、じゃあ次からは気を付けないとね」


 側頭部を叩き倒したくなる衝動に駆られ、つい右手に力がこもる。


 たぶん、目の前の馬鹿はこちらが言いたいことなど本気で理解できていないのだろう。


「あー……、ここにきて調子狂わされるとは」


 ぼやき、正面に広がる暗い森へと意識を逸らす。


 お互い、真剣に悩んだ末にここへ来たはず。


 そのはずだ。


 根っからのお気楽なのか何なのか、そんな思いも桜を見ていると揺らぎそうになってしまうのが情けない。


 温い風が、周囲に群生する杉の木たちをザワザワと蠢かせる。

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